鈴木光司 らせん 目 次 プロローグ 第一章 解 剖 第二章 失 踪 第三章 解 読 第四章 進 化 第五章 予 兆 エピローグ 単行本あとがき プロローグ  海に沈んでゆく夢の途中で、安藤満男は眠りから覚めた。波音にトゥルルルルルという電話のベルがかぶさり、次の瞬間には、波にさらわれるように一気に覚醒《かくせい》へと持っていかれた。  安藤はベッドから手を伸ばし、受話器を取った。 「もしもし……」  しばらくの間、受話器はうんともすんとも言わない。 「もしもし」  語尾を上げて相手の返事を促すと、ぞっとするほど暗い女の声が返ってきた。 「届いた?」  その声を聞いたとたん、安藤は、暗い淵《ふち》に引きずり込まれそうな虚脱感を覚えた。さっきまで見ていた夢の情景が甦《よみがえ》る。海辺で不意の高波に飲み込まれ、上下左右の方向感覚を失って海底深く沈み込み、なす術もなく波に翻弄《ほんろう》される夢……、いつもと同じく、脛《すね》のあたりをまさぐる小さな手の存在を感じた。海の夢を見るたびに、決まって小さな手の感触が足元に甦る。イソギンチャクに似た五本の指が、つるりと滑るようにして、海の底に消えてしまうのだ。どうしようもなく歯がゆかった。手を伸ばせば届きそうでいて、身体を掴《つか》み切れない。細く柔らかな数本の髪の毛を残し、身体はいつも深く沈み込んでゆく。  女の声は、夢の中に出てくる髪の毛の柔らかさを、いやというほど思い出させた。 「ああ、届いたよ」  うんざりした気分で、安藤は答える。  妻の名で、署名、捺印《なついん》された離婚届の用紙は、二、三日前に届いていた。安藤が署名して印を押せば、用紙本来の役割は完全になるはずだった。だが、彼はまだそうしていなかった。 「そう、で?」  妻は気怠《けだる》く催促する。七年間の結婚生活に終止符が打たれようというのに、やけにあっさりとしたものだ。 「で、って?」 「署名、捺印の上、送り返して欲しいんだけど」  安藤は無言で首を振った。もう一度最初からやり直したいという意思を、これまでに何度明らかにしたことか。そのたびに妻は、実現不可能な条件を提示して、決意の堅さを見せつけたものだ。自尊心をかなぐり捨てた懇願にもそろそろ疲れ始める頃だった。 「わかった、君の望む通りにする」  案外あっけなく、安藤は折れた。  妻は、しばらく黙っていたが、かすれ気味の声で、 「で、どうなのよ」  とさらに説明を求めてくる。 「どうって、なにが?」  間の抜けた聞き返しだった。 「だから、あなたが、わたしに対して、したことよ」  安藤は受話器を握りしめたまま、両目を強く閉じた。  ……離婚が成立しても、おれは毎朝電話で同じ非難を浴びることになるのか。  そう思うと気は滅入る。 「すまなかったと思っている」  気持ちを込めるでもなく、さらりと言ってのけたのが、彼女の気分を損ねたらしい。 「かわいくなかったんでしょ」 「ばか、なにを言う」 「だって……」 「わかり切ったことを聞くな」 「じゃ、どうしてあんなことをしたのよ」  声が震えていた。半狂乱に陥る一歩手前の症状。「もう二度とかけてくるな」と本当は受話器をたたきつけたかった。だが、安藤は我慢した。それがせめてもの償いだった。黙って、妻の非難に耐え、悲しみの捌《は》け口になることしか、今の安藤にできることはない。 「なんとか言ったらどうなのよ」  妻は涙声になっていた。 「なんとかって……、この一年と三ケ月、おれたちは毎日、あのことばかりを話し合ってきた。もう言うことは何もない」 「返して!」  脈絡を一切無視した、悲痛な叫びだった。何を返してほしいのか問うまでもない。返してほしいのは、安藤も同じだった。無駄と知りつつ、毎日神に祈ってきたのだ。返してくれ、お願いだから返してくれと。だが、それは……。 「それは、無理だ」  相手を落ち着かせようと、噛《か》んで含めるように言った。 「返してったら!」  過去の不幸に縛られ、新たな人生を生きようとしない妻の姿が、たまらなく哀れに思える。安藤のほうは、もう少し建設的に生きようとしたつもりだった。失《な》くしたものは二度と返らないのだから、夫婦の絆《きずな》を強く、授かれるものなら次の生命を考えようと、妻を説得した労力は量り知れない。こんなことで離婚などしたくはなかった。元通りの仲のいい夫婦関係に戻れるのなら、どんな努力も惜しまない覚悟があった。だが、妻は、一方的に責任を押しつけるだけで、未来に目を向けようとはしない。 「返して!」 「これ以上、どうしろっていうんだ」 「あなたには、自分のやったことがちっともわかってない!」  安藤は向こうに聞こえるように、大きく溜《た》め息をついた。不毛な同じセリフの繰り返し。神経を病んでいるのは明らかだった。本当は友人の精神科医でも紹介してやるべきなのだろうが、病院長の父を持つ彼女には、余計なおせっかいに過ぎない。 「もう切るよ」 「いっつも、逃げてばかり」 「早く忘れて、立ち直って欲しい」  無理とわかってはいたが、他になんと言えばいいのか、思いつかない。  安藤は、受話器を置こうとした。その瞬間、送話口から絶叫が漏れた。 「返してよ、わたしの孝則ちゃんを……」  電話が切れても、下向きの送話口から孝則という名前の残響がみるみる溢《あふ》れ出し、部屋に充満していく。安藤は、気付かぬうちに声に出してつぶやいていた。  ……孝則、孝則、孝則。  頭を抱え、ベッドの上で胎児のように身体を丸め、安藤はしばらくの間、動くこともできずにいた。だが、時計を見ればそうもしていられない。そろそろ仕事に出なくてはならない時間だった。  二度と電話がかかってこないよう、モジュラージャックをコンセントからはずし、安藤は窓辺に立った。重苦しい空気を入れ替えるために窓を開けると、代々木公園から飛来して近くの電線に止まっているカラスの鳴き声が、驚くほど間近から聞こえた。真っ暗な海底の夢と、息子を呼ぶ妻の絶叫の後では、鳥類の空間的な広がりを持つ鳴き声に、幾分ほっとさせられる。秋晴れの穏やかな土曜の始まりだった。  素晴らしい天気に、却《かえ》って傷心を刺激されたのか、涙が溢れそうになり、安藤はティッシュで鼻をかんだ。ワンルームには自分ひとりしかいない。安藤は再びベッドに倒れ込んだ。さっき堪《こら》えたはずの涙が、思いがけず両方の目尻から流れ出した。  静かに流れていた涙は、やがて嗚咽《おえつ》に変わり、枕《まくら》を抱いて何度も息子の名を呼んだ。崩れてしまう自分が情けなかった。悲しみは毎日連続して訪れるのではなく、なにかのきっかけで堪えきれず溢れてくる。ここ二週間、亡くした息子のために涙を流したことはなかった。涙と涙の間隔は、確かに長くなっている。にもかかわらず、突如|湧《わ》き上がる悲しみの深さは、以前と少しも変わらないのだ。あと何年、この深さは持続するのだろう。それを思うと、絶望的な気分に襲われる。  安藤は、本と本の間に挟んであった封筒から、絡み合った数本の髪の毛を取り出した。息子の身体の一部である。残ったのはこれだけだった。息子の頭に手が触れ、引き寄せると同時にごそっと抜けて絡みついてきた。海の中を駆け回った後もはがれることなく指についていたのは奇跡に近い。薬指にはめた結婚指輪の隙間《すきま》に挟まっていたのだ。遺体は上がらず、荼毘《だび》にふすこともできなかったため、安藤にとってはこの髪の毛が遺骨代わりだ。  安藤は、髪の毛を頬《ほお》にあててみた。そうすると息子の肌触りを思い出す。目をつぶると、すぐそこにいるかのように、息子の面影が脳裏に甦る。  歯を磨き終わっても、安藤は上半身裸で鏡の前に立ち続けた。顎《あご》に手をあて、軽く左右に動かしてみる。舌の先で触れると、歯垢《しこう》がまだ少し歯の裏に残っていた。顎のすぐ下、首筋のところに、髭《ひげ》の剃《そ》り残しがある。剃刀《かみそり》を首筋にあて、数本の髭を剃り落とすと、そのままの姿勢で安藤は自分の上半身に見入った。顎を上に向け、伸び切った白い喉《のど》を鏡に映し出す。剃刀を持ち替え、峰の部分を喉もとに当て直すと、首から胸、腹へと剃刀を下げていき、臍《へそ》のあたりで手を止めた。両乳首の真ん中を通って腹へと、皮膚の表面を引っ掻《か》いて白い線が走る。彼は、剃刀をメスに見立てて、自分の肉体を解剖するシーンを想像していた。いつも死体を切り開いている安藤には、胸の内側の様子など手にとるようにわかってしまう。今この瞬間、ピンク色の二つの肺に抱かれるようにして、握り拳大の心臓は確かな鼓動を繰り返している。意識を集中させると、内部からの音が聞こえてくるようだ。執拗《しつよう》な胸の痛み。悲嘆は、内臓のどこにこびり着いているのか。もし心臓ならば、深い悔恨が絡みつくその部分を、この手でえぐり出してしまいたい。  にじみ出る汗で、持っていた剃刀が滑りそうになり、剃刀を洗面所の棚に置いた。顔を横に向けると、喉の右側に、血の筋ができている。髭を剃り落としたとき、間違って皮膚を切ったのだろう。刃先が皮膚にくいこんだ瞬間、ピリッとした痛みが走って当然なのに、血の跡だけが視覚に浮き上がり、伴うはずの痛みがあまり感じられない。最近なんとなく痛覚が鈍くなっているように思う。血を見て初めて傷を負ったと気付くことが何度かある。生への情熱が薄れたせいかもしれない。  タオルで首筋を押さえながら、安藤ははずしておいた腕時計を手にとった。八時半。そろそろ仕事に出かける時間だ。今の彼にとっては仕事だけが救いだった。仕事に没頭している間だけは、過去の記憶から逃れることができる。K大学医学部法医学教室の講師と東京都監察医務院の監察医を兼任する安藤にとって、遺体を解剖しているときが唯一、愛する息子の死を忘れられる時間だった。皮肉なことに、死体と戯れることによって、身近な者の死から解放されるのだ。  玄関を出て、マンションのロビーを抜けるとき、安藤はいつもの癖で腕時計を見た。普段より五分程遅い。離婚届への署名捺印に割《さ》いた五分である。たった五分で、細々とつながっていた妻との絆は切れてしまった。大学までの道のりで、安藤の知る限りポストは三つある。最初のポストに投函《とうかん》しようと覚悟を決め、安藤は駅までの道を急いだ。 第一章 解 剖 1  解剖の当番である安藤は、監察医務院のオフィスで、これから解剖予定の死体のファイルに目を通した。現場での状況を写したポラロイド写真を見比べているうちに手は汗ばみ、何度も洗面所に足を運んで手を洗った。十月の中旬、汗ばむ季節ではなかったが、もともと汗かきの安藤は日に何度も手を洗う癖がある。  もう一度、死体検案調書に添えられた数枚のポラロイド写真をテーブルに広げ、その一枚にじっと見入る。がっちりした体格の男が、ベッドの端に頭をもたせかけて息絶えている写真。外傷はどこにも見当たらない。次の一枚は顔のアップ。鬱血《うつけつ》もなく、首を絞められた痕跡《こんせき》もなかった。どの写真を見ても、死因を確定するだけの特徴的な所見はない。だからこそ、犯罪と無関係らしいと思われても、監察医の判断で行政解剖の運びとなったのだ。恐らく突然死であろうが、一種の変死には違いなく、法律上、死因不明のまま火葬にすることはできない。  両手両足を一杯に広げた、いわゆる大の字の死体。安藤はその男をよく知っている。まさか、大学時代の友人を解剖することになろうとは思いも寄らなかった。ほんの十二時間前まで生きていた男……、高山竜司は、医学部の六年間をともに過ごした同級生だった。  卒業生のほとんどが臨床医を目指す中にあって、法医学教室に入った安藤は変わり者と噂《うわさ》されたが、それ以上にコースを逸脱したのが、高山竜司だった。彼は、トップクラスの成績で医学部を卒業したにもかかわらず、同じ大学の文学部哲学科に学士入学し、死亡時の肩書きは文学部哲学科の講師で専門は論理学。学部が異なるとはいえ、安藤と同じ講師というポジションを手に入れたことになる。文学部三年に入学し直したにしては、ずいぶんと早い出世だった。年齢は三十二歳、二浪して入学した安藤より二歳若い。  安藤は死亡時刻の記入された欄に目をとめた。そこには、昨夜の九時四十九分と記載されている。 「死亡時間だけど、ずいぶん正確ですね」  安藤はそう言って、解剖の立会人である背の高い警部補を見上げた。竜司は、東中野のアパートで独り暮らしのはずだった。独り暮らしの男が自宅で突然死に見舞われたにしては、死亡時間が正確過ぎる。 「なに、偶然ですよ」  警部補はこともなげにそう言い、傍らの椅子《いす》に腰をおろす。 「偶然って、どんな?」  安藤が聞いた。警部補は、もうひとりの立会人である若い巡査部長のほうを振り返る。 「高野舞さん、確か、いらしてたよな」 「ええ、いらしてます。遺族待合室のほうで、さっき見かけました」 「呼んできてくれないかな」 「わかりました」  巡査部長はオフィスから出ていった。 「ご遺族ではないんですがね、死体の第一発見者の女性が、ちょうどここにいらしてるんです。高山講師を師と慕う大学生なんですが、ま、ようするに恋人ってとこですか。調書に目を通して、まだなにか不審な点がありましたら、先生のほうからなんなりと聞いてみてくださいよ」  行政解剖が終わり次第、遺体は遺族に引き渡されることになっていた。今回の場合、高山竜司の母と兄夫婦がここの待合室でそのときを待っていたが、死体発見者である恋人の高野舞という女性が同席しているという。  部屋に入りかけ、高野舞は一旦《いつたん》足を止めて左右に首を振った。その姿を認めると、安藤はすかさず立ち上がり、「お手数かけます」と頭を下げ、椅子をすすめた。  高野舞は、濃紺の地味なワンピースを着て、手に白いハンカチを握っていた。女性の美しさは、死を身近に引き寄せるほどに、際立ってくるのだろうか。華奢《きやしや》な身体から伸びた手足は細く、濃いワンピースのせいか肌の白さが強調されている。形の整った卵型の顔、間違いなく頭蓋《ずがい》は美しい曲面でできている。解剖しなくても、安藤には手に取るようにわかってしまう。彼女の皮膚の下の臓器の色、整った骨格。そこに触れてみたい欲求に駆られた。  警部補から紹介されて互いに名乗り合うと、舞は、安藤のすすめるまま椅子に腰を下ろそうとしてよろけ、傍らの机に手をついた。 「だいじょうぶですか」  安藤は、左右に首を振って、舞の顔色を視診する。白い肌の奥が灰色がかっていて、貧血を思わせた。 「いえ、たいしたことありません」  舞はハンカチを額にあて、うつむきかげんに床の一点を見つめていたが、警部補が持ってきた水を飲み、少し落ち着いて顔を上げると、聞き取れぬほどの声で、 「すみません、ちょっと……」  と言った。  安藤はすぐにピンときた。舞は今生理中で、心労が重なって貧血気味になっているのかもしれない。もしそうだとすれば、別段心配するには及ばない。 「実は、亡くなられた高山竜司君は、僕の学生時代の友人でした」  リラックスさせるためもあって、安藤は自分と高山竜司が医学部時代の同級生であることを告げた。  舞は、伏し目がちだった瞳《ひとみ》をぱっと上に向けた。 「安藤さん、とおっしゃいました?」 「ええ、そうですが」  舞はしげしげと安藤の顔を見つめ、親しみを込めて両目を細めた。そうして、懐かしい人間に出合ったような表情で、ぺこんと頭を下げる。 「よろしくお願いします」  友人ならば遺体を粗略に扱わないだろうとつい頼もしくなった……、安藤は舞の表情の変化をそんなふうに解釈した。だが、友人だろうとそうでなかろうと、安藤のメスさばきはまったく変わることはない。 「すみませんが、高野さん、死体発見時の状況を、もう一度、先生に説明してもらえませんか」  警部補が口を挟んだ。事件性のない変死体にのんびりかかずらってもいられないのだろう。ここで故人を偲《しの》んでの思い出話に花を咲かせられてはかなわないと、先手を打ってきたのだ。  第一発見者である高野舞にわざわざ来てもらったのは、昨夜の九時五十分前後の出来事を、解剖担当の安藤に直接語ってもらいたいがためである。状況がはっきりすれば死因を確定する役にたつという配慮があってのことだ。  舞は声のトーンを落とし、昨夜警察官に説明したとほぼ同じ内容を、もう一度安藤に語り始めた。 「電話が鳴ったのは、お風呂を終え、ドライヤーで髪を乾かしているときでした。すぐに時計を見ました。癖なんです。かかってくる時間を見れば、相手がだれなのかだいたい見当がつくんです。たいてい、かけるのはこちらからで、高山先生からはめったにかかってこない。かかってきたとしても、夜の九時を過ぎることは少なかったのです。だから、最初、先生からとは思いませんでした。ただ『はい』とだけ答えて受話器を上げると、一呼吸おいて受話器の向こうから悲鳴が上がりました。いたずら電話かと、最初は驚いて受話器を耳から離したんですが、悲鳴はやがてうめき声に変わり、ついには途絶え……、なんだかこの世のものとは思われない静寂に包まれていったんです。恐る恐る受話器に耳を当て、気配を探りました。突如|弾《はじ》かれたように、脳裏に高山先生の顔が浮かびました。悲鳴には聞き覚えがあったのです。高山先生の声に似ている。私は、一度フックを元に戻すと、今度はこちらから先生の部屋の番号を回しましたが、回線はつながったままでした。それでようやく、電話をかけてきたのが先生で、彼の身になにかよくないことが起こったらしいと確信したのです」 「竜司君とは、電話で、なにも喋《しやべ》らなかったのですね」  安藤がそう尋ねると、舞は静かに首を横に振る。 「ええ、一言も。ただ、わたし、悲鳴を聞いただけです」  安藤は手元のメモ用紙に何事か書き込むと、先を促した。 「で、そのあとは?」 「一時間ばかり電車を乗り継いで先生のアパートを尋ねました。そうして、部屋に上がり、その、台所の奥の六畳間のベッドに……」 「部屋の鍵は?」 「先生から、合鍵を預かっていましたから」  恥ずかしそうにそう言う様が初々しい。 「いえ、つまり、部屋は内側から鍵がかかっていたのですね」 「ええ、かかっていました」  安藤は、さらに先を促す。 「で、あなたは、部屋に上がり込んだ」 「先生は、ベッドの端に頭を乗せ、仰向けの姿勢で両手両足を広げ……」  舞は声をつまらせた。そのときの光景が目に浮かんだのか、さかんに頭を振り、シーンを追い出そうとしている。  舞の説明を待つまでもなかった。安藤の手元には数枚の写真がある。息絶えた竜司の死体。写真が如実に語っている。  安藤は、その写真をうちわ代わりにして、汗ばむ顔に風を送った。 「部屋の様子ですが、なにか変わったところは?」 「別に、これといって……、ああ、でも受話器がはずれたままになって、ピーという音が鳴り続けていました」  安藤は、死体検案調書の記録と舞の言葉を参考に、状況を整理してみる。竜司は何か身体に異変が起きたのを知り、恋人である高野舞のもとに電話を入れた……、助けてもらいたかったからだろうか。しかし、ならばなぜ、119番しなかったのだ。たとえば、胸に痛みを覚え、電話するだけの余裕があったとしたら、普通まず、救急車を呼ぶはずだ。 「119番へ電話したのは?」 「わたしです」 「どこから?」 「高山先生の部屋からです」 「それ以前に、竜司君は自分で119番にかけてはいないんですね」  ちらっと目をやると、警部補は軽くうなずいた。救急車要請の電話がなされてないのは、既に確認済みらしい。  安藤は、自殺の可能性を一瞬思い浮かべた。恋人の冷たい仕打ちに悩み自殺を決意し、毒物を飲んだ上で、自殺に追い込んだ当の本人に電話をかけ、ねちねちと責めさいなもうとしたが、断末魔の声を浴びせ掛けただけで果ててしまったというシナリオである。  しかし、調書を読む限り自殺の線は薄い。毒物が入っていたらしい容器は現場から発見されていないし、舞が持ち去ったという証拠もなかった。第一、彼女の表情を見ればそんな疑いは吹き飛んでしまう。男女の機微に疎い人間にでも一目瞭然《いちもくりようぜん》だった。この女性が高山竜司という男をいかに尊敬していたかなど、容易に推測できてしまう。ときどき見せる目のうるみは、愛する者を自殺に追い込んだ後悔によるものではない。二度とその肉体に触れることができないという悲しみがもたらしている。鏡を見るようなものだ。毎朝、安藤は鏡に映る自分の顔を見て、悲しみの表情には慣れ親しんでいた。悲しんでいるフリなど通用しない。監察医務院にまで足を運んで解剖後の遺体を受け取ろうという行為にも、そのことはよく表れている。それに第一、竜司ほどの豪胆な男が、恋人に振られたぐらいで自殺するわけがない。  ……とするとやはり、心臓か頭のどちらかだろうな。  安藤は、急性心不全か脳内部の出血だろうと目星をつけた。もちろん、解剖の結果、胃の内容物に青酸カリが発見されないとも限らない。あるいは食中毒、一酸化炭素中毒、それ以外の、まったく予期しない死因が判明することも稀《まれ》にある。しかし、これまで、予想を大きくはずれたことはあまりなかった。肉体の突然の異変を察知すると同時に高山竜司は死を覚悟し、恋人である高野舞の声を最後に聞こうとしたのかもしれない。ところが、間に合わず、皮肉にも断末魔の声を浴びせただけで、竜司の心臓は停止した……。多かれ少なかれ、そんなところだろう。  そのとき、解剖助手を務める臨床検査技師がオフィスに顔を出し、小さな声で告げた。 「先生、準備ができました」  安藤は立ち上がり、だれにともなく、 「じゃ、そろそろ」  と言った。  いずれにしろ、解剖を終えれば事実は明らかになるのだ。高山竜司の死因。これまでの経験上、判明しなかった例はない。だから、彼は高をくくっていた。今度の場合も、いともあっけなく竜司の命を奪ったものの正体は明らかになるだろうと。 2  解剖室に至る廊下には、秋晴れの午前の光が差し込んでいた。にもかかわらず、暗く湿った雰囲気が垂れ込め、歩くたびにキュッキュッと鳴るゴム長靴の音もここにあっては不気味に響く。執刀医である安藤、臨床検査技師、ふたりの警察官、足音は全部で四つだった。残りのスタッフである助手、記録係、写真技師は解剖室で先に準備を進めている。  ドアを開けると、勢いよく流れ出る水道の音が聞こえてきた。解剖台のすぐ横に設置された流しの前に助手が立ち、これから使用する用具を洗っているのだ。蛇口は通常のものよりも広く、迸《ほとばし》る水の柱は白く太い。十坪ほどのスペースは、既に床が水浸しになっている。ふたりの立会官を含め、解剖室にいる八人全員がゴム長靴を履いているのはそのためだ。通常、解剖の間は、水はほとんど流し放しになる。  解剖台の上では、素っ裸の高山竜司が白い腹を出して、安藤たちを待っていた。身長は一メートル六十そこそこだが、腹回りの脂肪の盛り上がりと肩から胸にかけての筋肉の発達具合が、ドラム缶のようにがっしりした肉体を造り上げている。その肉体の一部である右腕を、安藤は軽く持ち上げた。重力以外に、なんの力も感じられない。生命が抜けた証だった。かつて強い力を誇った男の腕が、赤ん坊の手と同様、自由に弄《もてあそ》ばれてしまう。竜司は同級生のうちでもっとも腕力が強く、腕相撲ではだれも相手にならなかった。級友たちは皆、力を込める間もなくテーブルの上に叩《たた》き付けられてきたのだ。その腕が今は力なく、支えを解けば解剖台の上にぐにゃりと落下する。  下腹部のほうに顔を向け、剥《む》き出しの性器に目をやった。黒々とした陰毛の中で、それは萎《な》え縮こまっている。亀頭のほとんどを包皮で被われた、強靱《きようじん》な肉体からは想像もつかない貧弱な器官だった。竜司と高野舞の間に男女の関係などなかったのかもしれない……、性器に残された妙な幼さが、そんなふうに思わせてしまう。  メスを手に取ると、顎の下に差し込み、下腹部まで真一文字に分厚い筋肉を引き裂いていった。死後十二時間を経た屍体内部から体温は完全に抜け切っている。カッターで肋骨《ろつこつ》を折り、一本一本除去して左右の肺を取り出し、助手に手渡す。学生時代の竜司は頑固な禁煙主義者だったが、最後まで主義を貫き通したのだろう、肺はきれいなピンク色をしていた。助手は、素早く肺の重量と大きさを計測してその結果を口述し、記録係は漏らさず書きとめてゆく。その間、臓器はあらゆる方向から写真に撮られるため、解剖室には絶え間なくフラッシュが光る。一連の作業は、手慣れたスタッフによって淀《よど》みなく進められていった。  心臓は、薄い脂肪膜で被われていた。光の加減で黄色っぽくも白っぽくも見え、平均よりも大きめだった。三百十二グラム。それが高山竜司の心の重さだ。体重の〇・三六パーセントの重量。十二時間前まで確かな鼓動を刻んでいた心臓は、外部から眺めただけで、広範囲にわたる壊死《えし》が生じているのがわかる。左側大部分が、脂肪膜の下、他の部分よりも濃い赤褐色を示している。心臓の表面を枝分かれしながらぐるりと取り囲む冠動脈の一部が、血栓等の原因で閉塞《へいそく》し、その先に血液が流れなくなり、心臓の活動は停止したのだ。見ただけでわかる典型的な心筋|梗塞《こうそく》の症状だった。  壊死の広がり具合からして、安藤には閉塞を起こしている血管部位の推測がついた。左冠動脈の枝分かれする直前の部分。ここが閉塞すれば、致死率は極めて高い。何が原因で血管が閉塞を起こしたのかは明日以降の検査を待つ他ないが、死因は明らかだった。安藤は自信を持って、「左冠動脈の閉塞による心筋梗塞」と口述し、肝臓の摘出へと移っていく。その後、腎臓《じんぞう》、脾臓《ひぞう》、腸と全ての臓器に異常がないかどうかを確認し、胃の内容物を調べたが、特に注意を引かれるものは何も発見されなかった。  頭蓋骨を切断しようとしたところで、助手が不審そうに首をかしげた。 「先生、ちょっと、そこ、喉のところなんですが……」  そう言って、助手は指先で、ぱっくりと裂けた喉の奥を差す。見ると、咽頭《いんとう》部の表面、粘膜の部分に、潰瘍《かいよう》が生じているのがわかる。そう大きなものではなく、助手の注意を受けなければ、うっかり見落としたところだろう。安藤にとっては初めて見る症状……、死因とは無関係だろうが、念のため切片に切り出した。この潰瘍が何であるかは、組織標本を作成した上での化学検査の結果を待たなければならない。  次に安藤は、竜司の頭に切れ目を入れ、後頭部から額へと頭皮を剥《は》いでいった。顔の表面、目や鼻や口の部分に、ゴワゴワとした剛毛がかぶさり、頭皮の白い裏側が無影灯にさらされる格好だった。皮一枚で顔が作られているのがよくわかる。安藤は、頭蓋骨をはずして脳を取り出した。  脳は全体的に白っぽく、無数の皺《しわ》が走り回っている。医学部は、エリートと称される学生の集合だが、その中でも竜司の能力は群を抜いていた。英、独、仏の外国語に堪能で、発表されたばかりの論文に目を通さなければ対応できない質問を多く投げかけ、講師をたじろがせたほどだ。しかし、医学を深く修めるにつれ、竜司の関心は純粋数学の領域へと移行していった。一時、クラスに暗号遊びが流行したことがあった。各自順番に暗号を出題して、だれが最も早く解読するか競い合うゲーム。トップは常に竜司で、絶対に解けないだろうと安藤が自信を持って出題した暗号を、いともたやすく解読してのける。その数学的な才能にあきれるよりも、安藤は、心の中を読まれたかのような薄寒さを覚えた。解読されたことに、どうしても合点がいかなかった。他の同級生で、安藤の出題した暗号を解読できた者はいない。しかも、安藤を除いた他の学生たちは、竜司が出題した暗号をとうとう一度も解くことができずに終わったのだ。安藤だけは一回だけ竜司の出題した暗号の解読に成功した。まぐれ当たりに過ぎないのは、彼自身よくわかっていた。論理的思考の結果ではなく、苦しまぎれに眺めた窓の外に花屋の看板が目につき、看板に記された電話番号にヒントを受けて鍵字列の謎《なぞ》を思いついたのだ。あてずっぽうが、偶然に竜司の思考の方向と重なったに過ぎない……、安藤は未だにそう思い込んでいる。  当時、安藤が竜司に対して抱いた感情は、妬《ねた》みに近い。決して竜司をコントロールすることができず、常に竜司の支配下にあるという圧迫感に、安藤は何度も自信を失いかけたことがあった。  非凡であったその頭脳を、今、安藤は眺めている。平均よりわずかに重いだけで、外見は普通の人間のものとなんら変わりはない。生前、竜司はこの細胞を駆使して何を思い、考えていたのだろう。純粋数学への興味がそのまま肥大すれば、やがては数字を失って論理学へと到達する……、その過程は理解できなくもない。あと十年生きていれば、この方面に関して際立った業績を上げたのはまず間違いないだろう。竜司の類い稀な才能に、安藤はどれほど憧《あこが》れ、嫉妬《しつと》したことか。大脳縦裂の溝は深く、けっして踏破できぬ峰のように前頭葉は盛り上がっている。  しかし、もう終わったのだ。この細胞は、働きを停止している。心筋梗塞によって鼓動をやめた心臓のせいで、脳は死んでしまった。結局のところ、今、竜司の肉体は安藤の支配下にあった。  安藤は、脳の内部に出血等のないのを確認した上で、頭蓋骨を元に戻した。  メスをとってから五十分ばかりが経過していた。ほとんどの場合、解剖は一時間前後で終了する。あらかた調べ終えた頃、安藤はふと思い出したように空になった竜司の下腹部の内側に手を差し入れ、指先で探り、うずらの卵ほどのたまをふたつ引き抜いた。灰色がかった肌色をして、ふたつの睾丸《こうがん》は実にかわいらしく動く。  子孫を残すことなく死んでしまった竜司と、三歳四ケ月の息子を過って死なせてしまった自分と、どちらがより哀れだろうかと、安藤は自問してみる。  ……おれのほうだ。  躊躇《ちゆうちよ》せず、安藤は返答した。少なくとも、竜司は知らぬまま、逝ってしまった。質量を持たないはずの悲しみという感情が、強い痛みとなって胸に切り込んでくる責め苦は、竜司の人生とは無縁だった。子供を持って得られる喜びは量り知れない。しかし、失う悲しみは、たとえ何百年生き続けても消えることはない。安藤は、何も生み出すことなく役目を終えたふたつの睾丸を、複雑な思いで解剖台の上に転がした。  後は縫合するだけだった。空になった胸腹部に、折りたたんで丸めた新聞紙を入れてボリュームを持たせ、縫い合わせていく。頭部も同様に縫うと、全身をきれいに洗って浴衣《ゆかた》を着せた。はらわたが抜かれたぶん、解剖前よりも痩《や》せて見える。  ……痩せちまったな、竜司。  何故だろう、さっきから安藤は、しきりに胸の中で遺体に語りかけていた。普段こんなことはなかった。語りかけたくなるような気配が、遺体から発散されているのだろうか。それとも、学生時代からの知り合いだからなのか。もちろん、一方的に話しかけるだけで、竜司からの返事はない。だが、遺体を納棺しようと、ふたりの助手が持ち上げたとき、胸の奥の奥のほうから竜司の声が聞こえたような気がした。しかも、臍のあたりが妙にくすぐったい。手でかいてみても痒《かゆ》みはひかず、自分の肉体を離れて痒みだけが、すぐ間近に浮遊する感覚があった。  安藤は気になって棺桶《かんおけ》の脇《わき》に立ち、竜司の胸から腹にかけて手で撫《な》でてみる。腹のあたりに一ケ所、小さく堅いものが突起した感触があり、そっと浴衣をめくってみた。よく見ると、臍のすぐ上、縫合された皮膚の隙間《すきま》から、新聞紙の切れはしがはみ出ていた。丁寧に縫い合わせたはずなのに、ほんのわずか、折りたたんだ新聞紙の角が露出しているのだ。腹の中に詰め込まれた新聞紙が、遺体を動かした反動でむくむくと起き上がり、裂け目を見つけて顔を出したのだろうか。薄く血のにじんだ紙片には脂肪が付着し、その白い膜を払うと、印刷された数字が見える。読みにくい、小さな数字。安藤の顔は引き寄せられた。そこに書かれた数字を読む。三つずつ二列に分かれた、六つの数字。 178 136  株式欄のページが開いていたのか、連絡先の電話番号がたまたま二列に並んでいたのか、あるいはテレビ欄のGコードの数字なのか、どちらにせよ新聞を折り畳んだ角のところに数字だけが六つ並ぶ確率はそう大きくはないだろう。安藤は、理由もなくその六つの数字を頭にたたき込んだ。  ……178、136。  そうして、ゴム手袋をはめたままの指先で、はみ出した新聞紙を腹の中へと押し込み、軽くぽんぽんと叩く。浮き上がってこないのを見届けた上で、浴衣の前を合わせ、もう一度その上から手で撫でた。丸みを帯びた腹の面に、引っ掛かりはどこにもない。安藤は一歩二歩と棺桶から後じさった。  わけもなく身体がブルッと震え、悪寒《おかん》が背筋に走った。ゴム手袋を取ろうとして腕を持ち上げると、手の甲から肘《ひじ》にかけて、産毛が総毛立っているのが見える。傍らに置いてあった脚立《きやたつ》に上半身をもたせかけ、安藤はさらに竜司の顔を注視する。静かに閉じられた両目、睫《まつげ》が今まさに開こうとするかのように揺れていた。水の流れる音がやかましい。解剖室にいる各人は、それぞれの仕事に忙しく、濃密に湧き上がってくる気配に気付いているのは、唯一安藤だけだ。本当に、こいつは死んでいるのだろうか。あまりにばかばかしい疑問……。はらわたの代わりに差し入れた新聞紙の束が内部で動き、腹が軽く上下した。助手にしろ立ち会いの警察官にしろ、なぜこうも無関心でいられるのか、不思議でならない。  突然、尿意を覚えた。新聞紙の擦《こす》れる音を響かせて竜司が歩く姿を想像したとたん、我慢できないほど排泄欲《はいせつよく》が高められていった。 3  午前の解剖を終えると、安藤は昼食をとるためにJRの大塚駅の方へと歩いた。安藤は何度も立ち止まって後ろを振り返った。不安の出所も、その意味するところも不明だった。息子のことが頭にあるわけではない。これまでに解剖した遺体の数は、千ではきかないだろう。にもかかわらず、なぜ今日に限って不安が募るのか。常に仕事は丁寧にこなしている。縫合した皮膚の隙間から新聞紙が顔を出すことなど、これまでになかったはずだ。ほんの些細《ささい》なミス……、気になるのはその点なのか。いや、そうではない。  行きつけの中華料理店に入って、今日の定食を注文した。十二時を五分ばかり過ぎた頃なのに、普段と比べて客の数はずっと少なく、安藤の他には、レジ横のテーブルに座って麺《めん》類をすする初老の男がひとりいるだけだ。革の登山帽を被《かぶ》ったまま、男はときどき安藤に視線を投げてよこした。なぜ帽子を取らないのか、なぜジロジロこっちばかり見るのかと、むしょうに気になった。些細なことにまで意味を読み取ろうとするのは、神経が脅《おびや》かされているせいだ。  竜司の腹から飛び出した新聞紙、角に印刷された数字の列が、印画紙となって頭に浮かんだ。振り払っても振り払っても、焼きついて離れないメロディのように、六つの数字は瞼《まぶた》の裏で明滅する。  ……電話番号?  ふとそんな気がして、登山帽の男の後ろに置かれたピンク電話に目をやる。受話器を上げて、この番号をダイヤルしてみようかとも思う。都内では、六桁《けた》の電話番号は有り得ないはずだ。どこにも通じないのはわかりきっている。しかし、もしだれかが電話口に出たら……。  ……おう、安藤、さっきは随分と痛い目にあわせてくれたじゃないか。タマまで引っこ抜きやがってよぉ。  竜司の声で、そんなふうに詰問《きつもん》されたら……。 「お待ちどおさま」  抑揚のない声と共に、中華丼とスープのセットがテーブルに置かれた。中華丼の具の中に、ゆでたうずらの玉子が二個、野菜の陰に隠れている。ちょうど竜司の睾丸と同じくらいの大きさだ。  安藤は、ごくりと唾《つば》を飲み込み、ぬるくなった水を一気に飲み干した。超自然現象をすべて否定するつもりはなかったが、数字にこだわる自分があまりにばからしく感じられた。しかし、気にかかる。178、136。なにか意味でもあるのだろうか。暗号マニアの竜司の腹から飛び出した六つの数字。  ……暗号。  れんげでスープをすくいながら、安藤は、テーブルにナプキンを広げ、胸に差したボールペンで数字を書き込んでみる。  ……178、136。  Aを0、Bを1、Cを2、Dを3、Eを4、Fを5、……Zを25と当てはめれば、二十六個のアルファベットは0から25までの数字に置き換えることができる。換字式暗号の基礎であり、暗号としては最も簡単なものだ。安藤は、まず試しに六桁の数字を、1、7、8、1、3、6、と六つの一桁数字に分解し、それぞれをアルファベットに置き換えてみた。 BHI、BDG  続けて読めば、BHIBDG。辞書を引かなくても、こんな単語が存在しないのは明らかだ。次の手段として、一桁と二桁の数字に分けて考えた。アルファベットを二十六進法の数字とみる換字暗号と仮定すれば、78や81といったような、26以上の二桁数字は絶対にありえないことになる。その場合、考えられる数字の区切り方と、それに対応するアルファベットを、紙ナプキンに書き出してみる。 17  8  1  3  6 R  I  B  D  G 1  7  8  13  6 B  H  I  N  G 17  8  13  6 R  I  N  G  この中で、意味を持つ単語はただひとつ、RINGのみだった。  ……リング。  安藤は、その響きを確かめてみる。英語のRINGには、輪という意味の名詞の他、鳴る、響く、知らせる、合図する等の動詞の意味がある。  偶然だろうか。竜司の腹の中から新聞紙が飛び出し、飛び出した部分に印刷されていた数字の列をアルファベットに置き換えたところ、たまたまRINGという単語を形成したに過ぎないのだろうか。  どこからともなく警報のような音が鳴り響いてきた。田舎で過ごした幼児期、火事を告げる警鐘の音を一度だけ聞いたことがあった。両親とも残業で帰りが遅く、家の中には祖母と自分しかいなかった。夜の静けさを破る音に耳を塞《ふさ》ぎ、安藤は祖母の膝に縮こまって震えた。火事を告げる警鐘であると知っていたわけではない。火の見櫓《やぐら》で鳴るカンカンという響きに、ただならぬ雰囲気を嗅《か》ぎ取って怯《おび》えたのだ。不幸の先触れが、音から匂い立っていた。事実、その音を聞いたちょうど一年後に、父は不慮の死をとげた。  食欲はすっかり失せ、逆に吐き気がしてくる。安藤は、運ばれたばかりの中華丼を脇にどかし、水をおかわりした。  ……竜司、おまえ、おれになにか知らせたいのか。  空洞のブリキ人形と化し、棺桶に納まった竜司は、遺族に引き渡されるとき、えらの張った白い頬をわずかに緩めて、笑っているかのような印象を投げかけた。その穏やかな表情を見て、高野舞がだれにともなく丁寧におじぎしたのは、つい一時間ばかり前のことだ。今晩がお通夜で、明日中には火葬されることになるだろう。遺体を運ぶワゴン車は、今頃どこを走って、相模大野《さがみおおの》にある彼の実家に向かっているのか。できれば、竜司の肉体が灰になるところを、この目で確認したかった。なんとなく、彼が、まだ生きているような気がしてならない。 4  約束の場所は図書館横のベンチだった。大学の本部キャンパスで開かれた法学部主催の講演会を聴講し終わると、安藤は腕時計に目をやりながら、指定された場所に向かった。  高野舞から、監察医務院に電話が入ったのはつい昨日のことだ。たまたま解剖の当番日で、居合わせた安藤は電話の声を聞くとすぐ、相手の顔を思い出すことができた。解剖した遺体の近親者から、電話を受けることはたまにあるが、ほとんどの場合死因に関する問い合わせだった。しかし、高野舞がわざわざ電話をしてきた主旨は別にあった。解剖が終わった日の夜、通夜を抜け出して竜司のアパートで未発表の論文を整理していたとき、ちょっと気に掛かる出来事に遭遇したというのだ。ひょっとして、竜司の死因と何か関係があるのかもしれないと、舞はためらい気味に匂わせた。  貴重な情報も得たかったが、もう一度高野舞の清楚《せいそ》な美貌《びぼう》に触れたいという気持ちも強かった。安藤は、明日の午後、大学本部での講演会に出席する予定があることを告げ、終わった後なら時間がとれるから詳しく話を伺えないかと申し出た。  講演会の終了予定時刻を告げると、場所の指定をしたのは高野舞のほうだった。  ……図書館前、桜の下のベンチ。  教養の二年間を学んだキャンパスだったが、安藤は図書館前のベンチで友人たちと待ち合わせをしたことはなかった。文学部の学生だった妻とは、銀杏《いちよう》の樹の下でよく待ち合わせをしたものだ。  ベンチに座る女性は、遠目からも高野舞であるとわかった。原色のワンピースを着ているせいか、十日前監察医務院で会ったときより若く見える。安藤は、正面に回り込んで、顔を確認しようとしたが、文庫本に視線を落としたまま、彼女は顔を上げようとしない。  足音も高く歩み寄ると、舞は顔を上げた。 「高野、舞、……さん」  安藤は声をかけた。 「先日はどうも」  言いながら、舞は腰を少し浮かせた。恋人を行政解剖した医師に対してなんと挨拶《あいさつ》すればいいのか、それ以外に言葉が思いつかないのだ。  職業的な特徴を端的に表す、細長くいかにも器用そうな手で、安藤はブリーフケースを抱えていた。 「座ってもよろしいですか」  安藤は舞の返事も待たずベンチのすぐ横に腰を下ろし、足を組んで向き直った。 「検査結果、もう出ました?」  抑揚のない声で、舞が聞いた。安藤は腕時計にチラッと目をやった。 「お時間ありますか、よかったらそのへんでお茶でも飲みながら、お話を伺いたいのですが」  舞は、無言で立ち上がると、スカートの裾《すそ》を引っ張った。  高野舞に案内されるまま、安藤は喫茶店に入った。学生たちのたまり場にしてはそれほど喧《やかま》しくもなく、ホテルのラウンジに似た雰囲気の漂う店だ。通りが見渡せる窓際の席に腰を降ろすと、ウェイトレスが水とおしぼりを運んできた。 「フルーツパフェ」  舞は、間髪を入れずに注文をした。その早さに驚き、迷う間もなく、安藤は「コーヒー」と言うほかなかった。優柔不断そうに見えた十日前の印象が、早くも崩れかけてくる。 「好きなんです」  ウェイトレスが行ってしまうと、舞はそう言って首をすくめた。目的語に自分をあてはめようとして、すぐに「フルーツパフェ」であることに気付き、安藤は、馬鹿げた空想をしかけた自分を戒めた。いい歳をしてなに寝惚《ねぼ》けてやがると。  赤いチェリーとウエハースの乗った豪華なフルーツパフェだった。舞がこの店のフルーツパフェを気にいっているのは、食べっぷりからも明らかだ。かつて息子が見せたと同じ、好きなものを食べるときの真剣さが、たまらなくかわいい。スプーンの運び方は、一生懸命という表現がぴったりで、コーヒーも口につけず、安藤は見蕩《みと》れる。妻は、こういった店に来ても、フルーツパフェの類は決して注文しなかった。砂糖抜きのレモンティ……、ダイエットに熱心なあまり、甘いものは一切口にしようとしなかった。しかし、服の上から見た限りでは、舞のほうが元気な頃の妻より痩《や》せている。別居する頃には、妻は目を覆うばかりに痩せていた。だが、ふと思い出す妻の顔は、今でも結婚当初のふくよかさを維持している。  舞は、チェリーを口にふくんで楕円形《だえんけい》の硝子《ガラス》容器にペッと種を吐き出し、唇をナプキンで拭《ぬぐ》った。眺めているだけで楽しくなる女性は初めてだった。かすをぼろぼろとテーブルにこぼしながらウエハースを食べ、容器の底についた生クリームを名残惜しそうに見つめている。舐《な》めてしまおうかと迷っているに違いない。  そんなふうにしてあらかた食べ終わると、舞は、解剖後に高山竜司の内臓がどんな検査に回されたのか、安藤に質問してきた。フルーツパフェを食べ終わったばかりの若い女性に、切り刻んだ臓器の行方を話すのは、なんとも場違いな気がしたが、安藤はさてどこから話したものかと考えた。  ついこの間も、遺族に解剖後の検査のことを説明していて、話が噛《か》み合わなくて手を焼いたことがあった。相手に組織標本に関する理解が不足していたのだ。標本という言葉からホルマリン漬けにされた瓶詰めの臓器を想像したらしく、すれ違いの問答に無駄な時間を費やした。安藤にとって、組織標本は事務員の持つボールペンほどに見慣れたものだ。しかし、ほとんどの人間は、その形、大きさ、作成方法など、説明されない限り知りようがない。安藤は組織標本の作り方から話すことにした。 「……まあ、作業のほとんどは研究室で行われるわけですが、簡単に説明すればこういった手順になる。心筋|梗塞《こうそく》を起こした部分を小片に切り出し、まずホルマリンで固定します。さらにサシミ状に切り出し、今度はパラフィンで固定する。パラフィンというのはつまりロウのことです。その後、スライスしてプレパラートに包み、ロウの部分を取って染色する。これで組織標本は出来上がり、あとは基礎の教室に回して検査結果を待つわけです」 「組織を薄くスライスして、両側からガラス板で挟んだものを想像すればいいのかしら」 「まあ、そんなところです」 「そうすれば、検査がしやすくなります?」 「もちろん。染色もするし、顕微鏡でのぞいて細胞の構造を観察することだってできる」 「ごらんになりました?」  ごらんになりました……、何を? もちろん、高山竜司の細胞に決まってる。しかし、安藤には、ニュアンスが少し変に聞こえた。 「基礎に回す前に、ちょっとのぞかせてもらいましたよ」 「どうでした?」  舞は身を乗り出してくる。 「左冠動脈の回旋枝の手前が閉塞を起こし、血液がその先に流れなくなって竜司君の心臓は停止した。この前、そう説明したと思いますが、実際に、段階的に輪切りにされた病変部を顕微鏡で見て……、驚きました。普通、いいですか、心筋梗塞というのは、動脈が硬化して内膜にコレステロールなどの脂肪が沈着し、狭くなり、アテロームがこわれてできる血のかたまりでつまってしまう症状なのです。ところがですよ、竜司君の場合、確かに血管は閉塞しているのですが、それは動脈硬化によるものではなかった。明らかに違うのです」 「なに?」  舞はもっとも短い言葉で、その正体を尋ねた。 「肉腫《にくしゆ》です」  安藤の返事も簡潔|極《きわ》まりない。 「肉腫?」 「そう、特定の組織の細胞なのか、未分化の腫瘍《しゆよう》なのかはまだなんともいえないが、冠動脈の内膜と中膜の部分に見たこともない細胞の腫瘤《しゆりゆう》……、ようするにコブができ、その結果血管は閉塞した」 「癌《がん》細胞のようなもの?」 「まあそう考えて差し支えありません。しかし、血管内部に肉腫ができることなど、普通ありえないんですよ」 「検査結果が出れば、何が原因で肉腫ができたのか、わかるのですね」  安藤は笑いながら首を横に振る。 「症候群となって現れなければ、原因はたぶんわからないだろうな。エイズを例にとるまでもなく……」  原因不明の病気など、科学万能の世の中にもまだたくさんある。この症状が症候群となって現れる奇病かどうかは、現段階ではまだなんとも判断のしようがないのだ。  安藤は続けた。 「それともうひとつの可能性……。竜司君は、先天的な冠動脈の欠陥を持っていたのかもしれない」  医学の知識に乏しい人間にでも、ある程度想像することができる。心臓を取り巻く冠動脈の一部に生まれつき瘤《こぶ》のようなものがあれば、運動能力が著しく損なわれるのではないかと。 「でも、高山先生は……」 「そう、高校時代、インターハイで上位入賞するほどの陸上選手だった。彼の専門は、確か砲丸投げでしたか」 「そうです」 「生まれつきの障害を持っていたとは考えにくいんだなあ。だから、お聞きしたいんです、竜司君、普段なにか、胸の痛みのようなものを訴えたことはなかったですか」  安藤と竜司の付き合いは、学部卒業と同時にほぼ終わっている。大学構内で出合った折りにだけ「やあ」と声をかけ合う程度では、体調の変化などに気付くはずもない。 「先生とのお付き合いは、二年にもなりませんでしたので」 「もちろん、その範囲で結構です」 「人並みはずれて頑強な身体でした。覚えている限り、風邪をひいたこともなかったわ。我慢強い性格だったから、口に出さなかっただけなのかもしれませんが。特に気付くようなことは、何も……」 「なんでもいいんです。何か、気付いたことがあれば……」 「実はそのことなんですが……」  安藤ははたと思い至った。解剖後の報告をするために舞を呼んだわけではない。通夜の夜、竜司の部屋で論文の整理をしていたときの出来事を報告したいからと、彼のほうが呼び出されたのだ。 「そうでしたね……。お聞きしましょうか」 「でも高山先生の死因と結びつくかどうか」  恥ずかしそうに言い淀《よど》む舞が、もどかしくも愛らしい。安藤は、目に力を込めて先を促した。 「ぜひ、聞かせてください」 「十日前の夜、通夜の席を抜け出して、先生のお部屋で未発表の論文を整理してたとき、電話が鳴ったんです。迷いましたけど、わたし、受話器をとりました。相手は、アサカワさんという、先生の高校時代の友人でした」 「ご存じの方なんですか」 「ええ、一度だけお会いしたことがあります。亡くなる四、五日前、偶然、先生のアパートで鉢合わせしたものですから」 「男の人?」 「もちろん」 「そう、で?」 「先生が亡くなったのをご存じない様子でしたので、わたし、告げました、昨夜のことを手短に。そうしましたら、かなりびっくりした様子で、アサカワさん、今からそちらに行くって言うんです」 「そちら、というのは」 「高山先生のアパート」 「で、現れたの?」 「ええ、思ったよりもずっと早く。上がり込むと、部屋中に目を光らせ、何かを捜し求める素振りなんです。しきりに、私に向かって、何か気付いたことはないかと尋ねてくる。ほんとうに、切羽詰まった様子で、先生の亡くなった直後、部屋の様子でなにか変わったところはなかったかと、何度も聞くんです。でも、おかしいなって感じたのは、その後のセリフ」  舞はそこで言葉を止めて、水を一口飲んだ。 「なんて、言ったの、その人は」 「一字一句間違いなく覚えてるわ。彼はこう言いました。『本当に、竜司はあなたになにも言い残してないのですね。たとえば、ビデオテープのこととか』」 「ビデオ?」  安藤は聞き返した。 「そう、変でしょう」  昨夜突然死を遂げた竜司の、その死を云々《うんぬん》している脈絡の中では、あまりに唐突で場違いな響きだった。なぜ、ビデオテープという無機物が話題に上るのか。 「で、あなたは、竜司君からビデオに関して何か聞いていましたか?」 「いいえ、別に、何も」 「ビデオか」  安藤は同じ言葉をつぶやいて、椅子の背に身体をあずけていった。十日前の、遺体を解剖した土曜の夜に竜司の部屋を訪れたアサカワという男の存在に、どことなく不吉な影がよぎった。 「ですから、素人考えなんですが、もし、ビデオに録画された内容が衝撃的であれば、心臓にショックを与えることもあるんじゃないかしらって、私そんなふうに……」 「なるほど」  安藤は、舞の脳裏にくすぶる疑問を即座に理解した。竜司の死因を確認してからでなければ、恥ずかしくて口にできなかったに違いない。二、三日前テレビで流れていたサスペンスドラマにも、似たシーンがあった。夫の部下と情事を重ねる妻が、罠《わな》にはめられ、ラブホテルでの一部始終をビデオカメラで隠し撮りされ、脅迫状と一緒にビデオテープが郵送されてくる。自宅で、妻はビデオテープをデッキに差し込み、画面に見入る。ザーと揺れる画面が途切れ、いきなり切り込んでくる映像。若い男と重なり合う裸体、あえぎ声。その被写体が自分であると確認したとたん、妻は気を失って倒れ込んでしまった。見ていてばからしくなるほど、通俗的なシーンだった。  確かに、ビデオテープ等を使って、視覚と聴覚の両方を同時に刺激すればかなりのショックを与えることもできる。悪い条件が重なれば、死に至らないとも限らない。しかし、安藤は竜司の肉体をつぶさに眺め、輪切りにされた冠動脈の組織標本まで作っているのだ。 「いや、ありえませんね。竜司君は、確かに左冠動脈に閉塞を起こしていた。第一、あの高山竜司が、ビデオを見て、ショック死するなんて、そんなことが考えられますか?」  最後のほうは笑い声になっていた。 「それは、もちろん……」  舞もつられて、弱く笑いを漏らす。互いに竜司に関する認識は一致しているようだ。呆《あき》れるばかりの豪胆さ、度胸の据わった男だった。ちょっとやそっとのことで、あの精神と肉体が傷つけられるはずがない。 「ところで、そのアサカワって人の連絡先ですが、ご存じですか」 「いえ、そこまでは……」  言いかけて、舞は口に手を当てた。「そう、M新聞社のアサカワカズユキ……。確か、先生からそう紹介されました」 「M新聞社のアサカワカズユキ」  安藤はその名前を手帳にメモしようとした。M新聞社に問い合わせれば、アサカワという男の連絡先ぐらいすぐに分かるはずだ。その人物に会って話を聞く必要が出ないとも限らない。  手帳に書かれた文字が見えたらしく、舞は顎《あご》に手を当てて小さく「あら」と言った。 「どうしました」  安藤は顔を上げる。 「カズユキって、その漢字」  舞に指摘され、安藤はもう一度手帳に目を落とす。  ……M新聞社、浅川和行。  手帳にはそう書かれていた。しばらく眺めていて、気付いた。どうして何の疑問もなく、浅川和行と漢字で書いてしまったのか。アサカワには浅川、朝川、麻川……、名前のカズユキにも、一幸、和幸、和之……、などあてはまる漢字はたくさんある。にもかかわらず、最初から知っている名前のように、自信を持って名前を漢字で書いていた。 「なぜ、漢字をご存じですの」  舞は目を丸くして尋ねてきたが、安藤には答えることができなかった。なんらかの予知能力が働いたのだろうか。近い将来、この男と深く関わることになる……、安藤の胸の中に予感が膨らんでいった。 5  ほぼ一年半ぶりで、安藤は食事をしながら日本酒を味わった。息子が死んで以来、酒を飲みたい気分になったのは初めてだ。息子を失った責任から、好きな酒を断っていたわけではない。アルコールの酔いには、そのときの気分を増幅する作用がある。嬉《うれ》しいときに飲めば嬉しさは倍増し、悲しいときに飲めば悲しみはより大きく膨れ上がる。この一年半、悲しみの感情に常につきまとわれ、必然的にアルコールを口にできなかった。一旦口にすれば泥酔するところまでいくだろうし、そうなれば死の衝動を制御できなくなるかもしれず、踏み込む勇気がなかったのだ。  十月の終わりに降る雨は、この季節にしては珍しく、霧のように煙って傘のすぐ下、首筋にまで漂ってくる。寒くはなかった。日本酒のほのかな酔いが、身体を暖かくしていた。マンションに帰る途中、安藤は何度も傘の外に手を出して、雨粒を受け止めようとした。手の平に落ちるというより、下から舞い上がってくる雨滴だった。  安藤は、駅からの帰り道、ウィスキーのボトルを買おうとしてコンビニエンスストアの前で立ち止まった。間近に超高層ビル街の夜景が迫っている。自然の風景以上に、都会の夜景は美しい。ライトアップされた庁舎は、雨に濡《ぬ》れて妖《あや》しく輝いていた。ビルの頂上で点滅する赤い光は、じっと眺めているとモールス信号のメッセージに見えてくる。点滅のリズムは遅く、もったりと口をきく愚鈍な怪物を思わせた。  代々木公園に面して建つ四階建ての古びたマンションが、妻と別居して以来の住まいだ。以前住んでいた南青山のマンションに比べると、グレードは格段に落ちる。駐車場もなく、買ったばかりのBMWを手放さざるを得なかった。学生時代に戻ってしまったようなみすぼらしいワンルーム。生活へのこだわりはどこにも見られない。部屋にある家具といえば、本棚とパイプベッドくらいのものだ。  部屋に入り、窓を開けかけたところで電話のベルが鳴った。 「はい、もしもし」  受話器を上げる。 「おれだ」  すぐに相手がわかった。名乗ることなく、いきなりこう切り出すのは、学部時代の同級生、宮下だけだ。彼は、病理学教室の助手を務めている。 「すまんな、連絡が遅れて」  安藤は、先手を打って謝った。電話をかけてきた理由がすぐにわかったからだ。 「今日、おまえの研究室に行ったんだぜ」 「監察医務院のほうにいた」 「うらやましい限りだ、稼ぎの口がふたつもあって」 「なにをおっしゃる、将来の教授候補が」 「そんなことより、おまえ、舟越の送別会の返事、まだもらってないぞ」  第二内科の舟越は、父の引退に伴って郷里の病院を継ぐことになり、その送別会の幹事を買って出たのが宮下だった。場所と日時は既に知らされていた。出欠の返事を早急に連絡してくれと頼まれていて、忙しさにかまけて忘れていたのだ。息子の事故死がなければ、安藤も送別会を開いてもらう側に回っていただろう。法医学教室に入ったのは、ほんの腰掛けのつもりだった。まず基礎をみっちりとやり、後に臨床に進んで妻の実家の病院を継ぐ……、ちょっとした不注意で、その青写真は大きく狂ってしまった。 「いつだったかな、送別会」  安藤は、受話器を耳に挟み、手帳をめくりながら聞いた。 「来週の金曜だ」 「金曜か……」  スケジュールを確認するまでもない。ほんの三時間ばかり前、別れ際に、舞と食事の約束をとりつけたばかりだった。来週金曜の午後六時。どちらを優先すべきかは明らかだ。十年ぶりで若い女性を食事に誘い、どうにかオーケーの返事を取ることができたのに、白紙に戻すわけにはいかなかった。悪夢から目覚めるかどうかの、これが瀬戸際だと安藤は信じていた。 「どうなんだ?」  宮下は催促した。 「すまんが、だめだ。先約があってね」 「ホントかよ。またいつもの理由じゃねえだろうな」  いつもの理由……、安藤にはわからない。普段自分はどんな理由をつけて、友人たちの誘いを断っていたのか。 「いつもの理由って?」 「酒が飲めないって理由だよ。一升酒飲んでいたやつが、なに言ってんだか」 「いや、そうじゃないんだ」 「嫌なら何も飲むことはない。ウーロン茶でごまかして、ちょっと付き合うだけでいい」 「だから、そうじゃないって」 「酒が飲めるってことか」 「まあな」 「好きな女でもできたのか」  でっぷりした体型からは想像できないほど、宮下の勘は鋭い。安藤は、この男の前ではなるべく正直に振る舞うことにしていた。しかし、たった二回会っただけの女性を、好きになったと言い切れるのかどうか、彼は返答に困ってしまった。 「…………」 「舟越の送別会を忘れさせるほどの女ってわけだ」 「…………」 「めでたいこっちゃ。構うことはない、連れてくればいい、彼女もいっしょに。歓迎するぜ」 「まだそんな仲じゃないんだ」 「やけに慎重だな」 「ああ」 「ま、無理にとは言わんが……」 「すまん」 「おまえ、さっきから何度謝っている? わかったよ。欠席ってことにしておいてやらあ。その代わり、好きな女ができたってみんなに言いふらしてやるからな。覚悟しとけ」  そう言って宮下は笑った。憎めない奴だった。息子の死、妻との別居と、断腸の思いの日々にあって、宮下のプレゼントに安藤は唯一慰められた。「元気を出せよ」などという無意味な言葉を一切使わず、彼は「これでも読め」と、一冊の小説を手渡したのだ。宮下の文学趣味を知ったのも初めてだったし、一冊の本に勇気づけられることがあると知ったのも初めてだった。それは一種の教養小説で、心身ともに傷を負った青年が、過去を克服し、成長していく過程が描かれていた。本は今でも本棚の中で、大切に保管されている。 「ところで……」  安藤は話題を変えた。「竜司の組織標本のほう、なにかわかったか?」  遺体の病変部の検査は、主に宮下のいる病理学教室が受け持っていた。 「ああ、あれな」  と言って、宮下は長く溜め息をつく。 「どうした?」 「まあ、なんといっていいのか。おれにはさっぱりわからなくなっちまった。おまえ、関教授のこと、どう思う?」  関は病理学教室の教授で、癌細胞の発生形式に関する研究で名が知れ渡っている。 「どう思うって、なにを今更……」 「あの、じいさん、ときどき妙なこと言い出すんだよな」 「なんて言ったんだ?」 「冠動脈の閉塞部分のほうじゃねえんだ。関のじいさまが、さしあたって問題にしているのは。竜司の咽頭部に潰瘍が生じてたのを、おまえ覚えてるか」 「ああ、もちろん」  あまり大きなものではなかったが、はっきりと覚えている。解剖中、うっかり見逃すところだったが、助手から指摘されて気付き、解剖後ブロックに切り出した。 「肉眼でチラッとだけなんだが、関のじいさん、あの潰瘍部分を見て、何に似ていると言ったと思う」 「やめてくれないか、もったいぶった言い方は」 「わかった、わかった。じゃ、言おう。天然痘《てんねんとう》患者の潰瘍と似てる、だとよ」 「天然痘?」  安藤は思わずすっとんきょうな声を上げていた。  天然痘(痘瘡《とうそう》)は、ワクチンによる撲滅計画により地球から根絶されている。一九七七年、ソマリアでの患者以来、世界中でその発生は報告されておらず、一九七九年にはWHOによって全世界からの根絶宣言が出された。天然痘は、ヒトにのみ感染を起こす。したがって、患者の発生がないということは、天然痘ウィルスが存在しないことを意味している。現存する最後の天然痘ウィルスは、液体窒素中に冷凍保存され、ロシアの首都モスクワと米ジョージア州アトランタの研究施設に眠っている。したがって、もし現在、世界のどこかで天然痘が発生したとすれば、どちらかの研究施設から漏れ出たと考える他ないが、厳重な警備下にあっての可能性はまずあり得ない。 「驚いたか?」 「なにかの間違いだろう」 「たぶんな。しかし、あの関のじいさまがそう言うんだ。聞き流すわけにはいかない」 「結果はいつわかる?」 「一週間もすれば……。仮に、病巣部から真性天然痘ウィルスが発見されたりしたら、こりゃ、おまえ一大事だぜ」  宮下はさもおかしそうに笑った。信じていないのだ。彼もまた、なにかの間違いだと思い込んでいる。現実感が湧《わ》かないのも無理もない。彼らの年齢では、実際の天然痘患者を診る機会はなく、ウィルス関係の専門書から知識を引き出すのが唯一病気を知る手がかりだった。本の中で、安藤は天然痘の発疹《はつしん》に身体を被われた幼児の写真を見たことがある。小豆粒大の発疹に無残に汚され、うつろな目をカメラに向けていたかわいらしい幼児。天然痘の表面的な特色は、全身をおおう発疹にほかならない。発疹は確か、感染後七日ほどで最大になる……、そう安藤は記憶していた。 「第一、竜司の皮膚に発疹はなかった」  一目瞭然だ。竜司の皮膚は、無影灯の下で艶《つや》やかに光っていた。 「なあ、おれはこんなばかげたことを言いたくないんだ。天然痘ウィルスの中には、強い血管障害を起こし、死亡率が一〇〇パーセント近いやつがあるのを、おまえ知っていたか?」  安藤は、首を小さく振った。 「いや」 「あるんだよ、それが」 「まさか、竜司の冠動脈閉塞が、そのせいで起こったなんて言うなよ」 「言いたくはないって、そんなこと。しかしだな、冠動脈の内部にできていたあの肉腫、ありゃ一体なんだぁ? 見ただろ、顕微鏡で」 「…………」 「なぜ、あんなものがデキる?」 「…………」 「おまえ、ちゃんと種痘を受けてあるだろうな」  宮下は、さもおかしそうに笑った。 「笑っちまうよな、もし、そうだとしたら」 「冗談はともかく、今ふと思いついたんだが……」 「なんだ」 「天然痘の線は論外として、もし血管の内部にできた肉腫がなんらかのウィルスによって生じたとすれば、当然、同じ症状で死んだ人間がほかにもいることになる」  宮下は受話器の向こうで唸《うな》った。可能性を吟味しているのだ。 「ありえなくはない」 「時間があったら、他の大学に当たってみてくれないか。おまえのコネを使えば、たやすいだろ」 「わかった。同じ症状で死んだ人間が他にいないかどうか、捜せばいいんだな。もし、症候群となって現れでもしたら、エライことになるが」 「大丈夫、杞憂《きゆう》に終わるさ」  その後、軽く挨拶を交わして、ふたりは同時に受話器を置いた。  開けっ放しの窓から、湿った夜気が忍び込んでいる。閉めようとして、安藤はバルコニーから顔を出した。雨はもう上がったようだ。すぐ下の車道には等間隔で街路灯が並び、タイヤの跡だけが渇いた二本の筋となって伸びていた。首都高速四号線を、ヘッドライトが流れてゆく。渾然《こんぜん》一体とした都会の騒音は、水分を多量に含んで、鈍い渦となって立ち込めている。窓を閉めると、音はぱたりと途切れた。  安藤は本棚から医学事典を取り出し、項をめくった。天然痘ウィルスに関して、安藤の知識は乏しい。ウィルスに特別の興味がなければ、研究対象にしても意味のない分野だった。一般的に天然痘ウィルスと呼ばれるのは、POXVIRUS科、ORTHOPOXVIRUS属の、VARIOLA MAJORとMINORである。MAJORの死亡率は三〇パーセントから四〇パーセント、MINORは五パーセント以下。これ以外、サル、ウサギ、ウシ、ネズミ等に感染するPOXウィルスは現存しているが、日本での感染例はほとんどなく、またあったとしても局所に痘瘡を作るだけで危険はない。  安藤は医学事典を閉じた。まったくばかげたことに思われた。肉眼での判断、しかも、関教授は断言したわけではない。病変部の症状が天然痘のそれと似ていると言ったに過ぎない。安藤は、胸の中で何度も否定した。しかし、なぜそうむきになって否定しなければならないのか。理由は簡単だ。もし仮に、竜司の身体からなんらかのウィルスが発見された場合、高野舞への感染が気にかかるからだ。生前、ふたりには親密な付き合いがあった。例えば天然痘ウィルスの場合、口腔内の粘膜で病巣は潰瘍になり、ウィルスを放出する。したがって、唾液《だえき》は強い感染力を持つことになる。安藤は、舞と竜司が唇を合わせるシーンを連想しかけ、あわてて振り払った。  ウィスキーをグラスに注ぎ、ストレートで飲み干した。一年半ぶりのアルコールは身体に強力な作用を及ぼす。喉《のど》を焼き、胃に染み込むと同時に、虚脱感に襲われた。脳の一部分だけを覚醒《かくせい》させ、四肢をだらしなく伸ばし切る。パイプベッドに背をもたせかけ、安藤は染みの浮き上がった天井を見上げた。  息子が溺《おぼ》れる前日に見た海の夢は正夢であったと、今では確信を持っている。運命を事前に知っていて、防ぐことができなかった。その後悔は、安藤を幾分慎重にさせた。  今、この瞬間、確かな予感がある。解剖後、竜司の腹から飛び出していた新聞紙の断片、そこに並んだ数列がRINGという単語に置換できるのは単なる偶然なのか。安藤には、とても偶然とは思えない。竜司はなにかを知らせてきているのだ。彼の言葉、彼にしか操れない媒体を使って……。竜司の肉体はほとんど全て灰になったが、一部は組織標本となって保存されている。バラバラの部品となってもまだ、語りかけているように思える。彼が生きているような気がするのは、そのせいだ。肉体は灰になったが、竜司は言葉とコミュニケーションの手段を失ってはいない。  泥酔に至る一歩手前で、安藤はそんなふうな荒唐無稽《こうとうむけい》な空想を弄《もてあそ》んでいた。本気とも冗談ともつかず、ひとつの妄想は次々と新しいストーリーを作り上げてゆく。  ……ばかばかしい。  客観的な理性がふと頭をもたげたとき、ベッドによりかかって大の字に身体を広げる自分の身体を、幽体離脱した霊魂からの視線で眺めたような気がした。その格好には見覚えがある。つい最近、どこかで見た。強烈な眠気に襲われる中、彼は思い出した。ポラロイド写真に写っていた、竜司が絶命したときの姿。同じ格好だ。ベッドに頭を乗せ、大の字に手足を伸ばし切っている。眠気に抗《あら》がって起き上がると、安藤はベッドにもぐりこみ、布団を被った。本格的な眠りに落ちるまで、彼の身体は震え続けた。 6  監察医務院で二体の解剖を終えると、後の処置を同僚に任せ、安藤は大学へ取って返した。宮下から連絡を受け、竜司の死因に関して進展があったと匂わされ、いてもたってもいられなくなったのだ。安藤は、階段を駆け上る勢いで、地下鉄の駅から地上に出た。  付属病院の表玄関から入って、渡り廊下を旧病棟のほうに歩いた。表玄関のある新館は、まだ築後二年しかたっていない。全てが近代化された十七階建ての高層ビルは、団地のように密集して建つ旧館群と、廊下や階段で複雑に連結されている。まるで迷路だった。初めての来訪者で、迷子にならない人間はまずいない。新旧が絡み合い、進むにつれ、廊下の色、幅、きしみ具合、匂いまでが変化してゆく。境界となる鉄製の扉から新館を振り返って広い廊下を眺めると、遠近感が狂って未来を眺めるような錯覚に陥ってしまう。  病理学研究室のドアの隙間《すきま》から、丸椅子《まるいす》に腰掛けている宮下の背中が見えた。実験器具に向かい合っているのではなく、中央のテーブルで文献でも調べているようだ。開いた本に顔を近づけ、熱心にページをめくっている。安藤は背後から近づいて、脂肪のついた肩を軽く叩《たた》いた。  宮下は振り返ってメガネをはずし、読みかけの本を裏返しにしてテーブルに置いた。背表紙に書かれたタイトルは、『占星術入門』。拍子抜けがした。  宮下は椅子を回転させ、安藤のほうに向き直ると、真顔で尋ねた。 「ところで、おまえの生年月日はいつだ」  安藤は、それには答えず、『占星術入門』を手にとり、ページをパラパラとめくってみる。 「星占いか……、女子高生じゃあるまいし」 「これが結構ばかにならない、当たるんだよ。なあ、生年月日、教えろ」 「そんなことより、おまえ……」  安藤は、テーブルの下から丸椅子を引き出し、腰をおろした。座り方が乱暴だったためか、テーブルの端に置かれた『占星術入門』が音をたてて床に落下した。 「まあ、落ち着けよ」  宮下は苦しそうに身を屈《かが》め、本を拾い上げる。しかし、安藤には本のことなどまるで念頭にない。 「ウィルスでも発見されたのか?」  安藤がせっつくと、宮下は首を横に振った。 「竜司と同じ症状で死に、行政解剖か司法解剖の手続きがとられた遺体があるかどうか、他校の法医学教室に問い合わせていたんだが、その結果が出揃《でそろ》ったんだ」 「で、あったのか、同じ死因の遺体が」 「あったんだよ、それが。おれが確認しただけで、全部で六体」 「六体……」  六という数が多いのか少ないのかは、まだなんとも判断できない。 「むこうもびっくりしていた。こんな奇妙な死体を解剖したのは、自分のところだけだと思っていたらしい」 「どこの大学だ、解剖したのは」  宮下は、テーブルに腹をめりこませるようにして、乱雑に置かれたファイルに手を伸ばした。 「S大学で二体、T大学で一体、横浜のY大学で三体。計六体だ。まだ出てくる可能性は十分ある」 「ちょっと見せてくれ」  安藤は、宮下の手からファイルを受け取った。  今日の午前中のうちに、ファックスによるファイルの交換は済ませてあった。死体検案調書や解剖報告書などの書類は、一旦コピーした上でファックスしたもので、どれも印刷が不鮮明で読みやすいとはいえない。安藤は写しをファイルから抜きだし、必要な事項を拾い読みしていった。  まず、T大で解剖された遺体。名前は、岩田秀一、十九歳。今年九月五日、午後十一時前後、五十�のバイクを運転中、品川駅前の交差点で転倒して死亡。解剖の結果、心臓を取り巻く冠動脈が原因不明の腫瘤《しゆりゆう》により閉塞、心筋梗塞を起こしていたのが判明。  Y大で解剖された三体のうち二体は、若いカップルで、しかもふたり同時だった。能美武彦、十九歳。辻遥子十七歳。同じく九月六日未明、神奈川県横須賀市|大楠《おおくす》山の麓《ふもと》に駐車されたレンタカーの中で遺体を発見。発見時、辻遥子のパンティは足首のところにかかり、能美武彦のジーンズとブリーフは膝《ひざ》まで下げられていた。深夜、車を茂みに止め、カーセックスに及ぼうとしたところで、ふたりの心臓が同時に止まったことになる。やはり解剖の結果、血管内に生じた腫瘤による冠動脈閉塞が発見されていた。  安藤は、「そんなばかな」とつぶやき、天井を見上げた。 「車の中の若いカップル、か」  宮下が聞いた。 「そうだ。同じ場所で同時にこのふたりは心筋梗塞を起こしたことになる。しかも、T大で解剖された岩田秀一を含めれば、四人がほぼ同時刻に冠動脈の閉塞を起こしている。どうなってるんだ、一体」 「しかも、同じ症状だ。次の親子には目を通したか」  安藤は天井に向けていた顔を戻した。 「いや、まだだ」 「見てみろ、竜司と同様、咽頭部に潰瘍ができている」  あわてて、次のファイルをめくった。S大学で解剖された母娘の遺体。母、浅川静、三十歳。娘、陽子、一歳六ケ月。  安藤は、その名前に触れて、妙な引っ掛かりを覚えた。手を止めて、しばらく考え込んだ。何だろう、何か釈然としない。 「どうかしたのか?」  宮下が顔をのぞきこむ。 「いや、なんでもない」  ファイルの続きを読んだ。  今年、十月二十一日、正午頃、首都高速湾岸線の大井ランプ出口付近で、浅川静と陽子の母娘は、夫の運転する乗用車に乗っていて事故にあった。浦安方面から大井方面に向かうと、東京港トンネルの入口付近で渋滞にぶつかることがあるが、母娘の乗る乗用車は、ランプから出るために並んだ列の最後部にいた軽トラックに追突したのだった。車は大破し、リアシートに重なっていた母と娘が命を落とし、運転していた夫は重傷を負った。 「なぜ、これが司法解剖に回されたんだ?」  じれったそうに、安藤は尋ねる。明らかに交通事故で死亡した人間を司法解剖する例はあまりない。検事立ち会いのもとで司法解剖するのは、犯罪に関係があるとみられた場合のみだ。 「まあ、そう焦らず、先に目を通せよ」 「いいかげん、新しいファックスに替えたらどうだ。時代遅れもはなはだしい。読みにくくて、頭が痛くなってくる」  安藤は、すぐに丸まろうとするファックスを、宮下の目の前で振ってみせる。印刷の不鮮明なファイルを読むのは骨が折れるものだ。早く先を知りたくてうずうずしているのに、事件の概況がすんなり頭に入ってこず、苛立《いらだ》つ。 「堪《こら》え性の無い野郎だな」と前置きした上で、宮下は説明を始めた。 「当初、追突事故による死亡だと思われたのは確かだ。しかし、調べてみると致命傷らしき傷がない。車が大破したといっても、母と娘はリアシートにいた。不審を持たれたんだろうな。母娘の遺体は綿密に検死を受けた。すると、明らかに事故によって生じた打撲傷や裂傷が、母親と娘の額や顔、足などに発見された。だが、傷には生活反応がなかった……、というわけさ。ここからは、おまえの領分だろ」  遺体の傷を見て、それが生前につけられた傷か、死後につけられた傷かなど、生活反応の有無ですぐにわかってしまう。母と娘の傷には生活反応がなかった。となると、結論はひとつしかない。事故が起こったとき、母と娘は既に死亡していたことになる。 「運転していた夫は、車で妻と娘の死体を運んでいた、ってことか」  宮下は無言で両手を広げた。 「……ってことだ」  そうなれば、当然司法解剖の手続きが取られる。恐らく、もっとも考えられたケースはこんなところだろう。無理心中を図った夫が、妻と娘の首を絞めて殺害し、自分の死に場所を求めて車で移動中、事故にあってしまった……。だが、解剖の結果、夫の容疑は晴れる。母と娘の冠動脈も、他の症例と同様、閉塞を起こしていたからだ。他殺のはずがない。車で首都高速を走っている最中、妻と娘は心筋梗塞で死亡し、その直後に事故を起こしたことになる。  その点を踏まえれば、なぜ夫が運転を過ったのか、容易に想像がつく。最初彼は、自分の妻と娘が死んでいることに気付いていなかったのだ。もし、眠るように妻と娘が息を引き取ったとしたらどうだろう。夫は、運転しながら、リアシートの妻子が眠っているものとばかり思っていた。さっきからずっと、ふたりは折り重なっている。起こそうとして、ハンドルを握ったままフロントシートの隙間から左手を差し入れ、妻の身体を揺すった。起きない。もう一度、前方を確認してから、妻の膝あたりに手を伸ばす。そうして、何かの拍子に、妻子の身体に生じた異変を察知したのだ。彼はパニックを起こし、渋滞の最後部が迫っているのも気付かず、前方に向けるはずの視線を妻子のほうへと注いだ。  多かれ少なかれ、そんなところだろう。息子を亡くした経験を持つ安藤には、運転中の夫を襲ったパニックの大きさが、よく理解できる。自分もそうだったのだ。パニックさえ克服できれば、あのかわいらしい存在を失うことはなかった。だが、この男の場合、パニックを克服したところで、状況はあまり変わらない。妻子は既に死んでいたのだ。 「ところで、運転していた夫のほうは、どうなった?」  安藤は、つい二週間前に妻子を亡くしたばかりの男の行く末に、同情を覚えた。 「もちろん、入院中だ」 「傷の程度は?」 「身体のほうは、そうたいしたこともない。やられたのは、心のほうらしい」 「精神か……」 「ああ、妻子の死体と一緒に運ばれてからずっと、昏迷《こんめい》状態が続いているとのことだ」  昏迷状態とは、精神運動が停止したまま動かないことを言う。意識はあっても、食事や排尿にも支障をきたす場合が多い。 「かわいそうに……」  他に言いようがなかった。精神的ショックの激しさを十分に物語っている。一瞬にして妻子を奪われ、衝撃は脳に及んだ。ショックの激しさからすれば、この男は妻子を深く愛していたに違いない。  宮下の手からファックスを奪うと、安藤は指に唾《つば》をつけ、薄っぺらい用紙をめくった。夫が入院中の病院を知りたかったからだ。症状に興味があったし、知り合いの医師のいる病院なら、事情を詳しく聞き出せるかもしれない。  最初、目に飛び込んだのは、彼の名前だった。  ……浅川和行。 「なんだって」  驚きのあまり、つい間の抜けた声を漏らしてしまった。浅川和行。二日前、手帳に書き記した名前だ。竜司が死んだ翌日の夜、アパートにやってきて、その場に居合わせた舞に、ビデオテープに関して何か知らないかと、およそ突飛な質問を浴びせた男。 「知り合いなの」  あくびまじりに、宮下が聞いてくる。 「竜司の、な」 「竜司の?」 「運転していた浅川和行って男は、竜司の友人なんだ」 「なぜ、知ってる?」  安藤は手短に説明した。高野舞という女性が、通夜の席を抜け出して竜司の部屋で論文の整理をしている最中、浅川和行という男が現れたことを。 「まずいな、こりゃ」  安藤が何を「まずい」と感じたのか、わざわざ説明するまでもない。竜司を含め、七名の人間が同じ症状で死んだ。九月五日に四名、十月十九日に一名、十月二十一日に二名。大楠山ではふたり同時、南大井ランプの出口で交通事故にあった一家も、ほとんど同時に母と娘が死に、しかも、その夫は竜司の友人だった。なんらかの繋《つな》がりを持った者同士が、肉腫による冠動脈の閉塞というこれまでにない症状で死んでいる。当然出てくるのは、この新しい病気は伝染するという可能性だ。犠牲者の範囲が限定されていることからみて、空気感染するとは思えない。エイズと同様、非常に感染しにくい『伝染病』の可能性が出てくる。  安藤は、高野舞の身を案じた。竜司との肉体的な接触は、当然あったと考えたほうがいい。彼女になんと説明したものか、それを思うと気が重くなる。今はまだ、なにかよくないことが迫りつつあるとしか言えない。そんなあやふやな表現で、舞に警告を与えられるかどうか。  ……S大学に行ってみよう。  手元のファイルに記載された内容だけでは情報量が不足している。浅川の妻と娘を解剖した執刀医から直接話を聞くに越したことはない。宮下に断った上で、安藤は、S大学訪問のアポイントメントを取るため、受話器を持ち上げた。 7  連休明けの月曜日、安藤は大田区にあるS大学医学部を訪れた。宮下の教室からS大に電話を入れ、今すぐにでもうかがいたい旨を急《せ》き込んで話したところ、先方は動じる様子もなく、落ち着いた口調で、連休明けの月曜なら時間が取れると返答してきた。殺人事件等に関わる、緊急を要する問題ではない。好奇心に刺激されて動いている安藤としては、相手の都合に合わせるほかなかった。  安藤は法医学教室のドアをノックして、しばらくその場で待った。中からはなんの物音も聞こえない。腕時計を見ると、約束の一時までに十分ほど間がある。法医学教室は、外科や内科の医局と異なり、スタッフの数は格段に少ない。昼食をとるため、三、四人であろうスタッフは、全て出払ってしまったのだろう。  どうしようかと、その場に立ち尽くす安藤は、いいタイミングで背中から声を掛けられた。 「何か、御用ですか」  振り返ると、縁無しメガネをかけた小柄な青年が立っている。法医学教室の講師にしては若すぎるようにも見えたが、やや高音のその声には聞き覚えがあった。安藤は、名刺を取り出しながら名を名乗り、来訪の目的を伝えた。相手もまた、「はじめまして」と名刺を差し出す。思った通り、金曜日に電話で話した相手だった。名刺には、S大学法医学教室講師の肩書きがある。名前は、倉橋一芳。現在の地位からして、おそらく安藤と同年配だろうが、二十代前半といっても通じるほど倉橋は若々しく見えた。学生っぽさをカバーするためか、胸を張り気味にしてのしゃべり方には、落ち着きと威厳が誇張されている。 「ま、どうぞ」  倉橋は、慇懃《いんぎん》な物腰で安藤を教室に招じ入れた。  ファックスで交換できる情報にはあらかた眼を通してあった。今回の訪問の目的は、それ以外の物を観察させてもらったり、執刀医から直接話を聞いたりするためである。  安藤と倉橋は、世間話を交えながら、解剖した死体の所見を互いに語り合った。冠動脈内の肉腫による心筋梗塞という、これまでにない死因には、倉橋自身かなりびっくりしている様子で、話がそこに及ぶとさすがに冷静な口調も乱れた。 「ひとつごらんになりますか」  倉橋は立ち上がり、冠動脈が閉塞した部分の組織標本を取り出してきた。  安藤はひとしきり肉眼で眺めたあと、顕微鏡で細胞を観察した。一目瞭然、細胞には高山竜司とまったく同様の変化が生じていた。ヘマトキシリン・エオジン染色の施された細胞は、細胞質が赤、核の部分が青と色わけがなされる。ノーマルなものと比べ、病変部の細胞は形が歪《ゆが》み、核の部分が大きくなっている。したがって、正常な細胞が全体的に赤っぽく見えるとすれば、異常なそれは青っぽく見えることになる。今、安藤の眼の先には、青の上にアメーバ状に赤く浮かぶ斑《まだら》が広がっていた。この変化をもたらしたものは何なのか、その犯人をこれから見つけなければならない。肉体の損傷から凶器や犯人を割り出す以上に、困難な作業になるのは確かだ。  安藤は、顕微鏡から目を上げ、深呼吸をひとつした。ずっと見ていると、なんとなく息苦しくなってくる。 「ところで、これはだれの細胞なんですか」  宮下から見せてもらったファイルによれば、この大学で解剖された遺体は、浅川和行の妻と娘のはずである。 「奥さんのほうです」  壁面に並んだ棚の前に立ち、ファイルを抜き出しては元に戻していた倉橋は、顔をわずか横に向けて言った。捜しているものが、なかなか見つからないようで、倉橋はしきりに首をかしげている。  安藤はもう一度顕微鏡に目を戻した。ミクロの世界が、眼前に迫ってくる。  ……浅川和行の妻の細胞なのか、これは。  細胞の主を知り、その個体に生じた異変をなるべく具体的にイメージしようとした。浅川和行の運転する乗用車が、首都高速湾岸線の大井ランプ出口で追突事故を起こしたのは、先月十月二十一日、日曜日の正午頃のことだ。解剖の結果、妻と娘が死亡したのは、それより一時間ばかり前であると確認されている。つまり、午前十一時に、母と娘は同時に命を落とした。しかもまったく同じ症状。その点がどうしても解せなかった。  身体の中にあって、冠動脈の一部にできた肉腫など、ほんの小さな部分に過ぎない。それが、動脈を閉塞させるまでに成長し、心臓の働きを停止させた。ふたつの命を同時に奪った事実から、この肉腫がゆっくりと時間をかけて成長したとは到底思えない。同時期にある種のウィルスに感染したとしても、潜伏期を経て症状が発現し、死に至るまで数ケ月かかるとしたら、同時に死亡するはずがないのだ。人間には個人差がある。特に、三十歳近く年齢の離れた母と娘では、年齢による差が現れて当然だった。それとも偶然の一致なのか……、いや、そんなはずはない。安藤は覚えている。Y大学で解剖された若い男女も、同時に死亡したことが確認されているのだ。偶然でないとしたら、感染してから死に至るまでの時間が極めて短いと見做《みな》す他ない。  どうもウィルスでは説明しきれないようだ。安藤は、一旦ウィルス犯人説を打ち消し、食中毒のようなものを想像した。食中毒なら、同じ食事を取った人間が、ほぼ同時に同じ症状に陥る場合が多い。一口に食中毒といっても、自然毒、化学毒、細菌性のものと原因は様々ある。しかし、冠動脈に肉腫を作る毒の存在など、これまでに聞いたこともない。あるいは、どこかの研究室で極秘に研究された細菌が、事故で変異して漏れ出たのか……。  安藤は再び顔を上げた。どんな可能性も空想の域を出ず、推測が徒労に終わるのはわかりきっている。  倉橋は、ファイルを手に持って安藤の座るテーブルに近づき、傍らの椅子を引いた。そうして、中から十数枚の写真を抜き出す。事故現場の写真である。 「死亡当時の状況なんですが、なにかの参考になりますかどうか」  事故の状況写真を見ても、進展は期待できそうになかった。問題なのは細胞レベルの世界で生じた異変であって、運転者の不注意で追突事故を起こした現場の状況が、解決の糸口を提供するはずがないと、安藤は思い込んでいた。しかし、せっかく差し出された写真を無下《むげ》に返すわけにもいかず、安藤は形式的に一枚一枚手に取っていった。  最初の写真には、大破した車が写っている。ボンネットが山型に盛り上がり、バンパーもヘッドライトもぐしゃりと押し潰《つぶ》されていた。フロントガラスも粉々だったが、センターピラーはひしゃげてなく、大破といっても衝撃はリアシートにまでは及ばなかったと想像できる。  次は路面の状況が写された写真だった。渇いた路面にブレーキを踏んだ跡がないことから、浅川和行が脇見運転をしていたらしいとわかる。どこを見ていたのか……、おそらくリアシートを振り向き、冷たくなった妻と娘の身体に触れていたのだ。三日前、宮下の教室でイメージした情景が再び甦《よみがえ》った。  安藤は続けて二枚三枚と、トランプのカードでも切るように、写真をテーブルの上に捨てていった。とりたてて注意を引くものはなかったからだが、その手が、ふとある一枚の前で止まった。大破した車の内部を写した写真が、安藤の手の中にある。運転席側の窓にカメラを据えて、フロント部分だけを写したものだ。運転席にはだらりとシートベルトがたれ下がり、助手席は前に倒れている。安藤は見入った。なぜこの写真に興味をかきたてられたのか、瞬時にわかりかねたからだ。  本のページを無造作にめくっていて、これと同じ経験をしたことが何度かある。ある言葉が脳に突き刺さり、はっとしてページをめくる手を止めたにもかかわらず、どの個所のどの言葉が引っ掛かってきたのか、思い出せないときがあるのだ。安藤の手は汗ばんでいった。直感が働いていた。この写真は、明らかに何かを知らせようとしている。鼻の先が触れるほどに近づけ、端から端に何度も視線を這《は》わせていった。安藤は一点に視線を集中させた。そうして、ついに隠れているものを発見した。  倒れた助手席の背もたれの下に、前面の一部と側面だけをのぞかせて黒い物体が挟まり、シートの足元には同様の黒くて平べったい物体がヘッドレストに押さえられている。安藤は、およそ突拍子もない声を上げて、倉橋の名を呼んだ。 「ちょ、ちょっと、これなんですか」  安藤は倉橋の前に写真を差し出し、その場所を指で示した。倉橋はメガネをとって顔を近づけ、無言で首をかしげる。物の正体がわからないから首をかしげたのではない。なぜこんなものに興味を持つのか、安藤の真意を図りかねたからだ。 「これが、なにか?」  写真から目を離さないで、倉橋はつぶやいた。 「ビデオデッキ、のように見えるのですが、わたしには」  安藤は倉橋に同意を求めた。 「デッキのようですね」  倉橋は、正体を見極めると同時に、写真を安藤のほうへと押し戻した。側面の黒い長方形だけなら、助手席に置かれた菓子箱とも見えなくはない。しかし、よく観察すると、前面の右端に、丸く黒いツマミのようなものが見える。ビデオデッキかチューナー、あるいはアンプの類が考えられる。にもかかわらず、安藤はビデオデッキと断定していた。もうひとつの、ヘッドレストに押さえられた物体は、ポータブルのパソコンかワープロのように見える。浅川の職業を考えれば、常時ワープロを携帯していたとしてもおかしくはない。しかし、ビデオデッキとなると話は異なる。 「なぜこんなところにビデオデッキが」  ビデオデッキと決めつけたのは、高野舞から聞いた話が頭にあるからだ。竜司が死んだ翌日、浅川は竜司のアパートを訪れ、深刻な表情でビデオテープに関する質問を浴びせたという。そして、その翌日、浅川はビデオデッキを助手席に乗せてどこかに出掛け、品川の自宅に戻る途中、事故にあった。ビデオデッキを車に積んで、浅川は一体どこに行って来たのか。修理のためなら、首都高速に乗るまでもなく、近所の電気店に持っていけばすむ。その目的が、むしょうに気になった。よほどの理由がなければ、ビデオデッキを車に積んで走ったりはしないものだ。  安藤は再度、十数枚の写真を確認していった。そうして、車のナンバーが写っているものにぶつかると、バッグから手帳を取り出してメモした。 『品川 わ 5287』 「わ」というナンバープレートから、この車がレンタカーだとわかる。わざわざレンタカーを借りてまで、浅川はビデオデッキを運ぼうとしたのだ。なんのために? 安藤は、彼の立場に自分を置いて考えた。もし、ビデオデッキを運ぶとしたら、どんな理由からか。  ……ダビング。  他の理由は思い浮かばない。たとえば遠くの友人から電話が入り、素晴らしいビデオが手に入ったと連絡を受けたとしよう。ダビングしようにも友人宅にデッキは一台だけ。ぜひコピーが欲しいとなれば、こちらからデッキを運んでダビングさせてもらうしかない。……しかし、仮にそうだとしても。  安藤は頭を抱えた。  ……そんなビデオテープが、一連の変死事件と何の関係があるというのだ。  それでも、理性で割り切れない衝動があった。もし、手に入るものなら手にいれたいし、見られるものならその映像を見てみたかった。湾岸線の大井ランプ出口で事故にあったとすれば、所轄の警察署はどこだろうか。大破した車は一旦所轄署の交通課が保管することになる。車の中にビデオデッキが置かれていたら、それも一緒に交通課で預かるだろう。妻子が死に、浅川本人も意識不明で他に引き取り手がなければ、現在もデッキは交通課に保管されているのかもしれない。監察医という職業柄、安藤には警察官の知り合いが大勢いた。いざとなれば、浅川が運ぼうとしたビデオデッキを手に入れるくらい、安藤にはたやすい。  しかし、それ以前に、ぜひとも会わなければならない人間が思い浮かんだ。浅川和行本人である。彼の口から、事の真相を聞き出せれば一番てっとり早い。ファックスには、浅川は昏迷状態のまま病院に運ばれたとあった。十日以上経過した今、彼の症状に変化が生じている可能性もある。コミュニケーションが成り立つのなら、すぐにでも会って話したかった。 「浅川和行の入院先、わかりますか」  安藤は倉橋に尋ねた。 「品川済生病院……、だと思いましたが」  言ってから、倉橋はファイルで確認した。 「そうです、間違いありません。でも、この患者さん、昏迷状態とありますね」 「とにかく、面会してみますよ」  言いながら、安藤は自分を納得させるように何度もうなずいた。 8  タクシーのサイドガラスに顔をすりつけ、安藤はまどろんでいた。  右手の支えを失い、崩れるようにして、額を運転席に打ちつけたとき、警鐘らしき音が遠くから聞こえてきた。反射的に、腕時計を見た。午後二時十分。S大を出てすぐタクシーを拾ったのだから、乗ってから十分もたっていない。まどろんだのはほんの二、三分だろう。にもかかわらず、大きな時間の流れを感じた。S大を訪れ、倉橋講師から事故の状況写真を見せられたのが、何日も前のように思われる。気付かぬうちにどこか遠くへ連れ去られてしまったような気分で、安藤は、カンカンと鳴る警鐘を、密閉されたガラス窓の外に聞いていた。  タクシーは同じ位置に止まったままだ。四車線ある一番左側のラインは左折専用らしく、他のラインの流れはスムーズなのに、そこだけが動いていない。上半身を屈《かが》め、フロントガラス越しに左前方を見ると、降りた遮断器と点滅する踏切の警報器が目に入った。気のせいか、点滅のリズムとカンカンという音とが微妙にズレて聞こえる。第一京浜を左に折れて数十メートルのところに京浜急行の踏切があり、安藤の乗ったタクシーはさっきから足止めを食っていた。目指す品川済生病院は踏切を越えたところにある。上りの京浜急行が通過しても遮断器は上がらず、今度は下り電車を表す矢印に灯りが点《とも》った。簡単に通り抜けできそうになかった。タクシーの運転手はとっくに諦《あきら》め、紙挟みに束ねられたメモ用紙を一枚一枚めくって、何か書き込んでいる。  ……別に急ぐことはない。面会時間の終了する五時までには、充分時間がある。  安藤は背もたれにあずけていた頭を起こした。ふとだれかの視線を感じたからだ。凝視する目が、車の外、すぐ間近にあった。ガラスに挟まれ、組織標本となって顕微鏡で覗《のぞ》かれれば、こんな気分になるのかもしれない。こちらを一心に見つめる目には、観察者の視線が含まれていた。安藤は、左右を見回した。隣に停車した車に知人が乗っていて、合図を送っているのかと考えたからだが、それらしき車もなければ、歩道を歩く人影もなかった。気のせいだと、自分自身を納得させようとした。だが、視線は一向に弱まる気配を見せない。安藤はさらに、前後左右に顔を巡らせた。左側、歩道の向こうで、地面が土手のように盛り上がり、線路沿いを走っているのが見えた。こんもりとした頂きを覆う芝草の陰で、何かが動いている。少し動いては止まり、また動いて止まった。安藤に注ぐ視線をかたときもはずすことなく、地面を這《は》う生物は動と静の動きを繰り返している。こんなところで蛇を見るとは、思いも寄らなかった。秋の午後の日差しの中、蛇の両目は、小さく絞り込むようにして光っていた。観察者の正体が蛇であることは、もはや疑いようもなかった。見つめているのが蛇であったと知ると、意識の深層からひとつの光景が急速に浮かび上がってくる。田畑に囲まれた田舎で過ごした小学校の頃のワンシーンだった。  穏やかな春の午後のことだ。小学校からの帰宅途中、どぶ川に沿って建つブロック塀に、細紐《ほそひも》に似た灰色の小さな蛇を発見したことがあった。最初のうち、それは塀にできた亀裂のようにも見えたが、近づくにつれ、丸みを帯びた胴体が塀から浮き上がっていった。蛇と認めるやいなや、安藤は握り拳大の石を拾っていた。手の平に軽くぽんぽん投げ上げ、石の重さと大きさを確認し、ピッチャーのモーションでふりかぶった。川を挟んで塀までの距離は数メートル……、まさか命中するとは思わなかった。ところが、山なりに飛んでいった石は、上から振り払うようにして蛇の頭を直撃し、つぶした。その手応えに、安藤は悲鳴を上げたほどだ。数メートル離れているにもかかわらず、自分の握り拳で直《じか》に叩き潰したような感触が手に湧き上がり、安藤は何度もズボンの尻で手を拭《ぬぐ》った。頭を潰されて、蛇は、力を失った吸盤がステンレスから剥《は》がれるように、川の中へと落ちていった。安藤は川べりの草の茂みに一歩二歩と足を踏み入れ、蛇の末期を見極めようと身を屈め、流れに運ばれる蛇の死骸《しがい》を見た。そのとき、安藤は今と同じ視線を感じたのだ。死んだ蛇が放つ視線ではない。もう一匹、大きめの蛇が、草の陰に潜んでいて、じっとこちらをうかがっている。のっぺりとした顔に表情はなかったが、粘り気のある視線を執拗に絡みつかせて、逸《そ》らそうとしない。目に込められた悪意に、安藤はぞっとした。石に潰された小さな蛇が、見つめている蛇の子供だとしたら、自分にはなにか災難が降り掛かるに違いない……。今、大きな蛇は、子供の蛇を殺した安藤を強く呪《のろ》っているのだ。その思いが、視線の強さとなって表れている。祖母はよく口にしていた。「蛇を殺すとばちが当たる」と。安藤は後悔し、石を当てるつもりはなかったんだと、心の中で何度も弁解した。  二十年以上も前の出来事だったが、安藤は鮮やかに思い起こしていた。蛇のたたりなんて迷信に決まっているし、爬虫《はちゆう》類に自分の子供を認識する能力が備わっているはずがない……、理屈ではわかっていても、カンカンと鳴る警告の音は止まらなかった。もうやめろ、思考をストップするんだと、安藤は叫んだ。にもかかわらず、白い腹を出して川を流れる子供の蛇と、その後を追って泳ぐ親蛇が、二本の紐《ひも》のように絡まる姿を連想していた。  ……呪われたのだ。  うまく制御が利かなかった。意思とは逆に、因果関係がいよいよ明確に浮かび上がってくる。殺された蛇が川の両岸に茂る灌木《かんぼく》に堰《せ》き止められ、追いすがる親蛇と絡まって漂う光景が、執拗に離れない。その様は、細胞の核膜に収納されたDNAを思わせた。DNAは、絡まって空に上る二匹の蛇に似ている。幾世代もの間途切れることのない生命情報……。人間は常に二匹の蛇に縛られているのかもしれない。  安藤もかつて、自分の遺伝子を息子へと伝えたことがある。妻に似て、色白の華奢《きやしや》な身体をしていた。  ……孝則!  息子を呼ぶ声は、悲痛に満ちている。このままでは、制御できなくなる恐れがあった。安藤は、顔を起こし、窓の外を見回した。気を紛らせ、早急に連想を断ち切らねばならない。フロントガラスの向こうを、真っ赤な京浜急行がゆっくりと通過していった。品川駅を前にして、蛇がのたくるような速度で、通り過ぎてゆく。またもや蛇……。連想に出口はなかった。安藤は目を閉じ、他のことを考えようとした。波に飲まれ、沈んでいった小さな手は、安藤のふくらはぎを握りしめた。その感触が甦る。やはり蛇の呪いなのだ。安藤は嗚咽《おえつ》を漏らしそうになった。状況は非常によく似ている。頭を割られ、流されてゆく子供の蛇。二十年後、親蛇の呪いは現実のものとなって襲いかかった。間近にいるとわかっていても安藤は助けられなかったのだ。海開きする前の、誰もいない六月の海。息子と一緒に長方形のフロートに腹這いになり、足をバタバタさせて沖へ沖へと向かった。背後からは、妻の声が聞こえる。  ……たかちゃん、もう戻ってらっしゃい。  だが、上下に身体を揺られ、大はしゃぎの息子に、母の声は届かない。  ……あなた、そろそろ戻ってよ。  妻の声は幾分ヒステリックになりかけていた。  波も高くなり、そろそろ戻る頃合いだと、そんな予感が頭に閃《ひらめ》き、フロートの向きを変えようとした瞬間、目の前で白波がたち、あっという間にフロートは引っくり返り、息子共々海に投げ出された。頭まで沈んで初めて、そこが大人でも背が立たない程深いことを知り、パニックを起こしかけた。海の上に顔を出すと、息子の姿が見えない。立ち泳ぎでぐるりと一周すると、岸のほうから妻が服のまま走り寄ってくるのが見え、同時に、足にすがりつく手の感触を感じた。息子の手だ。身近に引き寄せようとあわてて身体の向きを変えたのがよくなかった。ふくらはぎから息子の手は離れ、伸ばした左手の先に髪の毛だけが触れた。  半狂乱になって水をかきわける妻の絶叫が、六月の海に響き渡っている。息子はすぐ近くにいる……、だが、手は届かない。海中に潜り、身体をやみくもに動かしても、一旦離れてしまった小さな手を再び捕らえることはできない。そうして、今もどこを漂っているのか、死体さえ上がることなく、息子は永久に消えてしまったのだ。薬指の、結婚指輪に絡まった数本の髪の毛だけを残して。  踏切の遮断器がようやく上がった。安藤は口を押さえ、声を漏らさないように、泣いていた。タクシーの運転手はとっくに気付いているらしく、チラチラと視線をバックミラーに飛ばしてくる。  ……崩れる前に、立ち直れ!  一人で寝るベッドの中ならともかく、日中こんなところで取り乱すわけにはいかなかった。現実に引き戻す力を秘めた空想なら、なんでもよかった。ふと、安藤の脳裏に高野舞の顔が浮かんだ。ガラスの容器さえ舐《な》めかねない熱心さで、フルーツパフェをスプーンですくって口に運んでいる。ワンピースから白いブラウスの襟をのぞかせ、左手を膝に乗せていた。パフェを食べ終わると、ナプキンで口もとを拭《ぬぐ》い、舞は立ち上がった。かすかに光明が見える。舞に対する性的な妄想のみが、悲しみの淵《ふち》からすくい上げる力を持っていると悟ったのだ。考えてみれば、息子を亡くし、妻と別居して以来、女性に対して妄想を働かせたことなどなかった。生に対する執着心をなくしていたからにほかならない。  タクシーは、上下に揺れながら、線路をまたいでいった。同時に、安藤の脳裏で、高野舞の裸体が上下に揺れていた。 9  小田急線を相模大野で降りて大通りに出ると、高野舞はさてどちらに曲がるべきか迷った。二週間前の夜、同じ道を逆に通ったはずなのに、方向感覚がすっかり失われている。お通夜のため、高山竜司の実家に向かったときは、監察医務院からの車に便乗させてもらった。電車を降りてひとりで歩くとなると、数十メートルも進まないうちに、地理がわからなくなる。今に始まったことではなかった。一回訪れただけの場所を、再度訪れようとして、迷子にならなかったためしはない。  実家の電話番号を控えてあるので、道がわからなくなれば電話で聞けばすむ。しかし、あまり早く電話をかけ、竜司の母親に迎えに出られても恐縮するだけだ。もう少し自分の勘を頼りに歩いてみることにした。歩いて十分ほどの距離だから、たいしたことはない。  ふと、安藤の顔が思い浮かんだ。今週の金曜日、食事の約束をしたけれども、今になって思えば、迂闊《うかつ》だったかなと少し後悔し始めている。舞にとって、竜司の友人である安藤は、共に故人を偲《しの》ぶ格好の相手であった。学生時代のエピソードなどを聞き出せれば、竜司の難解な思想を理解するヒントになるかもしれないと、わずかながら打算が働いたのも確かだ。しかし、安藤のほうに、普通の男が女に抱く思惑があったりすると、あとあと面倒なことになる。舞は、大学入学以来、男と女とでは求めるものがずいぶん異なると思い知らされていた。互いにいい関係をキープして、知的な刺激を与え合いたいと願っても、ボーイフレンドの関心は徐々に下半身へと下がってくる。やんわりと拒絶するほかないのだが、そのあとの狼狽《ろうばい》ぶりにはいつも辟易《へきえき》させられた。便箋に数枚お詫《わ》びの手紙をよこして傷口を広げたり、電話をかけてくる場合は、決まって開口一番「このまえはごめんね」とくる。謝ってほしくなどなかった。ひとつの経験として消化し、成長するための糧とすればいい。男が、恥をエネルギーにしてあがく姿こそ、舞は見たかった。一回り成長した姿で現れればいつでも友情は再開できるのだ。成長しきれない子供のような、幼稚な精神構造をあからさまにされては、友人関係など成り立ちようがない。  舞がこれまでに付き合った唯一の男性が高山竜司だった。ほとんどの男性が幼く見える中にあって、高山竜司の存在は別格だった。互いに与え合ったものは数知れない。もし、安藤との付き合いが、竜司と同様のものになるのなら、食事の誘いには何度でも乗るだろう。しかし、その確率が低いことを、舞は経験上知っている。自立した男らしい男に出合うチャンスなど、残念ながら日本ではほとんどゼロに等しい。それでも、舞には、安藤という存在が気になっていた。  以前、舞は竜司の口から安藤の名を聞いたことがあった。遺伝子工学の技術を語っている最中、話題が逸《そ》れ、たまたま口をついて出たのが彼の名前だった。  舞は、DNAと遺伝子との違いも明確に理解できてなく、まったく等しいものと思い込んでいた。舞の誤りを知り、竜司は、DNAは遺伝情報が書き込まれた化学物質の名前であり、遺伝子とは無数にある遺伝情報のひとつの単位であることをわかりやすく説明してくれた。さらに話は進み、制限酵素を用いてDNAを細かな切片に分断し、編集する技術へと及ぶと、舞はその処理の仕方を「パズルみたい」と形容した。竜司はその通りだとうなずき、「パズルであり、暗号解読だ」と答えた。そこで話題はさらに脇道に逸れ、学生時代のエピソードへと発展したのだ。  DNAを扱う技術に暗号解読的な要素があると知り、医学部の授業の合間、同級生たちと暗号遊びに耽《ふけ》ったことがある……、竜司はそんなふうに、学生時代の逸話をおもしろおかしく舞に紹介し始めた。当時、分子生物学に興味を持つ医学生は多く、竜司の誘いに乗って遊びに加わる者は十人近くに膨れ上がった。ゲームの仕組みはごく簡単だった。一人の出題者が提示した暗号を期日以内にだれが最も早く解読できるかを競うのだ。数学や論理学の知識がためされ、瞬間的なひらめきが要求されるとあって、医学部の学生たちは夢中でゲームに参加した。  出題者の能力によって暗号の難しさは様々だったが、出題されたほとんどを竜司は解読することができた。また、竜司の出題した暗号を解読できた同級生は、たったひとりを除いてだれもいない。そのたったひとりが、安藤満男だった。竜司は、自分の出題した暗号を安藤に解読されたときのショックを、舞に打ち明けた。  ……心の内を読まれたようで、薄寒くなったよ。  安藤満男という名前は、強く舞の印象に残ることになった。  だから、監察医務院で、担当の刑事から安藤を紹介されたとき、舞は驚いてしまった。本人自ら、竜司の友人だったと名乗るからには間違いない。竜司の出題した暗号を解読し得た唯一の人間と知り、舞は頼もしく思った。この人の手にかかれば、メスさばきもあざやかに遺体は以前と同じく修復され、死因も簡単に判明するだろうと。  舞は、二週間前に死んだ人間の言葉に影響されていた。生前、竜司の口から安藤の名を聞いていなければ、死因に関する問い合わせで、安藤のいる監察医務院に電話などかけなかったし、大学での待ち合わせにも応じなかっただろう。もちろん、食事の約束も交わすことはなかった。ふと竜司の口から漏れ出た一言に、舞は微妙に束縛されている。  大通りを折れ、複雑に入り組んだ住宅街の小路に入ると、コンビニエンスストアの看板が目についた。見覚えのある看板だった。ここまで来れば、もう迷うことはない。コンビニの角を曲がった先に、高山竜司の実家がある。二週間前の記憶が甦ると、舞は足を早めた。  百坪ほどの敷地に建てられた、これといって特色のない家だった。通夜のときの記憶では、一階に十五畳のリビングがあって八畳の和室と接しているはずだ。  玄関のチャイムを鳴らすと、待ちかねたように母が顔を出し、舞を二階へと案内した。通された部屋は、小学校から大学二年まで竜司が過ごした勉強部屋だった。大学の三年になると、通学可能な距離にもかかわらず、竜司は実家を出て大学の近くで下宿生活を始めた。以来、この部屋は、竜司が実家に戻ったときにのみ、勉強部屋として使われていた。  竜司の母は、ショートケーキとコーヒーカップを置いて部屋を出ていった。頭をうなだれて廊下を歩く姿は憂鬱《ゆううつ》そのもので、息子を亡くしたばかりの母の辛さが、舞には身に沁《し》みて感じられた。  一人残され、舞は改めて部屋を見回す。八畳の和室の隅に、二畳ぶんのカーペットが敷かれ、その上に勉強机が置かれている。壁は一面書棚に囲まれていたが、床に積み上げられた段ボール箱や乱雑に放置された電気製品に邪魔されて、上の部分しか見えない。置いてある段ボール箱の数をざっと数えた。二十七個ある。これだけのものが、竜司の死後、東中野の彼のアパートから運び込まれた。ベッドや机など、大きめの家具はよそに処分して、段ボール箱の中身は主に書籍類とのことだ。  溜《た》め息をつきながら、畳の上に腰を下ろし、舞はコーヒーを一口すすった。見つからなかった場合を考えておいたほうがいい……、半分諦《あきら》めかけていた。もし、この中に紛れ込んでいるとしても、数枚の原稿を捜し当てるなど至難の技と思えた。段ボール箱になければ、すべて無駄骨に終わる。  段ボール箱は一個一個ガムテープで封がしてあった。カーディガンを脱ぎ、袖《そで》まくりすると、試しに、一番手前のひとつを開けてみる。中身は、文庫本だった。思わず、何冊か手に取っていた。その中の一冊は、舞がプレゼントしたものだった。むしょうに懐かしい。東中野の、竜司のアパートの匂いが、本のカバーに染み付いている。  ……こんなところで感傷に浸ってる場合じゃない。  溢《あふ》れそうになる涙を堪《こら》え、舞は自分の仕事へと戻り、箱の中のものを取り出していった。  底を見渡しても、四百字詰めの原稿用紙はありそうもなかった。紛れ込んだとしたらどこだろうと、舞は推理を働かせる。参考文献の中か、あるいは資料を閉じ込んだファイルの中か。次々に封を開けていった。  背中から、うっすらと汗がにじんでくる。段ボール箱から書籍類を出し入れし、書きかけの原稿用紙を捜すのは、なかなか骨の折れる作業だった。三箱かたづけたところで舞は手を止め、落丁したぶんのページを自分の言葉で書き著す可能性を思案した。記号論理学の難解な思想は、既に専門誌で単発的に発表されてきた。今回の論文は、専門的なものではなく、一般読者を対象にした、論理学に科学や社会問題等を絡めた長編である。内容も、それほど難解ではない。大手出版社が出す月刊誌への連載というかたちでスタートした時点から、舞は清書を買って出て、担当編集者との打ち合せにも同席するようにしていた。その甲斐あって、理論の流れも文体も、しっかり頭に入っている。たった一枚や二枚の分量なら、辻褄《つじつま》を合わせるぐらいなんでもないように思われたのだ。  ……たった一枚だとわかっていれば。  抜け落ちているのが一枚だけとわかっていれば、舞は誘惑に負けただろう。連載一回分の分量が、四百字詰め原稿用紙で約四十枚。三十七枚のときもあれば、四十三枚のときもあった。全十二回連載の最終回が、何枚の原稿に膨れ上がり、そこから何枚分が抜け落ちたのか舞には知りようがない。通夜の席を抜け出し、竜司のアパートで原稿の整理をしたとき、舞が手にしたのは、書き上げられたばかりの三十八枚の手書き原稿だった。ページ数も三十八で終わっていたし、枚数もその通り揃っていたから、まさか落丁があるとは疑いもしなかった。それが、葬儀やらなにやらで清書にとりかかるのが遅れ、締め切り間際になって読み返して初めて、最後のページとその前のページの間が、すっぽりと抜け落ちているのに気付いた。三十七、三十八と、ページのノンブルはつながっているのに、結論ともいえる重要な何かが抜け落ちていて、論が通じないのだ。三十七ページのラスト二行は、万年筆の縦線で削除され、そこから矢印が左上へと消えている。しかし、次のページにはその矢印の先が書き記されていない。書き足した内容があるにもかかわらず、その分が消えているとしか考えられなかった。  舞は色を失い、何度も最初から読み返してみた。読み返すほど、落丁があるのはますます明らかになった。回をおうごとに、繰り返され、膨れ上がった思想が、「いや、だからこそ」という言葉で一旦停止し、アンチテーゼともいえる展開をほのめかせたところで、文章は切断され、唐突に終わっている。脈絡を辿《たど》るほど、数枚にも及ぶ重要な個所が抜け落ちたとしか考えられないのだ。全十二回、五百枚に及ぶ論文は、既に単行本としての発刊が決まっていた。そのラストだけに、舞は慎重になった。  さっそく竜司の実家に電話を入れ、事の次第を打ち明けた。葬儀がすんで二、三日のうちに、竜司が住んでいたアパートは引き払われ、書籍やその他身の回りの物は、実家の彼の部屋に運び込まれていた。もし落丁分の原稿が紛れ込んだとしたら、その中にあるかもしれないから、捜させてほしいと舞は訴えたのだ。  積み上げられた箱を前にして、舞はつい泣きごとを漏らしたくなる。  ……もう、どうして死んじゃったのよ。  連載の最終回を書き上げた直後に息を引き取るという、離れ業をやってのけた竜司がうらめしい。  ……今この場に現れて、紛失した原稿のありかを教えてちょうだい。  舞は冷め切ったコーヒーに手を伸ばした。もっと早く竜司の原稿に目を通しておけば、こんなことにはならなかったのだ。それが悔やまれてならない。もし、落丁分が発見されなければ、やはり最終的には舞自身の手で補うほかないだろう。しかし、それが竜司の思想から外れていたときのことを考えると、身体は萎縮するばかりだ。なんともおこがましい。大学院への進学が決まっているとはいえ、二十歳をいくらも出ない小娘が、将来を属目《しよくもく》された論理学者の、遺作の結論部分を勝手に改竄《かいざん》する……。  ……やはり、わたしには無理だわ。  どうしても捜し出すほかないのだと、舞は自分に言い聞かせ、次の段ボール箱の封を切った。  四時を少し過ぎた頃、東向きの部屋は幾分暗くなり、舞は電灯を点《とも》した。十一月に入って、日は目に見えて短くなっていた。しかし寒くはない。舞は立ち上がってカーテンを引いた。さっきから、どうも気になってしかたがなかった。窓の外から覗《のぞ》かれているような気がするのだ。  既に半分以上の段ボール箱を調べ終えていた。原稿は、まだ見つからない。  突然、舞は心臓の鼓動を聞いた。自分の胸の内側が、激しく脈打っている。舞は動きを止め、立て膝で猫背のまま、動悸《どうき》が治まるのを待った。これまで、動悸に襲われた経験はなかった。舞はそっと左胸に手を当て、なぜこんな症状に陥るのだろうと、理由を考えた。恩師の原稿を紛失させてしまった罪悪感からか……、いや、違う。何かが隠れている、この部屋の中。さっきは窓の外からの視線と思ったけれど、そうではなさそうだ。段ボールの陰から、猫でも飛び出しそうな気配がある。  後頭部から首筋にかけて、冷やっとした感触が走った。刺すような視線……。舞は後ろを振り返った。ピンク色のカーディガンが、箱の上部にかけられている。作業を始める前に、脱いでかけておいたものだ。毛糸と毛糸の細かな隙間に、部屋の明かりを反射させて目が光っているような気がした。舞は、カーディガンを取った。中から出てきたのは、ビデオデッキだった。  真っ黒なボディのビデオデッキは、コードにぐるぐる巻きにされ、段ボール箱の上に乗せられていた。竜司の部屋に置かれてあったものに間違いない。書籍類といっしょにこの部屋に運び込まれたのだ。そばにテレビはなく、もちろん配線もつながってはいない。  舞は、恐る恐る手を伸ばし、デッキの端に触れてみた。コードが中央に巻かれてあり、その膨らみのせいで、左右がシーソーのように揺れた。  ……デッキの上に、わたしはカーディガンをかけた?  自問してみる。記憶は曖昧《あいまい》だった。もちろん、それ以外の解釈はありえない。作業に入る前にカーディガンを脱ぎ、何気なくデッキの上に乗せたのだ。  およそ一分間、ビデオデッキとにらみ合ううち、彼女の頭から原稿のことはすっかり消えた。代わって、ビデオに関する疑問が渦を巻く。 「本当に、竜司はあなたになにも言い残してないのですね? たとえば、ビデオテープのこととか……」  竜司が死んだ翌日、浅川和行が言った言葉は忘れようがない。  舞は、デッキ本体に巻いてあったコードを解いていった。電源コードの先を持ち、コンセントを捜す。机の下に、延長コードが無造作に投げ出されていた。舞は、デッキの電源を入れた。すると、タイマー表示部分に並ぶ、四つの0が揃って点滅を始めた。死人が息を吹き返したような、機械の鼓動。舞は、右手人差指をピンと伸ばし、何度もデッキの前を往復させた。まだ迷いがある。触れるな、という声が聞こえる。それでも舞は、エジェクトボタンを押した。カセット挿入口が開き、機械音と共に中からビデオテープが押し出されてきた。背に貼《は》られたラベルには、タイトルが書き込まれていた。 『ライザ・ミネリ、フランク・シナトラ、サミー・デイビス・Jr・1989』  押し出されたビデオテープは巨大な舌に似ている。デッキは、ウィンクをしながら、あっかんべーをしているように見えた。  舞は、黒い舌ベロを手で掴《つか》み、引き抜いていった。 10  品川済生病院を目前にしたところで、安藤の乗るタクシーは、サイレンを鳴らして走る救急車に追い抜かれた。一方通行の狭い商店街では、救急車を先に行かせるために、縦列駐車の要領で停車中の軽トラックの間に車を寄せねばならなかった。出るには、最低一回の切り返しが必要だろうと、安藤はそこでタクシーを降りることにした。すぐ目と鼻の先に、十一階建ての品川済生病院がそびえている。降りたほうが早いと判断したからだ。  商店街から病院の正面玄関に折れると、新館と旧館の間に、さっきの救急車が滑り込んで行くのが見えた。商店街を抜けるのに手間取ったと見え、途中でタクシーを降りて歩いた安藤と、到着時間に大差なかった。  赤色灯の赤い斑模様を病院の壁面にぐるりと投げかけ、サイレンだけがやんだ。直後、晴れた空から静寂が降りてきて、スポットライトのように救急車の回りに無音の空間を作り上げた。病院内に入るには、救急車の脇を通らねばならない。赤色灯の回転も徐々にとまり、音の余韻は上空に消えようとしていた。今にもリアハッチが開き、救急隊員とともに担架が降ろされそうな雰囲気が濃厚に立ち込めたが、何も起こらない。安藤は足を止め、見守った。十秒……、二十秒……、まだハッチは開かず、静寂は持続する。三十秒……、空気は凍りついていった。病棟のほうからも、だれひとり飛び出して来ない。  我に返り、安藤は歩きかけた。突如、勢いよくリアハッチが開いた。弾《はじ》けるように救急車の外に転がり出るひとりの救急隊員。車内に残った救急隊員との連携により、手際よく担架が降ろされていった。すぐに降ろせない事情があったにしても、対応があまりに遅すぎる。担架が斜めに傾斜し、顔に酸素マスクをはめた急患の顔と、覗き込む格好の安藤の顔がちょうど並行になった一瞬、互いの目と目が合った。身をよじり、安藤のほうにわき腹を見せたかと思うと、患者の動きは止まった。その目には、既に生気がなかった。危篤状態のまま救急車で走り、たった今臨終を迎えたのだ。職業柄、患者の臨終に立ち会ったことは何度もある。しかし、こんな偶然に遭遇したのは初めてだった。不吉なものを感じ、安藤は死人から目を逸《そ》らした。星占いに凝っている宮下となんら変わりがない。土手で見かけた蛇にしろ、死の瞬間に遭遇したという偶然にしろ、安藤は近頃、小さな事象の背後に、特別の意味を読み取ろうとしがちだった。ジンクスや占いの言葉に縛られて身動きが取れなくなる人間を、かつては愚か者と蔑《さげす》んでいたが、自分も同類であると思い知らされた。  品川済生病院はS大学系列の総合病院で、担当の和田医師もS大学から派遣されていた。先輩の倉橋から連絡をもらっているらしく、来訪の目的を告げるとすぐ、安藤は西病棟の七階に案内された。  ベッドに横臥《おうが》する浅川の目を覗き込んだとたん、安藤は、つい今しがた見かけた急患の目を思い出した。まったく同じ質の目がそこにある。死人の目だ。  二種類の点滴を腕に受け、浅川は天井に顔を向けたまま、びくとも動かない。以前の容姿は知らないが、体重はおそらく半減しているだろう。頬はこけ、無精ひげの半分以上は白くなっていた。  安藤はそっと傍らに寄り、小さく声をかけた。 「浅川さん」  返事はない。肩のあたりに触れようとしてためらい、和田医師の顔色をうかがった。和田がうなずくのを確かめてから、安藤は手を浅川の肩に置いた。弾力性のない皮膚が、浴衣《ゆかた》の下にある。その下の肩甲骨の感触までがダイレクトに伝わり、安藤は思わず手を宙に浮かせた。やはり何の反応もなかった。 「ずっとこんな具合なんですか」  浅川のベッドから離れると、安藤は和田に向き直った。 「ええ、そうです」  和田は無表情で答えた。交通事故で運び込まれたのが先月の二十一日だから、今日でまる十五日間、浅川は、喋《しやべ》らず、泣かず、笑わず、怒らず、食べず、排尿排便をしない日常を送っていることになる。 「先生は、原因をなんだとお考えですか」  安藤は丁寧に尋ねた。 「事故で、脳が外傷を受けたと思ったんですが、検査の結果、異常はありませんでした。おそらく、内因性のものでしょう」 「精神的なショック?」 「たぶん……」  妻と娘を同時に奪われたショックで、浅川の精神は崩壊した……、本当にそれだけなのだろうかと、安藤は気にかかった。現場写真を見ているせいか、安藤は妙にリアルに、浅川が起こした事故の瞬間をイメージすることができる。  そして、思い浮かべるたび、視線は助手席へと注がれた。鎮座ましますビデオデッキが、イメージの中で巨大化していく。なんの目的でデッキを積み込み、どこに行ってきたのか……。本人に聞き出せれば、それに越したことはない。  浅川の枕《まくら》もとに丸椅子を引っ張って、安藤は腰をおろした。夢の世界に浸る浅川の横顔をしばらく見つめ、彼が漂っているであろう世界を想像してみる。現実の世界と、妄想の世界と、住むとしたらどちらが幸せなのだろうか。たぶん、妄想の世界では、妻と娘はまだ生きているに違いない。娘を胸に抱き、共に戯れているのだろうか。 「浅川さん」  同じ悲しみを味わった同士として、安藤は思いを込めて名前を呼んだ。高校時代、竜司と同級生だったのだから、二歳若いはずだ。しかし、外見は、六十過ぎの老人に見える。何が原因で、急激な変化が生じたのか。悲しみは、老いを早める。確かに、安藤自身、ここ一年でかなり老け込んだ。実際の年齢より下に見られていた安藤が、年齢より老けて見られることが多くなった。 「浅川さん」  二度目に名前を呼んだとき、見るに見かねて、和田は横から口を挟んできた。 「無駄だと思いますよ、声をかけても」  和田の言う通り、いくら声をかけても反応は何もない。安藤は諦めて立ち上がった。 「回復の見込みは?」  和田は軽く両手を上げて言う。 「神のみぞ知るってとこですか」  こういった患者の場合、なんの兆候もなく症状はよくなったり悪くなったりして、医学的に予測がつかない場合が多い。 「症状に変化がありましたら、ぜひ知らせてほしいのですが」 「わかりました」  これ以上ここにいる意味はなく、安藤と和田は連れ立って病室を出た。ドアのところで立ち止まり、もう一度ベッドのほうに目をやったが、浅川の顔にはなんの変化も見られない。死人の目でじっと天井を見上げているだけだ。 11  座椅子の背もたれをいっぱいに倒し、高野舞は顔を天井に向けた。行き詰まったときの癖だった。身体を反らし気味にすれば、背後の棚に並ぶ書籍のタイトルが逆に読める。シャンプー後のなま乾きの髪が絨毯《じゆうたん》に広がるのも気にせず、無理な姿勢のまま、舞は目を閉じた。  バスルームとミニキッチンを含めて五坪にも満たない狭いワンルームだった。壁一面を本棚に占領されてベッドや机を置くスペースはなく、寝るときには勉強机代わりの座卓を隅に寄せて布団を敷く生活だった。親許からの仕送りと家庭教師のアルバイト代だけで、大学の近くに部屋を借りようと思えば、空間を犠牲にする他ない。通学時間が短く、バストイレ付きで、プライバシーが確保されていること、以上三点が部屋を選ぶときの最低条件だった。生活費の約半分を部屋代に持っていかれることになる。それでも、舞は満足していた。少し郊外に出れば広い部屋が手に入るとわかっていても、引っ越すつもりはなかった。座ったまま手を伸ばせば、必要な品に届くこの狭さが、かえって便利でもある。  目を閉じたまま、舞は手探りでCDラジカセをセットし、お気に入りの曲を流した。  曲に合わせて、舞は、両手で腿《もも》のあたりを叩いた。中学高校と、陸上の短距離ランナーとして活躍したせいか、足には柔らかさよりも硬さが勝っている。花柄のパジャマで包まれた胸を、音楽に合わせて膨らませて呼吸を整え、いい知恵が浮かびますようにと祈りながら、一定のリズムで鼻孔を閉じたり開いたりする。今晩中に原稿が上がるかどうか、それを思うと不安のあまり思考は乱れがちになった。  明日の午後には、S書房の担当編集者である木村に会い、清書した竜司の原稿を手渡す手筈《てはず》になっていた。しかるに、原稿のラストにどう手を加えるべきか、今もって解決策が得られずにいる。今日、竜司の実家を訪れても、紛失した原稿は見つからなかった。これ以上原稿捜しに無駄な時間を費やす余裕はない。第一、書き加えた原稿が本当に存在するのかどうか、舞は怪しいと思い始めていた。あとで書き足そうとして、未完成のまま竜司が死んでしまった可能性もあるのだ。とすれば、捜すのは諦め、最終回に相応《ふさわ》しく体裁を整えるのに全力を尽くしたほうがいい。  言葉に詰まったまま、さっきから一行も書き加えられないでいた。シャワーを浴び、気分転換をはかっても筆は進まず、書いては直し破っては捨ての繰り返しだった。  舞はひらめきを得て、目を開けた。  ……書き足そうとするから、言葉が浮かばないんだわ。  原稿のラストにある空白の帯を、自分の言葉で埋めようとするから苦労するのだ。高山竜司の、ときに飛躍しがちな思考の流れを推測しようとしても、どだい無理にきまっている。とすれば、うまく辻褄《つじつま》が合うように前後を削るしかない。  舞は起き上がり、座椅子の背もたれをほぼ垂直に調節した。光明が見えてきた。言葉を付け加えるより、削除する作業のほうがずっと楽だ。そのほうが竜司も喜ぶに違いない。言い足りない思いは残ったとしても、勝手に改竄《かいざん》され、思想をねじ曲げられるよりはずっとましだろう。  解決策に思い至るや、舞の気持ちに余裕が生じた。その隙をついて、一本のビデオテープが視界に飛び込んできた。竜司の実家から黙って持ってきたものだ。実家の勉強部屋で見つけたとき、舞はどうしても中身を知りたい思いに駆られた。しかし、デッキは配線が解かれていて、部屋にテレビはなかった。見るとすれば、持ち帰る他ない。初めは、家の人に断った上で借りるつもりでいた。しかし、原稿捜しを諦めて家を辞去するとき、言葉を用意しておいたはずが、なんと切り出すべきか急に頭が混乱してしまったのだ。  ……すみません、このビデオテープ、とっても気になるものですから、お借りしてもよろしいでしょうか。  あやふやな表現だった。気になる、とはどういうことなのか。説明を求められても、答えることはできない。結局、バッグに忍ばせたまま、舞は無断でビデオテープを持ち出すことになった。 『ライザ・ミネリ、フランク・シナトラ、サミー・デイビス・Jr・1989』  音楽番組を録画したであろう、何の変哲もないビデオテープに、つい意識を取られてしまう。いつバッグから取り出し、テレビの上に乗せたのか、舞の記憶は覚束《おぼつか》ない。十四インチビデオ一体型テレビの上から、それは誘いかけている。竜司の部屋で、デッキという機械の箱に入っているときも、テープは吸引力を発していた。殻から出し、剥《む》き出しのまま放置しておくと、身体ごと吸い込まれそうになる。  タイトルだけを見れば、竜司の音楽の趣味とはまるで異なっている。舞が知る限り、竜司は音楽をほとんど聴かなかった。たまに聴いたとしても、クラシックの小品ばかりだった。第一、ラベルに書かれたタイトルの筆跡からも、テープが竜司のものでないのは明らかだ。第三者によって録画されたものが、東中野の竜司のアパートに運び込まれ、巡り巡って今こうして、舞の部屋にある。  舞は座ったまま手を伸ばし、テープをデッキに挿入した。自動的に、スイッチがオンになる。チャンネルを合わせ、プレイボタンを押した。  ガチャリと音をたて、作動しかけたところで、舞はあわててポーズボタンに触れた。見てはならないものだったらどうしようと、ためらいが生じたのだ。一旦脳裏に焼きついた映像を拭《ぬぐ》い、白紙の状態に戻すのは、絶対に不可能なのだ。後悔する前にやめたほうがいいかもしれない。迷いはあったが、やはり好奇心には勝てず、舞はポーズを解除した。  雑音とともに画面は乱れ、一呼吸おいて墨を流したような映像が目に飛び込んできた。もう後戻りはできない。舞は覚悟を決めた。その後、展開したのは、タイトルからは想像もできない意味不明なシーンの連続だった。  見終わるとすぐ、舞は吐き気を感じてバスルームへ駆け込んだ。途中で消せばよかったものを、映像の圧倒的迫力に抗し切れず、最後まで見てしまった。いや、見てしまったというより、見せられたというほうが当たっている。舞はどうしてもストップボタンを押すことができなかったのだ。  汗びっしょりの身体は小刻みに震え、胃から喉《のど》へと込み上げてくるものがあった。恐怖よりも嫌悪感のほうが勝っている。身体の奥の奥のほうに何か異物が入り込んでしまったような気がした。出さなければという強迫観念で喉に指を突っ込み、ほんの少し嘔吐《おうと》した。胃液にむせて咳《せ》き込み、涙が流れる。うつろな視線をさまよわせ、舞はがっくりと膝をついた。自分が消滅していく感覚をしばらく味わった後、彼女の意識はふっと遠のいていった。 第二章 失 踪 1  約束の時間を十五分過ぎた頃から、安藤はそわそわしだした。手帳を取り出し、もう一度スケジュールを確認する。  ……十一月九日、金曜日、JR渋谷駅西口モアイ像前、六時。  思い違いではない。舞と食事の約束をした時間が、確かに手帳に記入されている。  雑踏をかきわけるようにして安藤はあたりを軽く一周し、年格好の同じ女性がいると近づいて顔をのぞきこんだりした。だが、どれも舞ではなかった。  三十分を過ぎた頃だった。約束を忘れているのかもしれないと、安藤は公衆電話から舞の部屋に電話を入れた。六回七回とコールが繰り返される。彼女の住む部屋の狭さは聞かされていた。  ……狭いの。五畳にも満たないんだから。  十回目のコール。もう明らかだった。舞は部屋にはいない。安藤は受話器を耳から離した。何かの事情で遅くなり、たぶん今頃はこちらに向かっているのだろう。そう念じて、安藤は受話器をフックに戻した。  何度も時計に目がいってしまう。そろそろ一時間になろうとしていた。  ……一時間過ぎたら諦《あきら》めて帰ろう。  女性とのデートなど久しぶり過ぎて、待ち時間の限度がどのくらいなのかも忘れてしまった。考えてみれば、待ちぼうけを食わされた経験もない。付き合っている頃の妻は時間に正確で、待たせたことはあっても、待たされたことはなかった。  待ち合わせに関する過去の様々なエピソードを思い返しているうちに、空しく一時間が過ぎていった。だが、安藤はその場から動くことができない。一縷《いちる》の望みを捨てることができず、あともう五分だけと自分に言い聞かせている。一週間というもの、今日の逢瀬《おうせ》を心待ちにしていたのだ。簡単に諦め切れるわけではない。  結局、安藤は一時間三十三分、渋谷の雑踏の中に立ち尽くした。しかし、とうとう舞は現れなかった。  ホテルに入るとすぐロビーに行き、安藤は送別会の会場を尋ねた。医局をやめ、郷里の医院を継ぐことになった舟越の送別会には、既に欠席の返事をしてあった。だが、舞にデートをすっぽかされた今、欠席の理由はなくなった。寒くなり始めた季節、渋谷駅前の若い人熱《ひといき》れを浴びたまま、だれもいないマンションに直行するのはなんとも寂しくてやりきれない。友人とのどんちゃん騒ぎもたまにはいいだろうと、から振りに終わったデートの代償を求めて、一度断った送別会への参加を思い立ったのだ。  会はお開きに近づき、親しい者同士三々五々の集まりが、二次会へと合流しつつあった。一次会だけで教授は帰ってしまい、親しい友人たちと心おきなく語り合えるのは二次会からだ。安藤は、タイミングよくその流れに乗ったことになる。  宮下のほうから先に気付き、近づいてきて安藤の肩に手を乗せた。 「なんだ、おまえ、デートじゃなかったのか」 「すっぽかされちまった」  わざと軽い調子で言ってのける。 「そりゃ、残念。ま、ちょっと、こっちに来いや」  宮下は、安藤の袖口を持って、ドアの陰へと引っ張った。女に振られたことなど、それ以上|詮索《せんさく》しようともしない。 「どうしたんだ?」  安藤は訝《いぶか》った。  宮下が何か喋《しやべ》ろうとしたところで、ふたりのそばを、第二内科の安川教授が通りかかった。宮下は早口で囁《ささや》いた。 「おまえ二次会に来るだろう」 「ああ、そのつもりだ」 「よし、じゃあ、その席でちょっと耳に入れておきたいことがある」  宮下はそれだけ言うと、如才《じよさい》なく安川教授に近づいていった。そうして、幹事の立場で会へ参加してもらった礼を述べ、冗談を交えながら脂肪だらけの顔をほころばせている。さすがに、どの教授からも可愛がられている宮下だけのことはあると、安藤は妙に感心した。もし、他の人間が同じことをしたら、もっといやらしく映っただろう。だが、宮下なら全てが許せてしまう。  安藤はドアのところに立って、宮下と安川教授の会話が終わるのを待った。その間、知った顔が何人か、安藤のそばを通り過ぎていった。だが、軽く挨拶《あいさつ》をよこすだけで、立ち止まって親しく話しかけてくる者はいない。  昨年の夏、息子を海で亡くして以来、友人の数はめっきり減ってしまった。去っていった友人たちを責める気など毛頭ない。非は自分のほうにあると、安藤は心得ている。事故の後、友人たちは大挙して駆けつけ、あの手この手で慰めようとしてくれた。だが、安藤はそれに応《こた》えることができなかった。いつまでも悲しみを引きずり、友人たちに憂鬱《ゆううつ》な顔を見せ続けた。「元気出せよ」と言われても、元気など出るものではない。ひとり去り、ふたり去り、気付いたときには宮下だけになっていた。宮下は、いくら安藤が悲壮な顔をしてもお構いなく冗談を飛ばし、不幸ですら笑い話の種にした。だからこそ、彼と接しているときにのみ、悲しみを忘れることができたのだ。宮下と他の友人たちとの差はどこにあったのか、安藤は今、ある程度分析することができる。他の友人たちは、安藤を元気づけるためにやってきた。しかし、宮下は違う。一緒に遊ぶためにやってきたのだ。「元気出せよ」というセリフほど無意味な言葉はない。本当に元気になってもらいたいのなら、ただ忘却への手助けをしてくれればいい。「元気出せよ」と言われたとたん、元気を失わせることになった原因に意識は舞い戻ってしまう。忘却どころではない。  安藤はここ一年半の間、晴れやかな表情をしたことがなかった。その点はよく自覚している。高野舞の視点に立って、自分の顔を客観的に想像した。見るからに重苦しい顔。一緒に食事をしても気は滅入るだけだろう。  ……だから、来なかったのだろうか。  そう思うと情けなかった。一年半前までの自分は自信に満ち、前途は洋々としていた。夫婦仲はよく、息子は可愛く、南青山の豪華マンション、本革張りのBMW、将来手に入る予定の病院長という地位……。だが、考えてみればすべて妻か、妻の父の名義だった。ちょっとしたきっかけで、するりと手から滑り落ちていく運命にあったのだ。  宮下と安川教授の話はまだ終わらない。手持ち無沙汰《ぶさた》にロビーを見回すと、三つ並んだ公衆電話が目に入った。テレホンカードを出しながら近づき、念のためにもう一度、舞の電話番号をプッシュした。肩と耳で受話器を挟み、目だけを宮下のほうに向けていた。彼の姿を見失い、二次会に行きそびれたら来た意味がなくなる。場を仕切る立場の宮下のそばにいさえすれば、孤立することはない。  八回コールを鳴らしたところで、安藤は受話器を戻し、何気なく時計を見た。もうすぐ九時になろうとしている。約束の時間から三時間が経過しても、舞は部屋に戻っていないのだ。  ……どこに行ってしまったのだろう。  安藤は彼女の身を案じた。  話は終わったらしく、深々と礼をして、宮下は安川教授から離れていった。安藤は背後から近づいて、宮下と肩を並べた。 「よお、待たせてすまなかったな」  教授に対するときとは打って変わって、砕けた調子になっている。 「いいんだ」  宮下はポケットから紙切れを取り出し、安藤に渡した。 「二次会の会場だ。三丁目のこの店、知ってるだろう。おまえ、先に行っててくれないか。こっちはちょっと片付けがあって」  手を振って行きかけた宮下の肘《ひじ》に、安藤は手を伸ばした。 「ちょっと待てよ」 「なんだ」 「おれの耳に入れておきたいことって、なんだ」  安藤は、さっきからそのことが気にかかっていた。  宮下は分厚い舌を這《は》わせ、両方の唇を交互に舐《な》めている。送別会の料理で出されたローストビーフの脂を拭《ぬぐ》っているのだろう。てかてかと赤光りするその唇を動かして、彼は言った。 「発見された」 「何が?」 「ウィルスだよ」 「……ウィルス?」 「今日の午後、横浜のY大学から連絡があった。Y大学で解剖された若い男女、覚えているか」 「ああ、車の中で同時に心筋|梗塞《こうそく》を起こしたケースだ」 「そう、そのふたりの病変部から同じ型のウィルスが発見された」 「どんなやつだ」  宮下は口をへの字に曲げて、息を吐き出した。 「驚いたことに、天然痘《てんねんとう》ウィルスとそっくりときたもんだ」 「…………」  安藤はしばし言葉を失った。 「さすが、関教授の見立ては、ご立派だよ。咽頭部の潰瘍を見ただけで、天然痘の名前を出してきたんだからな」 「信じられない」  安藤はつぶやいた。 「信じられないもくそも、たぶん竜司の標本からも同じウィルスが発見されるだろうが、そうなりゃ、現物を目の当たりにして信じるほかなくなるさ」  宮下の顔はアルコールのせいで普段より紅潮していた。そのせいか、どことなく喜んでいるふうにも見える。不可解なウィルスの登場は、医学者に恐怖よりも高揚感をもたらすものなのか。  だが、安藤は違った。意識の鉾先《ほこさき》は、さっきから高野舞のほうへと向いていた。今この時間、彼女が電話に出ないという事実が、引っ掛かってしょうがないのだ。高野舞の不在と、天然痘に酷似したウィルスの発見とが、妙に結び付いてしまう。嫌な予感がした。  ……竜司の身に起こったと同じことが、高野舞の身にも起ころうとしているのではないか。いや、もう既に、起こってしまったのかもしれない。  ホテルのロビーは、酒に酔った集団の喧噪《けんそう》に埋め尽くされていた。それに混じって、幼児の笑い声が聞こえてきた。こんな時間に子供でもいるのだろうかと、安藤はソファの陰を捜したが、小さな子供はどこにも見当たらなかった。 2  十一月十四日水曜日。  安藤は大学本部の文学部哲学科の研究室を訪れ、ゼミの担当教授や専任講師に、高野舞の最近の出席状況を尋ねた。ところが、どの教官も口を揃えて、ここ一週間ばかり舞を見かけてないという。女子学生の少ない哲学科にあって、舞は花のような存在なのか、欠席すれば彼女の「不在」はかなり目立つらしい。  先週の金曜日以来、安藤は、毎日二回から三回、舞の部屋に電話を入れていたが、受話器を取る人間はだれもいないままだった。ボーイフレンドの部屋に入りびたっているとは到底思えず、哲学科に問い合わせた結果、安藤の心配はますます募るばかりだ。  ひょっとして実家に戻っているかもしれないと、次に安藤は学生課を訪ねた。  学生課の主任に事情を話して学生名簿を見せてもらったところ、舞の本籍地は静岡県|磐田《いわた》郡|豊田町《とよだちよう》であることがわかった。新幹線を使えば、東京から二、三時間の距離だ。安藤は電話番号と、念のために住所をメモした。  仕事を終え、部屋に戻るとすぐ、安藤はメモした番号をプッシュした。電話に出たのは、舞の母だった。安藤が身分を名乗ると、受話器の向こうで、舞の母は一瞬声を詰まらせた。相手が、娘が通う大学の、しかも医学部講師と聞いて、混乱をきたしたらしい。文学部の講師ならともかく、医学部となると、なにか悪い病気の知らせではないかと身を硬くしたのだろう。同じ大学の学生はみな無料で医学部付属病院の診察を受けられるシステムになっていたので、親に知らせず娘が診察を受けた可能性を思い浮かべたのだ。  舞の母は最初のうち、安藤が電話をかけてきた理由がうまく理解できなかった。少なくとも月に二、三回は、母と娘は連絡を取り合っていた。たまたま先週電話しても娘は部屋におらず、ここ三週間ばかり、娘の声を聞いてないのは確かだ。だが、ほんの一週間かそこら姿を見ないという理由だけで、娘の通う大学の講師が実家にまで電話をかけてくるのは、どうしたものだろう……。そういった疑問が、探るような気配となって声に含まれているのを、安藤は察知した。 「そうですか、先週お電話したとき、娘さんは部屋にいらっしゃらなかったんですね」  母の説明を聞いて、安藤は眉根《まゆね》を寄せた。案外舞は実家に身を寄せていたりして、拍子抜けがするのではないか、そんな楽天的な空想がもろくも崩れた。先週、電話したときも舞は部屋にいなかったのだ。 「はあ。でも、半年ばかり前には、お互いの行き違いで、二ケ月近くも、声をきかなかったことがありますから」  安藤は事情を説明したくてもできず、もどかしい思いを味わっていた。昨日、竜司の組織標本から、横浜の大学で発見されたと同じウィルスが見つかったばかりだった。どんな経路をたどって、ウィルスが感染するかなど、詳しい分析はまだこれからだが、場合によってはマスコミに公表できないこともある。ここでありのままを喋ってしまうわけにはいかなかった。 「失礼ですが、娘さん、よく外泊されたりするんですか」 「いえ、そのようなことはないと思います」  確信を持って、母は答えている。 「先週、電話されたとおっしゃいましたが、正確な日はわかりますか」  少し間を置いて、母は答えた。 「火曜日です」 「……火曜日」  火曜日に電話したとき、既に舞は電話に出なかった。今日は水曜日だから、まる一週間以上になる。 「一人で、旅行に出た可能性は考えられますか?」 「いえ、ありえません」  断定的な口調に、安藤は思わず理由を聞きたくなる。 「なぜですか」 「あの子は、親に負担をかけまいとして、家庭教師のアルバイトをして生活費を稼いでいるんです。一週間以上もの旅行に出るお金なんて、あるとは思えませんわ」  突如、安藤は確信した。舞は今、ぬきさしならない状況に陥っている。先週の金曜日、安藤になんの連絡もなく、デートをすっぽかしたのだ。連絡をつけられない場所などはない。デートが無理になったのなら、前日にでも電話を入れて断ればいいのだ。彼女はそれをしなかった。ここまでくれば、理由は明白だ。連絡をできるような状況になかったからだ。竜司が絶命したときのポラロイド写真が目に浮かんだ。振り払っても振り払っても、大の字に伸びた竜司の四肢が、脳裏にこびりつき、離れない。 「もしよかったら、明日にでも上京してもらえませんか」  安藤は受話器を持ったまま、頭を下げていた。 「急にそんなこと言われても……、困ったわね」  溜《た》め息混じりに呟《つぶや》いたまま、母は黙り込んでしまった。事情がわからず、危機感を抱くまでには至らないのか。それにしても、安藤には、母親の反応がずいぶん呑気《のんき》に思えてならない。安藤は教えてあげたかった。愛する存在が失われるときの、そのあまりのあっけなさ。声がして、振り向いたときには、もう姿は消えている。 「あの、上京したとして、私にどうしろとおっしゃるんですの。警察に捜索願いでも出せと……」  気まずい沈黙を破って、母が尋ねた。 「とにかくまず、舞さんの部屋を見てもらいたいのです。わたしも同行しますから。捜索願いを出すのはそれからでしょう」  言ったものの、安藤は、捜索願いを出すことにはなるまいと踏んでいた。ケースが違うのだ。 「困ったわね……、明日というのはちょっと」  母はどうにも決心がつきかねている。娘の変死体が発見されるかもしれないってときに、なにか重要な用事でもあるのだろうか。安藤はこれ以上、かかずらってはいられなかった。 「わかりました。わたしひとりで、明日、舞さんの部屋を訪ねようと思います。小さなワンルームのマンションとうかがっていますが、管理人さんはいらっしゃるんでしょうか」 「ええ、おります。引っ越しのとき、挨拶しておきましたから」 「お手数ですが、管理人のところに電話して、明日の午後二時から三時の間に、わたくし安藤満男が行く旨、お母様のほうから一言ことわっておいてもらえませんか。管理人立ち会いのもとで、舞さんの部屋を調べさせてもらいます」 「はあ……」  あやふやな返事だった。 「お願いします。わたしのような者が、のこのこ出かけていっても、管理人はたぶん合鍵《あいかぎ》を渡さないでしょうから……」 「わかりました。電話して話を通しておきます」 「頼みますよ。またなにかありましたら連絡します」  安藤は電話を切ろうとした。 「あ、あの」 「…………」 「娘に会いましたら、よろしくお伝えください」  ……ああ、なにもわかってないのだ。  安藤は複雑な気持ちで受話器を置いた。 3  大学から舞のマンションまでは私鉄で一本だった。駅の改札を出ると、安藤は手帳にメモした住所と見比べながら、地図を片手に目的のマンションを捜した。  途中、オレンジ色の着物を着た女の子が両親と連れだって歩道を歩いているのを見かけ、追い抜きざまに女の子の顔をちらっとのぞきこんだ。七歳にしては身体が大きく、整った顔立ちをしている。午後の日差しの中、七五三の晴れ着が鮮やかだ。母親の手をしっかりと握りしめ、履き馴《な》れぬ草履《ぞうり》をピョコピョコ跳ね上げて歩く姿が、たまらなくかわいらしい。安藤は追い抜いてから何度も振り返って七五三の親子を見続けた。あと十五年もすれば、高野舞に似た美人に成長するだろうと想像しながら……。  商店街に面して建つ七階建てのマンションの番地と、手帳にメモされた番地が一致していた。小奇麗《こぎれい》な作りだが、外から眺めただけで、部屋の狭さが想像できた。家賃を低く押さえたぶん、部屋数を多くとってテナントを詰め込んだのだ。  安藤は正面に回って管理人室のチャイムを鳴らした。初老の管理人が奥から顔を現し、カウンターの小窓を開けた。安藤は名前を名乗った。 「あ、どうも。高野さんのお母様からうかがってます」  話は通っているらしく、管理人は鍵束をジャラジャラいわせながら管理人室から出てきた。 「お手数かけます」 「いえ、先生のほうこそご苦労さまです。たいへんなんですってねえ、高野さんとこのお嬢さん」  舞の母親からどんなふうに聞かされたか知らないが、安藤は「ええ、まあ」とだけうなずき、管理人の後に従った。  エレベーターホールの手前に、壁一面に並んだ集合ポストがあった。よく見ると、その中のひとつから新聞が数部はみ出ている。たぶん舞のポストだろうと見当をつけ、安藤は近づいていった。ネームプレートには、思った通り『高野』とある。四段に並んだ集合ポストの一番上の段だった。 「ああ、高野さんのですよ。こんなことは滅多にないんですがね」  安藤は、ポストに無理やり押し込められた新聞を取り出し、一部一部日付を確認した。もっとも古いもので十一月八日木曜日の朝刊だった。その日から数えて今日は七日目にあたる。七日間、舞は新聞を取りに降りてきていなかった。舞が外泊を続けているとは到底思えない。彼女は、今部屋にいるのだ。ただし、新聞すら取りに来られない状態に陥っている……。あらゆる状況が、その可能性を示唆していた。 「さあ、よろしいですか」  管理人が促した。ともすれば尻込みしそうな安藤を見透かすような言い方だった。 「行きましょう」  自らを鼓舞し、安藤は管理人のあとからエレベーターに乗り込んだ。  三階の303号室が舞の部屋だった。管理人は鍵束の中から、一本を選び取り、鍵穴に差し込んだ。  安藤は無意識のうちに、身体をドアから離していた。  ……手術用のゴム手袋を持ってくればよかった。  後悔していた。竜司を死に至らしめたウィルスは、空気感染するものではないだろう。エイズウィルスと同様、極めて感染しにくいと想像できる。だが、正体不明なだけに、念には念を入れる必要があった。命に未練はなかったが、少なくとも今回の事件を解明するまでは死にたくはない。  カチッと錠のはずれる音が廊下に響いた。安藤は、さらに一歩下がり、しかし嗅覚《きゆうかく》だけをドアの内側に集中させた。死体の臭《にお》いは嗅《か》ぎ慣れている。十一月半ばの乾燥した季節とはいえ、死体の腐敗臭はかなり強烈なはずだ。安藤は身構えた。想像した通りの光景が目に飛び込んでも、動揺を最小限に押さえる自信はあった。  ドアが数十センチほど開くと、部屋を抜けて風が廊下へと吹き出てきた。バルコニー側の窓が開いたままになっているのだろう。安藤はその風を正面に受け、おそるおそる空気を鼻から吸い込んだ。死体特有の臭気はない。何度も吸ったり吐いたりした。やはり、腐臭はない。足元から崩れるほどの安堵《あんど》感に、廊下の壁に手をついて身体を支えた。 「さあ、どうぞ」  管理人は、ドアの内側に立って、安藤を招じ入れようとしている。玄関に立つだけで、部屋の中の一切が目に入った。改めて見回すまでもない。高野舞の身体は部屋のどこにも見当たらなかった。予想ははずれたのだ。緊張が解け、安藤はふうっと大きく息をついた。  安藤は靴を脱ぎ、管理人の前を通って部屋に上がり込んだ。 「まったく、どこに行っちまったんだか……」  背後から、老人のぼやきが聞こえた。  安藤は妙に重苦しい気持ちにさせられている。予想した光景に出合うことなく、ほっとしているはずなのに、胸は早鐘を打ち続けていた。部屋に充満する奇妙な雰囲気。だが、安藤には、その雰囲気がどこから発散しているのかわからない。  ……一週間、舞はこの部屋に帰っていないことになる。  状況からみてそう結論づける他なかった。  ……では一体、彼女は今、どこにいる?  新たな疑問。答えは部屋の中に用意されているのだろうか。  玄関を入ってすぐのところに、ユニットタイプのバスルームがあった。ドアを少し開けて、中にだれもいないのを確かめた上で、安藤は今一度部屋に視線を戻した。  狭い部屋を機能的に使おうとする工夫があちこちに見られる。布団はきれいに畳まれ、部屋の隅に積み重ねてあった。ベッドを置くスペースはなく、かといって布団を収納できるだけの押し入れもない。机の代わりに、冬はこたつに変身する座卓が置かれ、その上には原稿用紙が散らかっていた。書き損じた原稿用紙は、コーヒーカップの下敷きとなっている。カップには、四分の一ほどミルクが残っていた。壁の一面を埋める本棚……、その一部分にデッキ一体型のテレビがすっぽりと収まっていた。他の電化製品も、すべて部屋の狭さを考慮した上で購入したのだろう、あるべきところに収まるといった格好で、備え付けの家具のように見事に配置されている。  座卓の前では、ペンギン柄の座椅子が不安定に揺れていた。尻の部分には、きれいに畳まれたパジャマが乗せられ、すぐ横にブラジャーとパンティが丸められてある。  ……若い女性の部屋だからだろうか。  さっきからどうも安藤は居心地の悪い思いを味わっていた。胸は息苦しく、動悸《どうき》は激しい。その理由が、舞の下着を目にして初めて理解できた。女性の部屋を盗み見る覗《のぞ》き魔の心境なのか。 「どうですか、先生」  管理人は、靴も脱がず、部屋に上がろうとはしなかった。留守なのは見て明らかなんだからさっさと行きましょうと、催促しているのだ。  安藤は無言で、ミニキッチンの前へと歩いた。フローリングの床なのに、分厚い絨毯《じゆうたん》を踏みしめるように、一歩一歩沈み込む感触があった。キッチンの前に立って見上げると、十ワットの蛍光灯が灯《とも》ったままになっている。午後の日差しのせいで、今まで気付かなかったのだ。シンクにはグラスがふたつ転がっていた。蛇口をひねり、しばらく放っておくと、温かいお湯に変わった。蛍光灯から垂れ下がった紐《ひも》を引き、灯《あか》りを消した上で、安藤はミニキッチンから離れた。灯りが消えたとき、安藤の身体にふと鳥肌がたった。  ざっと見回しても、舞の行き先を告げるような品は、部屋から何も発見されなかった。 「行きましょうか」  管理人の顔も見ないでそう言い、靴を履きながら部屋を出た。背後で、鍵の締まる音がする。屈《かが》んでいた身体を起こし、安藤は先に立ってエレベーターホールへと歩いた。  ふたり並んでエレベーターを待つ間に、なんの脈絡もなく、今年の夏、自宅マンションで絞殺された若い女性の死体を解剖したときの光景が脳裏に閃《ひらめ》いた。死後十時間以上経過していると聞かされていたが、いざ解剖してみると、内臓器官に体温と同程度の温《ぬく》もりが残っていて、少々驚かされたことがあった。人間は死ぬと、一時間に摂氏一度の割合で体温は下降する。あくまで平均であって、気候や場所によってかなり左右されるが、それにしても十時間以上経過して体温が完全に残っているのは極めて珍しい。  エレベーターが三階で止まり、安藤の前でドアが開こうとしていた。 「ちょっと待ってください」  釈然としない気持ちを残したまま、この場を離れたくなかった。舞の部屋に入ったときの妙な圧迫感……、踏み締める床が溶けて柔らかくなるような感触をうまく形容する言葉が見つかったのだ。  ……死後十数時間を経た死体を解剖しようとして、内臓に温もりを感じたときと同じだ。  部屋に充満していた奇妙な雰囲気は、そんなふうに表現できる。  エレベーターのドアが開ききっても、安藤は乗ろうとはしなかった。立ちはだかる安藤の身体が邪魔になって、管理人は動くことができない。 「乗らないんですか」  安藤は答えず、逆に問いを返した。 「ここ一週間ばかりの間、高野さんの姿を見てないのですね」  エレベーターのドアは閉まり、一階へと降りていった。 「見てりゃ、あなた、なにも……」  少なくとも、管理人は彼女の姿を見てはいない。ほとんど欠席することなく通っていた大学に一週間以上姿を現さず、何度部屋に電話を入れてもだれも出ない。おまけにマンションのポストには、先週木曜以来の新聞紙が詰め込まれている。だれが見ても明らかだ。舞は先週の木曜日以来部屋を留守にしている。にもかかわらず、あの雰囲気……。一週間主を失っていた部屋の雰囲気ではない。温もりが残っている。部屋の室温というのではなく、ほんのちょっと前まで、部屋にだれかがいたと感じさせる気配が残っているのだ。 「もう一度、部屋に戻りたいんですが」  安藤は管理人に向き直った。管理人はちょっと驚いた表情をしたかと思うと、徐々に困惑の色を浮かべていった。そして、困惑は瞬時に怯《おび》えへと転じた。安藤はその瞬間を見逃さなかった。  ……この老人もなにかに怯えている。 「お帰りになるとき、管理人室に寄ってくだされば、それで結構ですから」  管理人は鍵の束を安藤に差し出した。もう一度ごらんになりたいのならどうぞご勝手に、わたしはごめんこうむりますから、とそう言いたいのだ。  安藤は、管理人があの部屋からどんな印象を得たのか知りたかった。だが、聞き出そうとすれば恐らく言葉に窮するだろう。簡単に表現できる類《たぐい》のものではない。あの微妙な気配を、どうやって説明しろというのだ。 「お借りします」  鍵束を受け取ると、安藤はさっと踵《きびす》を返した。ぐずぐずしていると、勇気が挫《くじ》けそうになる。一体、あの雰囲気を作り出していたのは何なのか、それを確かめたらすぐにここを出るつもりだった。  再度、部屋のドアを開けた。できればドアを開いたままにしておきたかった。しかし、手を放すとドアは自動的に閉まってしまう。閉まった瞬間、空気の流れがぴたりとやんだ。  安藤は靴を脱いで窓際に寄り、サッシ窓を閉め、レースのカーテンを最大限に開けた。午後三時を過ぎ、南向きの窓からは斜めに日が差し込んでいる。安藤は日差しを浴びながら、もう一度部屋を見回した。部屋の雰囲気としては、女性的でもなければ男性的でもない。ペンギン柄の座椅子がなければ、女性の部屋か男性の部屋かの判断はつきかねるだろう。  安藤は座椅子の横に腰をおろし、舞の下着を手に取った。鼻の先に持ってきて匂いを嗅ぎ、一旦離してからまた鼻先に持っていった。ミルクの匂いがする。息子がヨチヨチ歩きの頃、肌着を嗅ぐと、よくこんな匂いがしたものだ。まだ男を知らない身体なのだろうか、無垢《むく》な女の匂いは乳児のそれと似ている。  下着を元の場所に置き、そのまま身体を半回転するとテレビが目に入った。赤いパイロットランプが小さく点《とも》っている。ビデオの電源が入ったままになっているらしい。エジェクトボタンを押すとビデオテープが挿入口から顔を出した。白いラベルにタイトルが記入されている。 『ライザ・ミネリ、フランク・シナトラ、サミー・デイビス・Jr・1989』  女の筆跡とは思えない、太目のサインペンで書かれた雑な字だった。手に取って調べるとテープは全部巻き戻っている。そのままためつすがめつ眺めてから、挿入口に押し込んだ。今回の一連の事件とビデオテープとの関わりを、安藤は思い出していた。高野舞から聞いた浅川のエピソード、そして浅川の車が追突した際、助手席にはビデオデッキが乗せられていたこと。  安藤はプレイボタンを押した。  ほんの二、三秒、粘度の高い液体に墨を流してかき混ぜたような映像が浮かんだ。黒くうねる画面に光の点が現れ、明滅を繰り返しながら右に左に飛び回り、徐々に光は膨らんでいく。ほんの一瞬ではあっても、安藤は嫌な気分に襲われた。光の点がなんらかの形を成そうというとき、映像は、最近よく見かけるCMにとって変わった。強烈な明暗のコントラストだ。暗黒が途切れ、明るい日常が顔を出したかのようで、ほんの数秒のことであっても安藤はほっとして肩の力を抜いた。  引き続いて、次から次に連続して流れるコマーシャルフィルム。早送りにして、CMをとばしていくと、天気予報が始まった。笑顔の女性が天気図を指し示している。さらに早送りした。モーニングショウらしきセット。シーンは変わって、マイクを手にしたレポーターが背後のテレビカメラに向かって喋《しやべ》りながら遠ざかっていく。芸能人の離婚を報じているらしい。どこまで早送りしても、タイトルにあるような音楽番組の映像は出てこない。一度録画したテープの上に、重ね録《ど》りしたのだろう。  見ているうちに、安藤の身体から緊張が解けていった。フランク・シナトラやライザ・ミネリのショウではなく、なにかもっとおぞましい映像が流れるのではと危惧《きぐ》していたのだが、冒頭の一瞬以外は、予想を裏切っておよそ陳腐なテレビ番組が映し出されている。モーニングショウが終わると今度は再放送の時代劇が始まった。安藤はテープを止めて巻き戻した。最初のほうにあった天気予報をもう一度見るためだ。  天気予報の初めで、プレイボタンに戻した。女性の声……。 「それでは十一月十三日、火曜日の天気概況を見てみましょう……」  安藤はそこでポーズボタンを押し、映像を一旦停止させた。  ……十一月十三日だって?  今日は十一月十五日だから、ビデオテープはおとといの朝に録画されたことになる。一体だれが録画のボタンを押したのだ?  ……おとといの朝、舞はこの部屋に帰って来たのか。  しかし、それでは集合ポストにつっこまれた新聞の束が説明できなくなる。単なる取り忘れ?  ……それとも。  安藤はデッキ前面のふたを開け、留守録のデータが残ってないかどうか、チェックしようとした。一週間前、舞がこの部屋を出るとき、留守録のタイマーを一昨日の朝にセットした可能性もあるからだ。  そのとき、水滴のしたたる音が聞こえた。安藤は顔を上げ、その場に座り込んだまま、ミニキッチンの蛇口に目をやったが、水の滴りは見えない。デッキをそのままにして立ち上がり、玄関横のバスルームを覗《のぞ》いた。  さっき覗いたときと同様、ドアは少し開いている。バスルームの灯りをつけた上で、安藤はドアを一杯に開けようとした。だが、便器に邪魔されて、半分のところで止まってしまう。隙間《すきま》から上半身を差し入れた。膝《ひざ》を抱えてようやく入れるほどの、小さな浴槽の内側に、ナイロン製のカーテンが垂れている。カーテンを外側に引き出してから、浴槽の内側を見た。天井から滴《しずく》が垂れ、ピチャと音をたてた。浴槽の底のほうには水が溜《たま》ったままになっている。安藤は食い入るように見つめた。また滴が垂れ、浴槽の水をかすかに揺らす。底のほうに十センチ程の深さに溜った水は、一部に渦のような動きを作っている。表面に浮いた細い髪の毛が、数本絡み合うようにして、水の動きにつれて回転していた。  さらに、上半身を差し入れ、浴槽の内側に顔を近づけた。丸く黒い排水口の、栓が抜かれている。安藤は即座にその意味を解しかねた。排水管には、石鹸《せつけん》か、あるいは髪がぎっしり詰まっていて、水が抜けていく速度は恐ろしいほどゆっくりとしたものだった。しかし、じっと水の線を観察していれば、それが徐々に下降しているのがわかる。  安藤はようやく気付いた。同時に、疑問を発していた。  ……一体だれが、この栓を抜いたんだ?  管理人でないのは明らかだった。彼は、靴を脱ぐこともなく玄関に立ち、一歩も部屋には入らなかった。  ……では一体だれが。  安藤はバスルームに足を一歩入れて屈《かが》んだ。ためらいがちに手を伸ばし、水に触れてみる。かすかな温もりがあった。冷めきってはいないのだ。何本かの髪の毛が指に絡みついてきた。あのときの感覚と同じだ。死後十数時間経過した死体に手を差し入れ、体温の温もりを感じたとき……。一週間留守のはずの部屋で、一時間ばかり前にだれかが浴槽に湯をはり、十分に換気した上でついさっき栓を抜いたのだ。  安藤はあわてて手を引き抜き、ズボンの尻で濡《ぬ》れた手を拭《ぬぐ》っていた。  便器の向こう側、トイレットペーパーのちょうど下のあたりに、褐色の汚れがあるのが見えた。大便の汚れではない。胃からの吐瀉物《としやぶつ》らしく、薄い幕に被われて、未消化の食物がそのままの形で残っている。人参なのか、赤い固形物が溶けかけている。  ……舞が吐いたのだろうか。  安藤は狭いバスルームに片足だけ入れてしゃがんでいたが、胃の内容物を確認しようとさらに腰を落としたとき、バランスを崩して便座の縁に頬《ほお》を押し当ててしまった。薄いクリーム色の便座が頬にめりこみ、顔が歪《ゆが》むのが自分でもわかった。  そのとき、背後で笑い声がしたように思われた。  安藤は叫びそうになるのを堪《こら》え、無様な格好のまま身体の動きをとめていた。  空耳ではない。「うふ、んふふ」と、背後のごく低い位置から声がしたのだ。地から湧《わ》き起こる……、ちょうどそんな感じだ。地面から茎を伸ばし花を咲かせる植物のように、笑いを咲きこぼしている。安藤は身体を硬直させ、息をひそめた。  さらに、「くすっ」という笑い声。やはり幻聴ではない。濃密な気配があった。背後にだれかがいる。安藤は、振り返ることはおろか、微動だにできなかった。これからどうすべきなのか、判断が下せないのだ。なめらかな感触の便座に顔を押しつけたまま、「管理人さん、そこにいるんですか」とおよそ間の抜けた声を張り上げたが、声の震えはどうにもならない。バスルームの外に出したほうの足先に、空気の流れを感じた。何かが移動しているらしい。スラックスの裾《すそ》とたれ下がったソックスの間だけ皮膚が露出していたが、そこに何かが触れた。つるんとした感触を残して、それは斜めに移動していった。下半身は縮み上がり、安藤は思わず悲鳴を漏らしかけた。部屋に隠れていた猫がアキレス腱《けん》のあたりを舐《な》めたに過ぎない……、そう言い含めようとしてもダメだ。身体中の五感が察知している。そんなものではない、もっと得体の知れないものが背後にいるのだと。  浴槽の縁よりも顔が下になっているため、中を覗き込むことができなかったが、底に溜った水が抜け切ろうとするのがわかる。シュルルルルと渦を巻いて、髪もろとも水が排水管に飲み込まれてゆく音がする。重なるようにして、フローリングの床がきしんでいく。ゆっくりと遠ざかってゆく音だ。  堪え切れず、安藤は声を上げた。意味もなくただ呻《うめ》いて怒鳴り、膝を使ってバスルームのドアを蹴《け》り、バタバタと音をたてた。あげくの果てにはコックをひねって便器の水を流した。そうして、一人で作り上げた喧噪《けんそう》に勇気を得て、徐々に態勢を立て直していった。手で上半身を支え、腰を上げ、直立に近い姿勢で背後の気配をうかがった。振り向かずに部屋の外に出る方法はないものかと、安藤は真剣に考えていた。無数の細かな蜘蛛《くも》が背中を這《は》うように、うなじは総毛立っている。  じりじりとあとじさり、かかとが何にも触れないのを確かめてから、一気に方向転換してドアノブを回し、廊下に転がり出た。肩先を壁にぶつけ、痛みを堪えながら、反動で閉まってゆくドアを目の端でとらえている。  呼吸も荒く、安藤はエレベーターホールに向かった。ポケットの中では、鍵の束ががちゃがちゃ鳴っている。部屋に置き忘れてこなくてよかったと安堵《あんど》した。二度と戻りたくはない。あの部屋には、間違いなく何かがいる。部屋の細部にわたって、安藤は正確に思い浮かべることができた。隠れる場所などどこにもないはずだ。積み重ねられた布団。幅も狭く、奥行きもない作り付けのワードローブ。どこにも隠れる場所などなさそうだ。よほど小さな生き物でない限り……。  耳許《みみもと》に季節はずれの蚊が飛んでいた。振り払っても振り払っても、うるさくぶんぶんといい続けている。安藤は力なく咳《せき》をして、ポケットに両手をつっこんだ。急に冷えてきたようだ。エレベーターがなかなか来ない。あんまり遅いのに苛々《いらいら》して上を見ると、一階に停止したまま動いてなかった。なんのことはない。呼ぶためのボタンを押し忘れていたのだ。二度三度念を押すようにボタンを押すと、安藤はその手を再びポケットに入れた。 4 「おい、何考えてんだ」  宮下に言われて初めて、安藤は茫然《ぼうぜん》としている自分に気付いた。ほんの二時間ばかり前に味わった感覚が、津波のように全身を襲い、意識を根こそぎ持っていこうとする。必死に抗がっても皮膚は粟立つばかりで、熱心に語り続ける宮下の言葉は途切れがちにしか脳裏に届かない。 「おい、聞いてるのか、おまえ」  宮下は苛立たしげに声を荒げた。 「あ、ああ、聞いてる」  心ここにあらずといった表情の安藤は、生返事を繰り返す。 「なにか気にかかることがあるなら言ってみろよ」  宮下はテーブルの下から丸椅子《まるいす》を引き出し、よっこらしょと両足を乗せてふんぞり返った。安藤の研究室にもかかわらず、わがもの顔で振る舞っている。  法医学研究室にいるのは安藤と宮下だけだった。窓の外がすっかり暗くなったといっても、まだ時間は六時前だ。高野舞のマンションを訪れ、なんともいえず不気味な思いを味わった安藤は、大学の研究室に戻るやいなや宮下の訪問を受け、心の平静を取り戻す間もなく、さっきからずっとウィルスに関する話を聞かされていた。 「別に気にかかることなんてない」  舞の部屋での体験を宮下に語るつもりはなかった。表現しようとしても言葉が浮かばないのだ。うまい比喩《ひゆ》が思いつかない。夜中にトイレに立ったとき、背後にだれかがいるような錯覚といえばいいのか。一旦その気配を感じてしまうと、振り返って幻影を追い払うまで、空想の中の怪物は肥大し続ける。だが、安藤が感じたのは、そんな平凡な感覚ではなかった。舞の部屋のバスルームでバランスを崩し、便座に頬を押しつけたとき、間違いなく背後にはなにかがいた。空想の産物ではない。高い笑い声を発するなにかだ。そう臆病《おくびよう》でもない安藤が、振り向くことができなかったのだ。 「顔色が悪いぞ、今日はとくに」  宮下は言いながら、白衣で眼鏡のレンズを拭《ふ》いた。 「最近睡眠不足でな」  嘘《うそ》ではなかった。安藤は近頃夜中に目覚めてそのまま眠れなくなってしまうことが多い。 「ま、いいさ。とにかくよぉ、何度も同じことを聞き返さないでくれや。話の腰を折られるのは、おまえだっていやだろ」 「すまん」  安藤は素直に謝った。 「で、いいのか先に話を進めても」 「ああ、たのむ。続けてくれ」 「ところで、その横浜で解剖された二体から発見されたウィルスなんだが……」 「天然痘ウィルスにそっくりだってやつだな」  安藤は口を挟んだ。 「ああ、それだ」 「見かけが似てるのか」  宮下はテーブルの表面を手で軽く打った。幾分呆《あき》れ顔で、まじまじと安藤の目をのぞき込む。 「やっぱり聞いてないじゃねえか。さっき言っただろ。DNA自動解析装置にかけて、新しく発見されたウィルスの塩基配列を分析したんだ。そしてコンピューターにかけた。するとどうだ。ライブラリーに保存されている天然痘ウィスルのものとほぼ重なった……」 「天然痘と同じってわけではないんだな」  安藤は確認した。 「ああ、七割がた同じってところだ」 「残りの三割は?」 「びっくりするなよ。酵素をコードする遺伝子の塩基配列と一致する」 「酵素? どんな生物の?」 「人間だ」 「冗談だろ」 「信じられないのも無理はない。だが、真実だ。同種の別のウィルスは人間の蛋白《たんぱく》質の遺伝子を抱えていた。つまり、新しく発見されたウィルスは、天然痘の遺伝子と人間の遺伝子から成っているんだ」  天然痘はDNAウィルスのはずである。レトロウィルスであれば、人間の遺伝子を取り込んでいたとしても不思議はない。逆転写酵素を持っているからだ。だが、普通、逆転写酵素を持たないはずのDNAウィルスが、どうやって人間の遺伝子を自分の体内に取り入れたのか……。安藤にはそのプロセスを説明できない。しかも、あるウィルスは酵素、あるウィルスは蛋白質といった具合に、ばらばらに切り出した上で人間の遺伝子を含んでいるという。まるで、人間の身体を数十万個のパーツに分解し、その一個一個をウィルスが分担して保持するかのようだ。 「で、竜司の身体から発見されたウィルスも同じなのか」 「やっとそこまで話が進んだってわけだ。冷凍保存されていた竜司の血液からもつい先日、ほぼ同じウィルスが発見された」 「やはり天然痘ウィルスと人間の混成部隊なのか」 「ほぼな」 「ほぼ?」 「ほぼ同じではある。だが、ごく一部に、同一の塩基配列の繰り返しが見られる」 「…………」 「まるで金太郎|飴《あめ》のように、どの部分を取り出しても、四十塩基ほどの繰り返しが執拗《しつよう》に出てくるんだ」 「…………」  安藤は言葉を失ったままだ。 「いいか、横浜で解剖された二体にはそんなものはなかった」 「つまり、横浜の二体から発見されたウィルスと、竜司の血液から発見されたウィルスは微妙に違うってことなのか」 「そうだ。似てはいるが、ほんの少し異なっている。ま、他の大学からのデータが揃わなければ、まだなんともいえないが」  そのとき、三つ並んだデスクの一番端の電話が鳴った。宮下は「ちぇっ」と舌を打つ。「今度は電話かよ」 「ちょいと失敬」  安藤は腰を浮かせて受話器を取った。 「はい、もしもし」 「M新聞社の吉野という者ですが、安藤先生はいらっしゃいますでしょうか」 「わたしですが」 「法医学教室講師の安藤先生ですね」  吉野と名乗る男は念を押してきた。 「はい、そうです」 「先月二十日、東京都監察医務院で高山竜司さんの行政解剖を行ったのが先生だとうかがったんですが、間違いはありませんか」 「ええ、わたしが執刀しました」 「そうですか。実はですね、その件でちょっとお話をうかがいたいのですが、お時間作ってもらえないでしょうかねえ」 「はあ……」  なんと返事をしたものかと迷っていると、宮下が耳許で囁《ささや》いた。 「だれからだ?」  安藤は受話器の送話口を手で押さえて答える。 「M新聞の記者だ」  すぐに受話器を元に戻し、安藤は聞き返した。 「どういったご用件でしょうか」 「今回の一連の事件に関して、先生のご意見をうかがいたいと思いまして……」  安藤は、一連の事件という言い方に少なからず驚かされた。マスコミはもう嗅《か》ぎつけたのだろうか。いくらなんでも早すぎるような気がする。解剖を担当した医学部でさえ、ほんの二週間前、数人の変死事件の関連性を発見したばかりだというのに。 「一連の事件といいますと……」  安藤は鎌《かま》をかけ、相手がどれほど知っているのか探りを入れようとした。 「高山竜司さん始め、大石智子、辻遥子、岩田秀一、能美武彦、それに浅川の妻と娘などの一連の変死事件です」  一体どこから情報が漏れたのだろうかと、安藤は狐につままれたような気分で黙り込んでしまった。 「先生、いかがでしょうか。会ってもらえないでしょうかねえ」  安藤は頭を働かせた。情報は必ず多いほうから少ないほうへと流れるものだ。もし吉野という新聞記者が今回の事件に関してより多くの情報を掴《つか》んでいるとしたら、それを聞き出さない手はない。こちらの手のうちを全て見せる必要はないのだ。秘密は保持したまま、相手から必要な情報を得ればいい。 「わかりました。お会いしましょう」 「いつがよろしいですか」  安藤は手帳を広げて、スケジュールを確認した。 「早いほうがいいですか。明日でしたら、昼から二時間ばかり空いてます」  しばらく間があった。吉野もスケジュールの調整をしているらしい。 「わかりました、それでは昼ちょうどに研究室のほうにうかがわせてもらいます」  安藤と吉野はほとんど同時に受話器を置いた。 「なんだって?」  宮下が寄ってきて、安藤の袖を引いた。 「新聞記者だ」 「で、なんだっていうんだ」 「会いたいんだとよ」 「おまえにか」 「ああ、聞きたいことがあるらしい」 「ふうん」  宮下は考え込んだ。 「向こうはもうみんな知ってるようだ」 「わからんなあ。関係者のだれかが漏らしたってことなのか」 「さあね、それも明日会ったときに聞いておく」 「余計なことは喋るな」 「わかってる」 「特に、ウィルスが絡んでるってことは」 「ああ、もし相手がまだ知らなければな」  安藤はそこでふと思い出した。そういえば浅川も吉野と同じくM新聞社の記者だったことを。ふたりが知り合いで、この事件に深く関わっているとしたら、明日の昼はおもしろい情報を聞き出せるかもしれない。安藤の好奇心は次第に膨らんでいった。 5  吉野は、さっきから何度もコップの水に手を伸ばしかけていた。グラスを掴むふりをして、腕時計にばかり目を落としている。次のアポイントメントが入っているのか、時間が気になるらしい。 「すみません、ちょっと失礼」  吉野は頭を軽く下げて席を立った。カフェテラスのテーブルの間を早足でぬい、レジ横の公衆電話の前で、彼は足を止めた。手帳を開きながら慌ただしくプッシュする姿を見ているうち、安藤はほっと一息つくような格好で椅子《いす》の背に身体をあずけていった。  昼ちょうどに大学の研究室に尋ねてきた吉野を、駅前のカフェテラスに連れ出したのは一時間前のことだ。テーブルの上には、まだ彼の名刺が載っている。 『M新聞社横須賀支局 吉野賢三』  その吉野から、およそ信じられない話を聞かされ、安藤の頭は混乱をきたしていた。ほとんど一方的に喋るだけ喋り、安藤の頭に疑問だけを植えつけて吉野は席を立ち、今どこかに電話をかけている。  吉野に言わせれば、一連の事件の発端は八月二十九日の夜、伊豆半島の付け根に位置するリゾートクラブ、南箱根パシフィックランドの貸し別荘、ビラ・ログキャビンであるらしい。ビラ・ログキャビンB‐4号棟に宿泊した四人の男女は、ある女性の念力によって録画されたビデオテープを拾った? しかも、そのビデオテープを見た人間はちょうど一週間後に死ぬ運命を背負ってしまう?  何度考えても、荒唐無稽《こうとうむけい》さは拭《ぬぐ》い切れない。吉野は「おそらく念写のようなものでしょう」と事もなく言ってのけたが、ビデオテープに映像を念写するなんて不可能に決まっている。しかしどうだろう……、解剖後、竜司の腹から飛び出した新聞紙の角に並んだ数字にしろ、舞の部屋で経験した異様な気配にしろ、人に語ったとたん荒唐無稽なものになってしまうのではないか。実体験と、人からのまた聞きでは、現実感がまるで異なるのも確かだ。少なくとも、吉野は今回の事件に直接関わりを持ち、その裏づけをもとにしゃべっている。事件を直接調査した浅川和行と高山竜司の背後から、吉野はバックアップしたのだ。言葉にはそれなりの説得力がある。 「すみません、お待たせしちゃって」  吉野は、席に戻るやいなや手帳になにか書き込み、髭《ひげ》で被われた頬《ほお》をペンの先でつついた。いかにも硬そうな髭だった。薄くなり始めた頭髪をカバーするかのように、頬から顎《あご》にかけて髭を長く垂らしている。 「どこまでお話しましたっけ」  吉野はそう言って、髭面を突き出してきた。喋り方に愛嬌《あいきよう》がある。 「高山竜司が乗り出したところまでです」 「失礼ですが、高山さんと先生は……」 「同級生ですよ、学生時代の」 「ですよね、そう聞いてましたから」  調べをつけた上で連絡をとってきたのだ……、安藤はそう理解した。 「ところで、吉野さんは見たんですか、そのテープを?」  安藤はさっきから気になっていた疑問を口にした。 「まさか」  吉野は丸い目をさらに丸くした。 「もし見ていれば、今頃とっくに解剖される側に回ってますよ。見る勇気なんてとてもありません」  吉野は小さく笑った。  ビデオテープが一連の変死事件と関わっているらしいと、安藤は以前から薄々感付いていた。しかし、ちょうど一週間後に、映像を見た人間を死に至らしめるビデオの存在など、露ほども思い浮かべたことはなかった。安藤にはまだ信じられない。どうすれば信じられるのか。おそらく、じかに映像を見て、一週間後に死が訪れるその瞬間にならなければ、到底受け入れることはできそうにない。  吉野はゆっくりと時間をかけて、冷めたコーヒーを口に運んだ。時間に余裕ができたせいか、相手を急《せ》かす動作が消えている。 「じゃあ、なぜ、浅川さんは生きているんですか。浅川さんは、テープの映像を見たんでしょう」  安藤の口調には、ばかにした響きが含まれていた。昏迷《こんめい》状態に陥っているとはいえ、浅川はまだ生きている。その点が安藤には納得できない。 「そこなんですよ、ぼくが疑問なのは」  吉野はさらに身を乗り出す。 「まあ、本人に聞くのが一番だろうと、浅川が入院中の病院に行ったんですが、あの状態では埒《らち》が明かなくて」  吉野もまた品川済生病院にまで面会に行ったのだ。そして、意思の疎通の不可能な浅川を前に、なす術《すべ》はなかった。 「でも、たぶん……」  吉野は、何か思いついたらしく、相手に気を持たせるような言い方をした。 「たぶん?」 「わかると思うんだがな、あれさえ手に入れば……」 「あれ、って?」 「浅川は週刊誌の記者なんですよ」  安藤は返答に窮した。別方向に話が飛んでしまったように思えたからだ。 「ええ、知ってます」 「ぼくは、あいつから聞いているんです。今度の事件に関して、克明なレポートを製作中だってね。あいつはスクープをものにするために、事件を追い始めたんですから。浅川は竜司と組んで、ビデオテープの謎《なぞ》を解くために伊豆大島や熱海にまで飛んで調べ回った。そして、確実になにかを掴《つか》んだはずなんです。間違いなく、調査ずみの内容は、文書になってフロッピーに保存されている」  一気に語り終えると、吉野は安藤から目を逸《そ》らして横顔を向けた。 「なるほど」  吉野は視線を元に戻してさも悔しそうな表情をする。 「どこにあるんだか、部屋には見当たらなかったし……」  吉野の視線は遠くのほうをさまよっているふうだ。 「部屋って」  浅川は入院中で、妻と娘は死んでしまった。今、彼のマンションは無人のはずだ。部屋に忍び込んで、家捜ししたとでもいうのだろうか。 「まあ、あんなところの管理人なんて、うまい話をでっち上げれば、すぐ合鍵《あいかぎ》で開けてくれますからね」  つい昨日、舞の身を案ずるあまり、安藤も同じことをしたばかりだった。だから、吉野の行為を非難する気にはならない。目的が異なるとはいえ、無人の部屋を物色する行為は似たようなものだ。  吉野は悪びれた様子も見せず、悔しさが先に立つのかしきりに舌を鳴らす。 「隅々まで捜したんですがねえ、どこにも見当たらないんだな。ワープロもフロッピーも」  貧乏揺すりをしている自分に気付き、吉野はあわてて膝《ひざ》に手を載せ、わざとらしく苦笑いを浮かべた。  安藤の脳裏に、浅川が起こした事故の現場写真が次々とフラッシュバックしていった。その中の一枚、運転席側から車内前部を写した一枚には、倒れた助手席のシートに挟まれたビデオデッキのような物体が写っていた。そして、助手席の足元には、ノート型パソコンに似た物体が転がっていた。黒いボディをしたふたつの物体は、強烈なインパクトとなって、安藤の脳裏に残っている。今、そこからインスピレーションが引き出された。  安藤は、外の、JRの駅から流れ出る人の波を見る振りをして、必死に頭を働かせた。……おれは、一連の変死事件を詳細にレポートした文書のありかを知っているのかもしれない。  吉野のことだから、丹念に浅川の部屋を家捜ししたのだろうが、部屋にはワープロもフロッピーもなかった。吉野は知らないのだ。浅川が最後にいた場所……、つまり事故を起こした車の助手席にそれが置かれてあったという事実を。  フロッピーを手に入れられる可能性が強いと、安藤は徐々に確信していった。だが、吉野に打ち明けるつもりはなかった。手に入れたとしても、マスコミの人間に渡せるかどうかは、内容によりけりだ。現在判明しているだけでも、七体の変死体すべてから天然痘に酷似したウィルスが発見されているという。学会への発表どころか、S大や横浜のY大を中心に研究会発足の動きが見えてきたところだ。ここで無闇《むやみ》にマスコミに騒ぎ立てられたら、正体不明なウィルスだけにどんなパニックを引き起こさないとも限らない。慎重にことを運ばなければ、とりかえしがつかないことになる恐れがある。  その後、吉野はお決まりの質問を投げかけてきた。解剖結果はどうだったのか、死因は判明したのか、今自分が話した内容と解剖結果を比べて、なにか新しい発見はあったかどうか……、開いた手帳に顔を近づけ、吉野は次々に質問を投げかけてくる。  安藤はどの質問にも、できる限り丁寧に、しかし差し障りがないよう答えた。だが、彼の意識はつい他の方面へと飛びがちだった。今この瞬間、むしょうにフロッピーを手に入れたくてならない。入手するためには、まずどうするのが一番だろうかと、そんなことばかり考えていたのだ。 6  翌土曜日、監察医務院にて二体の行政解剖を終えた後、安藤はその場に居合わせた若い警察官をつかまえ、事故車両の処理のしかたについて尋ねた。仮に、首都高速湾岸線の大井ランプ出口付近で事故にあった場合、大破した車両はどう扱われるのかと。 「そうですね、まず検分します」  眼鏡をかけた実直そうな若者はそう答えた。何度か見た顔ではあったが、口をきくのは初めてだった。 「それから?」 「車を持ち主に返します」 「レンタカーの場合は?」 「それはもちろん、レンタカー会社に戻すでしょうね」 「いいですか、乗っていたのが若い夫婦と娘の三人で、あ、この一家は品川区の分譲マンションに三人だけで暮らしています。妻と娘が事故で亡くなり、夫は重傷を負って病院に運ばれた。とすると、車の中に残された荷物は、どうなるのですか?」 「管轄署の交通課が一時的に保管することになります」 「首都高速大井ランプ出口で事故を起こしたとすると、管轄はどこ?」 「出口ですか?」 「うん、そう。出口付近」 「あ、いえ、つまり首都高速の内か外かで管轄が違ってくるものですから」  安藤は事故現場の状況写真を思い浮かべた。間違いなく、事故を起こしたのは首都高速道路上だった。東京湾海底トンネルの入口……、なにかのファイルでそんな記述を見た覚えもある。 「首都高速道路上だな」 「だったら、首都高速道路交通警察隊ですね」  安藤には初めて聞く名称だった。 「どこにあるの?」 「新富町《しんとみちよう》です」 「わかりました。で、荷物は一旦そこに保管される、で、それからどうなります?」 「家族の方に連絡を取って、取りに来てもらいます」 「ですから、家族が皆死んじゃったとしたら……」 「入院した夫の親兄弟もですか」  浅川の両親や兄弟構成に関して、安藤はなんの知識も持っていなかった。年齢的に考えて、浅川の両親が健在する確率は高い。とすると、車に残された荷物は、浅川の両親のもとに引き取られた可能性が強くなる。浅川と竜司は高校の同級生だった。竜司の実家は相模大野のあたりだから、浅川の実家もたぶんその近くに違いない。とにかく、まず、浅川の実家を調べ、連絡をとるのが先決だろうと思われた。 「わかりました、どうもありがとう」  安藤は若い警官を解放し、即座に浅川の実家の連絡先を調べる作業に取りかかった。  浅川の両親は共に健在で、住所は座間《ざま》市栗原であることが判明した。電話を入れ、浅川の車に残された荷物の行方に関して尋ねると、父親はしわがれ声で、神田《かんだ》のマンションに住む長男の名を上げた。浅川は三人兄弟の末っ子で、上には、総合出版社S書房の文芸書籍部に勤める長男と中学校の国語教師である次男がいた。父親は、確かに警察から連絡を受け、保管している荷物を取りに来てほしいと頼まれたという。だが、彼は自分で取りに行こうとせず、神田に住む長男の名を告げた。首都高速道路交通警察隊のある新富町と神田が近いせいもあったが、七十歳を越えた老齢でデッキやらワープロを運ぶ気には到底ならなかったようだ。だから、長男に荷物を受け取ってもらうよう手筈《てはず》を整え、父親は警察からの電話を切った。  次に安藤が連絡を取ったのは、もちろん浅川の兄、神田のマンションで妻と暮らす浅川順一郎だった。夜になってようやく電話が通じると、安藤は単刀直入に事実を打ち明けた。下手に隠し立てしたり、嘘の話をでっちあげたりして、順一郎の気分を害し、フロッピーを手に入れそびれたらまずい。といっても、吉野から聞かされた話をそのまま伝えるわけにもいかなかった。安藤自身ほとんど信じかねる内容は、そのまま喋《しやべ》れば正気を疑われかねないだろう。そのへんのところは適当にはしょり、浅川が事件解明のヒントになるかもしれない貴重な文書を残した可能性があることだけを強調した。そして、監察医務院としてはどうしてもその文書を手に入れたく、コピーさせてもらえないかと、丁寧に申し出たのだ。 「でも、預かった物の中に本当にそんなものがあるのかどうか」  順一郎は信じられないといったふうに、つぶやいた。口振りから、預かった荷物の確認はまだなにもしていないようだ。 「ワープロは、ありましたか?」  安藤は尋ねた。 「あります。でも、たぶん壊れてますよ」 「その中に、フロッピーは挿入されたままになっていましたか?」 「いえ、そこまでは、まだ調べてありません。実は、段ボール箱に入れて持ち帰ったまま、中身もろくに見てないのです」 「あの、それと、ビデオデッキも一緒になかったですか?」 「ありましたよ、でも捨てましたが……、まずかったですか」 「捨てた?」  安藤は息を止めた。 「仕事柄、ワープロを持ち歩くのはわかるんですが、どうして車にデッキなんか乗せていたのか……」 「捨てた、とおっしゃいました?」 「ええ、完全に壊れてましたから。つい先日、テレビを粗大ゴミで出すとき、ついでに持っていってもらいました。あれじゃしょうがない、修理がきくってレベルじゃなかったから。ま、和行も文句は言わないでしょう」  本当は二匹の獲物がかかりそうになっていたのだ。しかし、そのうちの一匹には逃げられた。変死事件のカギを握るビデオテープもまた、デッキに挿入されたままであって、うまくすれば、ビデオテープとフロッピーと両方同時に手に入ったかもしれないのだ。もっと早く連絡を取っていればと、安藤は悔やまれてならない。 「デッキとは別に、ビデオテープはありませんでしたか?」  安藤は祈るような気分で聞いた。 「わかりませんねえ。ワープロと、デッキと、あとは黒いボストンバッグがふたつ。たぶん静さんと姪《めい》っこのものだろうと、こっちのほうは中を開けたこともありません」  とにかく一刻も早く見てみたかった。安藤は急《せ》き込むように言った。 「おじゃまさせてもらえないでしょうか」 「いいですよ」  意外とあっさりと順一郎は答える。 「明日はいかがでしょう」  日曜日だった。 「担当の作家とゴルフなんで……、そうですね、でも七時には戻っているかな」 「わかりました。それでは七時にうかがわせてもらいます」  安藤はメモ用紙に七時と書き込み、その下に何度もボールペンで線を入れていた。  日曜日の午後七時過ぎ、安藤は神田|猿楽町《さるがくちよう》にある、順一郎のマンションを訪れた。オフィスビルに挟まれる格好で建つマンションには、あまり生活の匂《にお》いが感じられない。事務所として使用される率が高いのか、日曜の夜ともなると閑散とし過ぎて、不気味なくらいだ。  チャイムを鳴らすと、ドアの内側から男の声が響いた。 「どちら様ですか」 「昨日お電話した安藤です」  名乗るやいなやドアは開けられ、「どうもご苦労様です」と、安藤は部屋に招じ入れられた。ゴルフから帰り、シャワーを浴び終わったところらしく、順一郎はジャージの上下を着て寛《くつろ》いでいるふうだった。電話の声から、ヒョロリとした神経質そうな人間を想像していたのだが、実際の彼は小肥りで愛嬌のある顔をしている。長男が総合出版社の編集者で、次男が中学の国語教師、そして末っ子が大手新聞社の記者。三人の兄弟が選んだ職業には「文字を扱う」という点で類似が見られる。たぶん、長男が影響を与えたのだろう。安藤は「さあ、どうぞ」と奥へ導く順一郎の背中を見ながら、そんなことを思っていた。安藤自身、高校の生物教師である兄の影響を強く受け、医師の道を選んだからだ。  廊下に面した納戸から、順一郎は段ボール箱を出してきた。ボストンバッグやワープロが詰め込まれている。 「ごらんになりますか」  床にあぐらをかいて座り、順一郎は安藤の前に段ボール箱を押す。 「失礼します」  安藤はまずワープロを手に取り、メーカーの名前と機種名をメモした。ワープロ本体は追突のショックで壊れたらしく、ふたを開けようとしても開かず、電源も入らなかった。膝の上で縦に抱くと、横腹からエジェクトボタンが突き出ているのが見えた。さらに覗《のぞ》き込むとフロッピー・ディスク取出口の奥に、ブルーのフロッピーが収まっているのがわかる。思わず胸に快哉《かいさい》を叫び、安藤はエジェクトボタンを押した。そのときに機械がたてた「カシャリ」という音は、安藤には「当たり」と聞こえた。引き出して、手の平に乗せ、裏表を確かめた。ラベルは貼《は》られてなく、したがってタイトルの類は書き込まれてはいない。それでも、こいつが捜していたものであると、安藤にはピンときた。飛び出す時の、音の響きがよかったからだ。  安藤はすぐにでもフロッピーの中身を確認したかった。 「中身を確認したいんですが」  安藤は順一郎に向き直った。 「生憎《あいにく》と、わたしが使用しているワープロとは互換性がないんですよ」  機種同士の互換性がなければ、文書を画面に呼び出すことはできない。 「では、このフロッピー、二、三日お借りしてもよろしいでしょうか」 「ええ、構いませんが……」 「用がすみ次第、至急返送します」 「何が書き込まれてるんですか、この中に」  安藤の興奮が伝わったのだろう、順一郎の好奇心は急速に頭をもたげていった。 「さあ、わかりません」  安藤は首を横に振る。 「なるべく早く返してください」  書籍編集者としての血が騒ぐのか、順一郎もまた一刻も早く文書を読みたくなったらしい。  ジャケットのポケットにフロッピーを落とし、ほっとすると同時に、安藤にはさらなる欲が出てきた。黒いボストンバッグ……。無駄とはわかっていたが、万が一テープが入ってないとも限らない。 「この中身、拝見させてもらって、よろしいでしょうか」  慎重な口のきき方だった。女物のボストンバッグの中身を探るのは、やはり気が引ける。 「たぶん何もないと思いますよ」  順一郎は笑いながらそう言い、「どうぞ」と差し出してくる。バッグの中にビデオテープが入っているかもしれないと淡い期待を抱いたのだが、衣類と紙オムツが主な中身で、目当ての品はやはりなかった。予期した通り、テープはデッキの内部に挿入されたまま、一緒に捨てられてしまったのだ。  しかし、フロッピーを手に入れただけでも上首尾とすべきだろう。順一郎宅を辞去するとき、安藤は逸《はや》る気持ちを押さえることができなかった。明日、大学に行ったら、さっそく同僚たちに当たって互換性のあるワープロを捜し出し、文書を呼び出そう。安藤は今から読むのが楽しみでならなかった。 7  安藤は、病理学教室に顔を出し、宮下の姿を目にとめて声をかけようとするや、逆に宮下のほうから声をかけられた。 「お、ちょうどいいところに来た。おまえこれをどう思う?」  見ると、プリントアウトされたハードコピーを片手に握り、宮下が手招きしている。その傍らには、生化学研究室の助手、根本がつっ立っていた。根本と宮下は体型がそっくりで、二人が並んで立っていたりすると、見るほうは思わず笑ってしまう。百六十センチそこそこの身長に八十キロは優に越えると思われる体重、足の長さ、胴回り、顔、服のセンス、声の高さ、なにをとっても瓜《うり》二つだ。 「やあ、兄弟、お揃いで」  安藤は、いつもの冗談を口にしながら、ふたりに近づいていった。 「やだな、安藤さん、一緒にしないでくださいよ」  根本はわざと顔をしかめてみせる。だが内心では、二年先輩の宮下に似ているとからかわれてまんざらでもないのだ。なにしろ宮下は、人柄のよさと学問の能力を買われ、将来の教授候補と属目《しよくもく》される存在だった。 「どいつもこいつも似てる似てるって、こっちはえらい迷惑だ。おまえ少しダイエットして痩せたらどうだ」  そう言って、宮下は根本のだぶついた腹をつつく。 「僕がダイエットしたら、宮下さんも付き合って痩せてくださいよ」 「ばか、ふたり揃って痩せたら元の木阿弥《もくあみ》、なんの意味もねえ」  宮下は、手に握ったコピー用紙を安藤のほうに差し出し、マンネリ気味の冗談に終止符を打った。  安藤は手渡されたコピー用紙を広げた。一目で、印刷されている内容が理解できた。ほんの一部分のDNAを、塩基自動解析装置にかけて読み取った結果である。  ウィルスを含む地球上の全ての生命は、DNA(一部RNA)を含む細胞の集合体(あるいは単体)である。細胞の中心部の核の中には、核酸と呼ばれる分子化合物が組み込まれている。核酸には、DNA(デオキシリボ核酸)とRNA(リボ核酸)の二種類があって、それぞれの役割は異なる。遺伝子の本体で、遺伝情報が書き込まれているDNAは、よじれ合った二本の糸状をした長い長い分子化合物であり、この構造は一般的に二重|螺旋《らせん》と呼ばれる。そして、この二重構造の中に、生命の持つ全ての遺伝情報が書き込まれているのだ。遺伝情報とはある特定の蛋白《たんぱく》質の製造方法の設計図であり、遺伝子とはその一枚の設計図のことである。つまり、遺伝子はDNAそのものではなく、情報のひとつの単位ということになる。  では一体、設計図にはどんな言葉が書き込まれているのか。ここで文字の役割を負うのは塩基と呼ばれる四つの化合物である。アデニン(A)、グアニン(G)、シトシン(C)、チミン(T)、RNAの場合はウラシル(U)の四つの塩基のうち、三個一組のトリプレット(コドン)が、ある法則に従ってアミノ酸に翻訳される。たとえば、AACというコドンはアスパラギンに、GCAというコドンはアラニンといった具合である。  蛋白質は二十種類のアミノ酸が数百個結合してできているので、ひとつの蛋白質の設計図だけで数百×三個分の塩基の列が必要になってくる。  TCTCTATACCAGTTGGAAAATTAT……、といった具合に、一枚の遺伝子の設計図には、アルファベットがずらっと並んでいると考えればいい。この場合、翻訳すれば、TCT=セリン(Ser)、CTA=ロイシン(Leu)、TAC=チロシン(Tyr)、CAG=グルタミン(Gln)、TTG=ロイシン(Leu)、GAA=グルタミン酸(Glu)、AAT=アスパラギン(Asn)、TAT=チロシン(Tyr)……、といったアミノ酸の列になる。  安藤はプリント一枚にわたって印刷された塩基番号と、アトランダムに並んだATGC四つのアルファベットの列をもう一度ざっと眺めた。三つの列にラインマーカーが引かれ他と区別されている。安藤はその意味をおもむろに尋ねた。 「なんだ、これは?」  宮下は根本に向かって目配せした。説明してやれという意味らしい。 「高山竜司の血液から発見されたウィルスのDNAの一部を解析したものです」 「竜司の……、で、これがなにか?」 「高山竜司の体内から発見されたウィルスにだけ、なんだか奇妙な塩基配列が混じってるんですよ」 「それがラインマーカーで記された部分?」 「ええ、そうです」  安藤は、ラインマーカーの引かれたアルファベットの羅列にさらに目を近づけた。 ATGGAAGAAGAATATCGTTATATTCCTCCTCCTCAACAACAA  さらにもう一ケ所ラインマーカーの記された場所に目を移し、比べてみた。まったく同じ配列であることがわかる。千に満たない塩基の中に、まったく同じ配列が二ケ所も出てくるのだ。  安藤はプリントから目を離し、根本の顔をのぞき込んだ。 「まるで金太郎飴のように、どの断片を調べても、これと同じ配列が組み込まれているんですよ」 「これ、いくつあるの?」 「塩基の数ですか」 「うん」 「四十二です」 「四十二……、つまり十四コドン。少ないな」 「意味があるようには思えんのですよ」  根本はそう言って首をかしげる。 「奇妙なのはな、安藤……」  宮下が横から口を出した。 「この無意味な繰り返しが、高山竜司の血液から採取されたウィルスにだけ見られ、他の二体のウィルスには見られないってことなんだ」  お手あげだろといったふうに、宮下は両手を上げてみせる。  つまりどういったらいいのだろう、安藤はうまい喩《たと》えはないかと思い巡らせる。たとえば、シェークスピアの戯曲『リア王』を持った三人の人間(ひとりは竜司)がいるとする。ところが、竜司の持っている『リア王』にだけ、文と文の合間に無意味なアルファベットの列が挟まっている。塩基数にして四十二、三つ一組でひとつのアミノ酸に相当するから、文字になおせば十四個のアルファベットに過ぎない。たった十四文字の繰り返しが、どのページにもまるでアトランダムに挿入されているという。あらかじめ戯曲が『リア王』であると分かってさえいれば、後から挿入された意味不明な部分などすぐに捜し出し、ラインマーカーで印をつけるのも可能だ。 「どう思う?」  宮下はさもおもしろそうに、安藤の反応をうかがっている。真の科学者は、解釈不可能な事実に突き当たると、逆にわくわくするものだ。 「どう思うと言われても、これだけじゃ、なんとも」  三人はしばらく黙り込んで、互いの顔を見合った。安藤は中途半端に、プリントを持ち続けている。  妙に引っかかるものがあった。何がそうさせているのか、安藤はもっと時間をかけてじっくりと塩基の無意味な配列を眺めたかった。この中にはきっとなにかがある。そんな予感がするのだ。問題はどこにあるのだろう。無意味な塩基配列が組み込まれたとしたら、それはいつかということ。竜司の身体に侵入したウィルスだけが、たまたま特異だったのか。それとも、竜司の身体の中で、ウィルスは変異をとげ、十四コドンの塩基配列が随所に挿入される結果となったのか。実際そんなことが可能なのだろうか。しかし、もしそうだとしたら、その意味するところは?  三人の間に重苦しい沈黙が流れた。ここでいくら考えても、解釈など成り立つわけがない。沈黙を破ったのは宮下だった。 「ところで、おまえ、なんか用があってここに来たんじゃないのか」  竜司の血液から発見されたウィルスに奇妙な塩基配列が見られると知らされ、興味をかきたてられるあまり、安藤は本来の用件を忘れかけていた。 「おっと、忘れるところだった」  安藤はブリーフケースを開き、中から手帳を取り出すと、メモ用紙を宮下と根本に見せた。 「だれかこれと同じ型のワープロ持ってないかなと思って」  宮下と根本はそろって、メモ用紙に書かれた機種の名前を読んだ。かなり普及率の高い製品だった。 「これと全く同じ型じゃなければいけないのか?」 「メーカーが同じならいいんだ。ようするにフロッピーの互換性があれば」 「互換性?」 「ああ」  安藤はブリーフケースから一枚のフロッピーを取り出した。 「こいつに保存された文書のハードコピーとソフトコピーが欲しい」 「MSドスには落としてないのか」 「たぶんね」  根本は何か思いついたように手を打った。 「あ、なんだ。うちの教室の医局員、だれだったかな、そう、植田だ、彼が確か持ってますよ、これと同じ機種」 「貸してもらえないかな」  安藤は遠慮がちに言う。植田という医局員とは直接の知り合いではなかった。 「だいじょうぶだと思いますよ。学部を出たばかりの院生ですから」  まだ新米の医局員だから、先輩である根本の頼みならなんでもきく、とそう言いたいのだろう。 「すまないね」 「なんのなんの。どうです、よかったら、今からいらっしゃいませんか、うちの教室へ。彼、いると思いますよ」  一刻も早くフロッピーの文書をプリントアウトしたい安藤には、願ったりかなったりだった。 「じゃ、ちょっとお邪魔させてもらうか」  安藤は手に持っていたフロッピーを、ジャケットのポケットに放り込んだ。そうして、宮下に軽く手をあげてから、根本の後に従って病理学教室を出た。 8  医学部の薄暗い廊下を、安藤と根本は並んで歩いた。安藤は、羽織っただけの白衣の裾《すそ》を背中に流し、両手をジャケットのポケットにつっこみ、中でフロッピーを握っていた。宮下も根本もこのフロッピーに関して、何も聞こうとはしなかった。別に隠すつもりはない。聞かれたら、安藤は正直に答えるつもりだった。一連の変死事件の謎《なぞ》を解く文書が保存されているフロッピーと知れば、宮下も根本ももっと興味津々で安藤のあとにくっついてきたに違いない。  中身はまだ見てなかったから、別の文書が保存されている可能性もなくはない。モニター画面に呼び出すまでは、実のところなんとも言えなかった。にもかかわらず、安藤には手応えが感じられる。ポケットの中で暖められ、フロッピーは体温に近い熱を帯びていた。生きた言葉が、この中にしまわれているという確かな手応えがある。  根本が生化学研究室のドアを開けて中に入ると、安藤はポケットからフロッピーを出して左手に持ちかえ、右手でドアを支えた。 「植田君、ちょっと」  根本は部屋の隅に座る痩せた青年を手招きした。 「なんですか」  植田は、回転椅子を横に向け、根本のほうに正面を向けたが、立とうとはしない。根本はにこやかな表情で近づいていった。 「君、今、ワープロ使ってる?」  根本は植田の肩に手を回した。 「いえ、べつに」 「よかった。ちょっとあちらの安藤さんに貸してあげてくれないかな」  植田は、安藤の顔を見上げ、「あ、どうも」と頭を下げる。 「すまんねえ、ちょっと呼び出したいフロッピーがあるんだけど、ぼくの機種とは互換性がなくて」  安藤はフロッピーを振って見せながら、根本の横に移動した。 「いいですよ」  植田は、足元にたてかけてあったワープロを持ち上げ、机の上に置いた。 「ちょっとこの場で確認していいですか」 「どうぞどうぞ」  ワープロのふたを開けて電源を入れると、モニター画面に初期メニューが表示された。安藤はその中から、文書作成の項目を選び、手に持っていたフロッピーを差し込んだ。次の画面には、『新規作成』と『文書ファイルからの呼び出し』と、二つの項目が並んだ。安藤は、『文書ファイルからの呼び出し』にカーソルを合わせ、実行を押した。ジッと音をたてて、本体はフロッピーの文書を読み取っている。やがて、フロッピーに保存された文書名が画面に表示されていった。  文 リング9  199X・10・21  文 リング8  199X・10・20  文 リング7  199X・10・19  文 リング6  199X・10・17  文 リング5  199X・10・15  文 リング4  199X・10・12  文 リング3  199X・10・7  文 リング2  199X・10・4  文 リング1  199X・10・2 「リング、リング、リング、リング……」  安藤は、縦に九つ並んだ文書名につられて、うわごとのように読み上げた。  ……RING!  なんてこった。竜司の腹から飛び出した数字の暗号じゃないか。 「どうかしたんですか」  茫然《ぼうぜん》自失の安藤の顔をのぞき込み、根本が心配そうに囁《ささや》いた。安藤は首を横に振るのがやっとだった。  もはや、これは偶然ではありえない。浅川は、一連の変死事件を詳細に追ったレポートを作成し、それに「リング」というタイトルをつけ、九つの文書にわけて保存していたのだ。そして、竜司はそのタイトルを腹から飛び出させた。  ……どうやって説明すればいい。こんなことは不可能に決まっている。  安藤はなおも頑《かたくな》に否定しようとしていた。……内臓をカラッポにされ、ブリキの空洞人形となってから、竜司はメッセージを腹の内からひねり出したというのか。「リング」という名の文書が存在することを知らせるために。  解剖直後の竜司の表情を、安藤は思い出していた。えらの張った四角い顔の、顎《あご》のあたりの肉をゆらゆらと揺らし、竜司は素っ裸のまま嘲笑《あざわら》うかのような笑みを浮かべていた。  安藤の胸の中で、吉野から聞かされた荒唐無稽なストーリーが、にわかに現実味を持ち始めていった。ひょっとしたら、本当なのかもしれない。見た者を一週間後に死に至らしめるビデオテープが、この世には存在するのかもしれないと……。 9  ジージーと音をたて、ワープロは絶え間ないプリントアウトを繰り返していた。印刷し上がるやいなや、安藤はプリンターから感熱用紙を抜き取り、順を追って目を通していく。  B5判の用紙には約千字の文字がつまっているが、印刷に要する時間よりも読んでしまう時間のほうがずっと早い。ハードコピーが必要になると見越して、モニター画面で読むよりも先に印刷に取りかかったのだが、一枚印刷するのに二分も三分もかかっていたのでは苛立《いらだ》ちは募るばかりだ。  結局、植田に断って彼のワープロを借り、自宅に持ち帰ることになってしまった。ざっと調べただけで百枚近くもありそうな文書を、研究室でプリントアウトするわけにはいかず、自宅アパートで徹夜覚悟でとりかかる他なかった。  大学からの帰りがけ、近所のコンビニエンスストアで買った弁当を食べながら、安藤は二十一枚目の原稿を読み終えるところだった。そこまでのところ、先週の金曜日に吉野から聞かされた話のアウトラインを忠実に辿《たど》るものだった。昼食後のカフェテラスで、テーブルを挟んで吉野からおおまかな話を聞くのとは異なり、時間や場所の記述に至るまで詳細なレポートは、読む者を信じさせるだけの力を持っている。雑誌記者らしい、よけいな修飾語を一切排した文体のせいか、作り話だろうと疑う余裕を与えない。  今年の九月五日夜、東京と神奈川で同時に心筋|梗塞《こうそく》を起こして死亡した四人の若い男女を調査するうち、浅川は変死の原因がなんらかのウィルスである可能性を思い浮かべた。科学的に考えれば、当然の結論と言えるだろう。事実、四人の死体を解剖したところ、天然痘《てんねんとう》ウィルスに酷似したウィルスが発見されたのだから、浅川の着眼点は間違っていなかったことになる。ところで、浅川は、四人が同時に死んだことから、四人は、共通の場所で同時に同一のウィルスを拾ったのではないかと推論した。どこで拾ったのか、つまり感染のルートが事件解明のカギを握ると判断したのだ。  浅川は共通の時間と場所を捜し出すことに成功した。四人が死ぬ一週間前の八月二十九日、南箱根パシフィックランドの貸別荘、ビラ・ログキャビン、B‐4号棟だ。  次のページ二十二枚目は、浅川和行本人がその場所に向かうところの描写から始まっていた。新幹線を熱海で降りてレンタカーを借り、熱函道路経由で高原のリゾート地、南箱根パシフィックランドにまで走る。夜と雨が重なって視界は悪く、しかも高原の道は悪路だった。昼間予約したビラ・ログキャビンのB‐4号棟にチェックインしたのは午後八時を過ぎていた。この部屋で四人の男女は一夜を過ごした……、そう考えると浅川はにわかに恐怖を覚える。B‐4号棟に宿泊した四人の男女が、一週間後同時に変死をとげているのだ。自分にも同じ魔の手が伸びる可能性は十分に考えられる。しかし、雑誌記者としての好奇心には勝てず、彼はB‐4号棟の室内をくまなく調べていった。  浅川は、ノートに残されたメモから、四人の男女がビデオテープを見た事実を突き止めると、管理人室に行って同じテープを捜した。すると、ラベルも貼《は》られてない剥《む》き出しのテープが一本だけ、棚の下のほうに転がっている。これが目当てのビデオテープなのだろうか。浅川は管理人に断って、そいつをB‐4号棟に持ち込み、中身を知るよしもなく、彼はリビングルームに据え付けられたテレビで一部始終を見てしまったのだ。  まず映し出されたのは暗黒の世界だ。その映像の冒頭シーンを、浅川はこんなふうに描写している。 「真っ黒な画面に、針の先程の光の点が明滅したかと思うと、それは徐々に膨らんで右に左に飛び回り、やがて左の隅に固定されていった。そして、枝分かれをし、先のほつれた光の束となり、ミミズのように這《は》い回って……」  安藤は再びプリントから顔を上げた。文章を読むことによって、ある程度忠実に映像をイメージすることはできる。冒頭部分を読み、今ふと頭の中に映像が浮かんだが、安藤はその映像を実際にどこかで見たことがあると感じたのだ。黒い画面を飛び回りながら大きくなってゆく蛍……、そうして光の点は毛筆のように枝分かれしていく。ほんの短いシーンだった。つい最近、こんな映像をどこかで見た覚えがある。  記憶につき当たるまでにさして時間はかからなかった。やはり高野舞の部屋で、彼女の痕跡《こんせき》を漁《あさ》ろうとして、デッキに挿入されたままのビデオテープを再生したことがあった。ラベルには男性の文字で、「フランク・シナトラ、ライザ・ミネリ……」の名が書かれていた。そのテープの冒頭の数秒間には、まさにこの表現とぴったり同じ映像が刻まれていたのだ。  舞の部屋にあったテープは、冒頭のこのシーンがほんの数秒続いただけで、すぐに画面は明るく切り変わった。最初にあった映像を消すために、民放番組を延々とダビングしたらしく、モーニングショウやら再放送の時代劇やらがテープの終わりまで続いていた。これが意味するところのものを、安藤はすぐに理解した。舞は、なんらかの方法で、たぶん竜司からのルートであろうが、問題のビデオテープを手に入れ、自分の部屋で見てしまった。そして、見終わるや、映像を全てきれいに消去しようとした。消さなければならない理由があったのかもしれない。しかし、冒頭部分から完全に消すのは難しく、最初の数秒間の映像は、こびりつくような格好でテープに残ることになった。だが、とすると、浅川がビラ・ログキャビンで発見したビデオテープが、巡り巡って高野舞の手に流れついたことになるのか。  安藤は頭を整理した。  ……いや、ちがう。ビラ・ログキャビンで発見したテープと舞の部屋にあったテープは明らかに別物だ。レポートによれば、ビラ・ログキャビンにあったものにはラベルが貼られてなかった。しかし、舞の部屋にあったものには、サインペンでタイトルが記入されていた。ということは……、つまり、ダビングされたことになる。  ビラ・ログキャビンで発見されたのがオリジナルのテープとすれば、舞の部屋にあったテープはそのコピーに違いない。ダビングされたり消去されたりと、目まぐるしい変貌《へんぼう》をとげながら、テープはあちこちに移動していくようだ。ウィルスに似ている。安藤は、ビデオテープの性質が、生命と非生命の中間に位置するウィルスとよく似ていることに気付いた。  果たして、舞の失踪はビデオテープを見てしまった結果なのだろうか。安藤は気にかかってならない。舞はあれ以来ずっと部屋を空けたままだ。もちろん大学にも来ていないし、実家にも連絡はない。かといって、若い女性の変死体が見つかったというニュースも聞かない。  舞の身に起こりそうなことをあれこれ想像しながら、安藤はしばらくぼんやりとしていた。人知れず、どこかで変死をとげたのだろうか。二十二歳という若さを思うと、胸が締めつけられる。恋の予感めいたものがあっただけになおさら痛ましい。  プリンターはさらに一枚の印刷を終え、その音で安藤は我に返った。とにかく、あれこれ思い悩むよりも、ビデオテープの中身を知るのが先決だった。 10  次のページから数枚にわたって、ビデオの描写が克明になされている。安藤は、読みながらテレビ画面を頭に思い浮かべ、映像を映し出していった。  画面にはドロドロとした真っ赤な迸《ほとばし》りが走り、一見して活火山とわかる山の風景が流れる。火口から流れ出す溶岩と地響き。夜空を焦がして激しく噴火をしている。突如映像が途切れたかと思うと白地に黒く「山」という漢字が浮かんで消え、二個のサイコロがボールの底を転がった。  次の場面でようやく人間が登場した。顔中|皺《しわ》だらけの老婆が畳の上にちょこんと座り、正面に向かって語りかける。方言が多く、意味は不明であった。だが、ある人間の未来を予知し注意を与えている響きが感じ取れる。  生まれたばかりの赤ん坊が産声を上げていた。シーンとシーンのつながり方にはなんの脈絡もみられない。恣意《しい》的に絵札を切るような唐突な変わり方だ。  赤ん坊が消えると、「嘘《うそ》つき」「詐欺師」という集団のざわめきを背景に、画面にはめ込まれた数百個の人間の顔が細胞分裂のように増殖していった。さらに、古めかしいテレビ画面に浮かんだ「貞」という文字。  急に男の顔が現れた。男は呼吸を荒くして、顔から汗のつぶを滴らせている。背後に鬱蒼《うつそう》とした木々の茂みが見える。殺意を秘めて充血する目。よだれを垂らし、口を歪《ゆが》め、男は叫び声を上げた。その裸の肩先の肉がえぐられ、血が流れ落ちている。また、どこからともなく赤ん坊の泣き声が聞こえた。画面の中央に浮かぶ満月から拳大の石が降り、あちこちに鈍い音をたててぶつかっている。  最後に再び文字が浮かぶ。 「この映像を見た者は、一週間後のこの時間に死ぬ運命にある。死にたくなければ、今から言うことを実行せよ。すなわち……」  そこで画面はがらりと変わる。よくテレビで見かける蚊取り線香のCMが、死の運命から逃れる方法が示されるはずの場所に、挿入されているのだ。CMが終わり、画面が元に戻ると、先ほどの不気味な映像の余韻が残っていた。  意味不明なシーンの連続を見終わって、浅川がどうにか理解できたのは、たったふたつのことだった。これを見た人間はちょうど一週間後に死ぬ運命にあるということ。そして、死を避ける方法が記されている個所が、テレビ番組をダビングすることによって故意に消去されているということ。最初にビデオを見た四人の男女が、イタズラ心を起こして消してしまったのだ。浅川はビデオテープをバッグに忍ばせ、ビラ・ログキャビンのB‐4号棟から逃げ帰るのが精一杯だった。  安藤は、ふうっと息をついて原稿を一旦置いた。  ……たまんないな、これじゃ。  浅川のレポートは、約二十分にわたる不気味な映像を、微に入り細をうがって描写してあった。視覚と聴覚に直接訴えかける映像というメディアを、言語を介して読者の脳裏に再現させようという浅川の努力は、かなりの部分成功していると思われた。事実、安藤の脳裏では、自分の目と耳で受け止めたかのように、生々しい映像がいまだに渦を巻いていた。人間の顔も風景も鮮明に脳裏に浮かぶのだ。ふうっと一息つきたくなるほど、安藤は疲れを覚えた。というより、浅川の陥った恐慌が我がことのように感じられ、一旦突き放したくなったのかもしれない。  しかし、束《つか》の間の中断は、先を知りたいという好奇心をますます膨らますだけだった。安藤は片手でお茶をすすりながら、もう片方の手でレポートを取り、今まで以上の速度で先を読み進めた。  東京に戻った浅川は、すぐに高山竜司に連絡を取りことのあらましを話す。ひとりで解決するだけの勇気もなければ、時間の余裕もなかった。頼りになる相棒が欲しいと願った浅川が当然のごとく思い浮かべたのは、高校時代の同級生、高山竜司だった。吉野にも相談を持ちかけたが、彼は「勘弁してくれよ」と逃げ、ビデオの映像を見ようとはしなかった。映像の威力を信じる信じないはともかく、ほんの僅《わず》かではあっても災厄の降りかかる可能性を排除したかったのだ。  ところが、竜司は逆だった。ちょうど一週間後に、見た人間の命を奪うテープの存在を聞くや、開口一番こう言ってのける。 「まず、そのビデオを見せろや」  浅川のマンションで、竜司は興味津々でビデオを見た。そして、見終わるや、ダビングしてくれるよう浅川に頼んだのだ。  ダビングという言葉に反応して、安藤は顔を上げた。ビデオテープのその後の行方に関して、整理して考えたかったからだ。ビラ・ログキャビンから持ち帰ったオリジナルのほうのテープは、当然浅川の手元に保管されることになったはずだ。事故を起こした車に積まれたデッキの腹に残され、デッキもろとも兄の順一郎の手に渡り、粗大ゴミとして捨てられた。そして、もう一本、高野舞の部屋にも、冒頭部分にだけ痕跡を残すテープがあった。たぶん、このとき浅川が竜司のためにダビングしたものだ。背中のラベルには、男性的な太い文字でタイトルが記入されていた。浅川の筆跡に違いない。竜司からダビングしてほしいと頼まれ、浅川は新品のビデオテープを使わず、過去に録画した音楽番組のテープを再利用したのだ。それが、竜司を介して、舞の手に渡った。そう考えれば筋は通る。しかし、一体いつ竜司から舞の手に渡ったのだろう。自分の手元にテープがあると、舞から聞かされたことはなかった。竜司の死後何日かたって、舞は偶然にテープを手に入れ、危険なものと知るよしもなく彼女は見てしまった……?  とにかく、テープは浅川のマンションで二本に枝分かれしたのだ。安藤はこの事実をしっかりと頭に留めた。  さて竜司は、ダビングしてもらったテープを自宅に持ち帰り、消されたメッセージ(浅川と竜司はこの部分をオマジナイと呼ぶことにした)の解読に取りかかる。ふたりが共通して抱いた疑問は、なぜこういった不気味なテープがビラ・ログキャビンのB‐4号棟に置かれていたのかということだった。最初のうちは、ビデオカメラで撮影されたテープが運び込まれたものと考えていたが、実はそうではなかった。四人の男女が宿泊する三日前、B‐4号棟を利用した家族連れは、部屋のデッキにテープを差し込んで録画状態にし、そのまま忘れて帰ってしまったらしいのだ。つまり、他の場所で撮影されたテープが持ち込まれたのではなく、録画状態にセットされたビラ・ログキャビンB‐4号棟のデッキに勝手に電波が飛び込み、知らぬ間に録画されたことになる。次にやって来たのは例の四人の男女だった。暇を持て余し、ビデオでも見ようかとデッキを操作すると、中からビデオテープが出てくる。彼らは映像を見た。ラストにある脅し文句は、さぞ四人を面白がらせたのだろう。あることを実行しないと一週間後に死ぬだって? 四人はたちの悪いイタズラを思いついた。死から免れる方法を消した上で、次の宿泊客に見せ、もっと恐がらせてやれと。もちろん、テープに込められた呪《のろ》いなど信じてはいなかったのだ。信じていれば、イタズラなどできるわけがない。だがテープは、翌日管理人の手で管理人室の棚に移され、浅川が見るまでだれの目にも触れなかった。  では一体どうやって、録画状態のビデオデッキに映像が飛び込んできたのか。浅川はマニアの手による電波ジャックを連想し、発信場所を突き止めようとした。だが、そんなおり、浅川の留守中、浅川の妻と娘はうっかりデッキに挿入したままにされたビデオの映像を見てしまう。こうして、浅川は、自分の命だけではなく、妻と娘の命を救うべく奔走することになる。  その頃、竜司は驚くべき事実を発見しかけていた。自宅で映像を何度も繰り返し見ているうちふと閃《ひらめ》いて表を作成したところ、映像は全部で十二のシーンから成り立っていて、しかも二つのグループに大別できることに気づいたのだ。抽象的な、心象風景とでも呼べるような、頭に思い浮かんだシーンと、実際に目を通して見た現実のシーンの二つのグループ。例えば、火山の噴火や男の顔のシーンは、明らかに目を通して眺められたものであり、冒頭部分の暗黒の中に飛び回る蛍に似た光の束は、夢と同じく心に思い浮かべられたものである。そうして、竜司は、十二のシーンを「現実」と「抽象」に分けて比較した。すると現実のシーンにだけ、画面が真っ黒な幕に被われる瞬間が毎分十五回の割合で生じているのを発見した。抽象的なシーンのほうには、黒い幕はまったく見られない。これは何を意味するのか。竜司は、この黒い幕は「まばたき」ではないかと結論する。実際に目で眺めたシーンには現れ、心の目で見たほうには現れない。しかもその回数は、女性の平均まばたき数と一致している。まばたきと考えてまず間違いなさそうだ。とすると、そこから導き出される結論……。テープに録画された映像は、ビデオカメラによって撮影されたものではなく、ある人間の視覚とイメージを通して念写されたものであった。  安藤はどうしてもこの部分を信じることができなかった。テープに映像を念写できる可能性など、論じるだけで馬鹿馬鹿しくなる。フィルムへの念写程度だったら、まあそんなこともあるかもしれないと、少しぐらい認めてあげてもいい。だが、映像となると、仕組みはまるで異なる。竜司の着眼点に感心しつつ、安藤はこの点を保留にして読み進める他なかった。  ある人間の念の力によって映像が録画されたとなると、では一体だれが念を飛ばしたのかと、狙いをその一点に絞り、浅川と竜司は鎌倉の三浦哲三博士記念館へと向かった。超心理学の研究家である三浦哲三は、独自の方法で全国の超能力者を調べ上げ、その資料をファイルにして保存していた。ビデオテープに念写できるほどの能力の持ち主なら、必ず三浦博士の目にとまっているはずだと、数千冊に上るファイルを片っ端から調べさせてもらったのだ。調べること数時間、ふたりはとうとうそれらしき人物を探り当てる。  その人物の名前は、山村貞子。  出身は、伊豆大島|差木地《さしきじ》。  記述によれば、彼女は十歳のとき既に「山」「貞」という漢字をフィルムに念写し得たという。ビデオの映像にも同じ漢字が現れている。浅川と竜司は、貞子に間違いないと確信を抱き、翌日には大島に渡る船に乗った。山村貞子の生い立ちや人物を知ることによって、ビデオテープに秘められた謎も明らかになると考えたからだ。貞子は映像を見た者を死の恐怖で脅かし、なにかをさせたがっていたに違いない。テープ自体に、ある行為への願望が込められているのだ。としたら、山村貞子が実際にどんな願望を抱いていたのかが重要になる。この時竜司は、薄々気付いていた。もはや山村貞子という女性はこの世にいないのではないか。死の間際、成し遂げ得なかった望みを他人の手に託すため、強烈な念を放射し、怨念を映像に塗り込めたに違いないと。  M新聞社大島通信部員の力を借り、東京に向った吉野と電話連絡を取りながら、浅川と竜司は山村貞子の人物像を次々に明らかにしてゆく。  山村貞子は一九四七年、不世出の超能力者として一時マスコミを賑《にぎ》わせた山村志津子と、彼女を被験者にして超心理学の実験を行ったT大学精神科助教授伊熊平八郎との間に生まれた。母の志津子と平八郎のコンビは、最初のうち世間に好奇の目で迎えられ、マスコミもそこそこにもてはやしたのだが、ある権威ある学者グループが志津子の超能力をインチキと決めつけるや、大衆とマスコミは手の平を返すように攻撃の側に回った。それがもとで平八郎は大学を追われ、無理がたたって結核に罹《かか》り、志津子は神経を病んで三原山に身を投げて自殺する。  貞子は大島の親戚の元に引き取られ、高校卒業まで島で暮らすことになった。小学校四年のとき、三原山の噴火を予言して校内で一時有名になったが、それ以後母親譲りの超能力をひけらかすこともなかった。高校を卒業すると同時に貞子は上京し、劇団飛翔に入団して女優の道を志す。劇団飛翔入団後の足取りを追うのは、東京にいる吉野の役目だった。  大島にいる浅川から連絡を受けると、吉野はすぐ四ツ谷にある劇団飛翔の稽古《けいこ》場を訪れ、劇団幹部の有馬から山村貞子という女性の人となりについて聞き出す。貞子が劇団に在籍したのは二十五年ほど前のことだったが、有馬は彼女のことをよく覚えていた。どこか人間を超えた力を秘めているようで、電源の入ってないテレビ画面に映像を自由に映し出したこともあったようだ。母親をはるかに凌《しの》ぐ超能力の持ち主ということになる。吉野はその場で貞子の写真を手に入れることに成功した。入団のさいの履歴書がまだ保存されていたからだ。履歴書のモノクロ写真は二枚あった。ひとつは上半身から上のもの、もうひとつは全身を写したもの。両方とも、美しいという表現さえ拒む程の、完璧《かんぺき》に整った顔立ちの貞子が写っていた。  結局貞子のその後の消息は掴《つか》むことはできなかった。吉野は、M新聞社大島通信部に向けて、貞子の写真をはじめ、得た情報をファックスで送信する。  ファックスを受け取った浅川は、劇団を辞めた貞子のその後の消息が不明であると知り、強いショックを受けた。貞子の足取りが不明では、「オマジナイ」の謎は解けないと思い込んでいたのだ。  そこで新たなひらめきを得たのはやはり竜司だった。彼は、山村貞子の足取りを順に追う必要はないと気付いた。それよりも、なぜビラ・ログキャビンのB‐4号棟のデッキに映像が舞い込んだのか、その場所に目を向けるべきではないか。なにかしらの因果関係があるのではないかと。  考えてみれば、南箱根パシフィックランドの施設はどれも新しい。過去になんらかの施設があった可能性もなくはない。浅川は再度東京の吉野に連絡を取り、新しい調査を依頼する。南箱根パシフィックランドができる以前、その地にはなにがあったのか調べてほしいと。  翌日早々、吉野はファックスを送信してきた。南箱根パシフィックランドのある地にはかつて結核療養所があったことを突き止め、吉野はその見取り図まで送ってきたのだ。しかも、熱海市内で内科・小児科医院を開業する長尾城太郎の名前と住所、略歴を記したプリントまで付記されている。現在五十七歳の長尾は、一九六二年から六七年までの五年間、南箱根療養所の医師を勤めた経歴を持つ。かつての結核療養所に関してさらに詳しい情報を得たければ、長尾に当たるべしという配慮らしい。  浅川と竜司は、吉野からの情報だけを頼りに、高速艇で熱海へと向かった。浅川がビデオテープを見て今日がちょうど一週間目だ。今晩の十時前後までに、「オマジナイ」の謎を解かなければ、浅川は死ぬ。そして竜司のタイムリミットが翌日の十時。浅川の妻と娘は翌々日の午前十一時。  レンタカーに乗り込むと、ふたりはすぐに長尾医院へ向かった。少しでも情報が得られさえすればという期待は、いいほうに裏切られた。彼らの前に現れた長尾の顔に、浅川も竜司も見覚えがあったのだ。ビデオテープのラスト近くで上半身裸の男が登場し、息も荒く汗を滴らせ、肩口に傷を負って血を流すシーンがあった。歳をとって頭が禿《は》げ上がったとはいえ、長尾は紛う方なくその男だった。貞子の視覚はこの男の顔をすぐ間近からとらえていた。しかも、彼女の『目』はこの男を邪悪なものとして見ている。  竜司は持ち前の個性を発揮して、ねちねちと長尾を締め上げ、全てを白状させた。二十五年ほど前の、暑い夏の日の出来事……。  長尾は医師として山間部の隔離施設を訪れたさい、患者から天然痘をうつされ、そのときはちょうど天然痘の初期症状が出始める頃だった。熱と頭痛に襲われても、天然痘とは気付かず、風邪だろうぐらいに思って、いつものように結核患者の治療にあたっていた。そんな折り、長尾は、療養所の中庭で山村貞子に出合う。貞子は入院中の父を見舞うため、よく療養所に来ていた。劇団を退団した直後のこと、貞子は行くあてもなくなり、父のいる療養所に入り浸っていたのだ。  長尾は貞子のあまりの美しさに、一瞬で心を奪われた。話しかけ、語り合ううち、自分以外の何者かに導かれるように、貞子を森の奥にある廃屋に連れ出し、その古井戸の前で強姦《ごうかん》してしまう。執拗に抵抗した貞子が、長尾の肩のあたりを食いちぎったのはこのときだ。肩口から血を流し、熱に浮かされた行為の中、最初は気付かなかったが、長尾は、貞子が睾丸《こうがん》性女性化症候群という男女両方の性器を兼ね備えた非常に珍しい肉体の持ち主であることを知る。この症候群の人間は、乳房、外陰部、膣《ちつ》は持っていても、子宮や卵管のない場合が多い。外見的には完全な女性であっても、性染色体はXYで男性型、子供を生むことはできない。  長尾は、この極めて珍しい肉体的特徴を有する貞子の首を絞め、古井戸の中につき落とした。そうして、さらに上から石を投げ込んだのだった。  長尾の告白を聞き終わると、浅川は南箱根パシフィックランドの配置図を示し、古井戸のあった場所を尋ねた。長尾はおおよその場所を指で差したが、そこは明らかにビラ・ログキャビンが点在するあたりだ。浅川と竜司は、すぐに南箱根パシフィックランド、ビラ・ログキャビンへとレンタカーを走らせた。  浅川と竜司は、南箱根パシフィックランドのビラ・ログキャビンが点在するあたりに、古井戸を捜した。すると、なだらかな斜面に建つB‐4号棟の縁の下に、コンクリートで蓋《ふた》をされた井戸の丸い縁を発見したのだった。井戸から発散される山村貞子の強い怨念が、まっすぐに立ち昇れば、ちょうどそこにはテレビとビデオデッキが置かれている。録画状態のビデオテープに念が映されたとしても、不思議のない位置関係だった。  浅川と竜司は、ベニヤ板を破って縁の下に潜り込み、井戸の蓋を開け、山村貞子の遺骨を捜す作業に取りかかった。ビデオテープを見た人間に、山村貞子が託したのは、閉ざされた空間から遺骨を解放し供養すること……、浅川と竜司は「オマジナイ」の中身を共にそう解釈したのだ。ふたりは交互に井戸の底に降り、底にたまった水をバケツですくい上げ、山村貞子の骨を捜した。そうして、首尾良く、山村貞子の頭蓋骨《ずがいこつ》と思われるしゃれこうべを泥水の中に探り当てた頃、夜の十時を回っていた。浅川のデッドラインはその夜の十時。しかし、彼は死ななかった。つまり、テープに込められた「オマジナイ」の謎を解いた……、ふたりともそう判断したのだ。  その後、浅川は山村貞子の遺骨を持って伊豆大島に渡り、竜司は論文執筆のために東京の東中野のアパートに戻る。一連の変死事件は、稀代《きたい》の霊能力者、山村貞子の遺骨を暗い地の底から救い上げることによって解決された。骨を拾い供養することによって……。浅川も竜司もそう信じて疑わなかった。 11  そこまで読むと、安藤は原稿を持ったまま立ち上がり、窓を開け放った。井戸にロープで降りる情景を頭に思い描くと、重苦しさのあまり窒息しそうになる。昼でも暗い縁の下、おまけに直径一メートルもない古井戸、二重に閉ざされた空間をイメージすると、一時的な閉所恐怖症に陥り、外の空気が恋しくなる。窓のすぐ下では、明治神宮の暗い森がざわざわと揺れていた。同じ風を受けて、手に持った原稿がパタパタと音をたてる。残りの原稿は今印刷中の一枚のみ。つまり、あと一ページで、浅川和行の記述は終わるのだ。突如、安藤は、印刷が終了する音を聞いた。ワープロに目をやると、プリンターから、ほとんどが空白のままの用紙が顔を出している。  安藤は最後のページを手にとった。そこにはこうあった。  十月二十一日、日曜日。  ウィルスの特徴、増殖。  オマジナイ。ダビングして、コピーを作る こと。  たったそれだけで、最後のページは終わっている。ただ、重要なポイントをメモしたに過ぎない。  十月二十一日というのは、浅川が首都高速道路で追突事故を起こした日だった。その前日の午前に、安藤は竜司の死体を解剖し、監察医務院で高野舞に出合っている。従って、原稿が途中で終わっていても、安藤はある程度話を付け足すことができる。  十月十九日、山村貞子の遺骨を故郷に住む親戚《しんせき》に手渡した時点で、事件はすべて終了したわけではなかった。浅川が、大島のホテルで事件の詳細なレポートを作成中、竜司は東中野のアパートで、不審な死をとげていた。東京に戻り、竜司の死を知った浅川は、あわてて彼のアパートに出向き、居合わせた高野舞におよそ場違いと思われる質問を投げかけた。 「本当に、竜司はあなたになにも言い残してないのですね。たとえば、ビデオテープのこととか」  彼が慌てたのも無理はない。ビデオテープに込められた謎を解き明かし、死から免れる方法を発見したとばかり思っていたのが、実はそうではなかったのだ。呪いはまだ生き続けている。だが、そうなると浅川にはさっぱり理解できない。なぜ、竜司は死に、自分は生きているのか。しかも、翌日曜日の午前十一時頃には、浅川の妻子がデッドラインを迎える。浅川はたったひとりで、しかも数時間以内に再度「オマジナイ」の謎を解き明かさねばならなくなった。論理的に考えれば、浅川はビデオテープが「して欲しいと望むこと」を、この一週間のうちに偶然してしまったことになる。しかも、竜司は明らかにしていないことを。ビデオテープに対して、自分がして竜司がしなかったことは何か。おそらくまんじりともしないで、夜は明けたのだろう。翌、十月二十一日になって、浅川はインスピレーションを得たのか、「オマジナイ」の謎を完全に解き明かしたと確信した。そうして、念のために、ワープロに日付とメモを残す。  十月二十一日、日曜日  ウィルスの特徴、増殖。  オマジナイ。ダビングして、コピーを作る こと。  ここでウィルスというのは、天然痘ウィルスに他ならない。山村貞子は、死ぬ直前、日本人最後の天然痘患者である長尾城太郎と肉体交渉を持った。当然、天然痘ウィルスは彼女の身体に侵入したと見ていい。絶滅の危機に瀕《ひん》した天然痘ウィルスが、山村貞子の特異な能力を借り、ウィルスの存在理由でもある自己増殖を図ろうとした。しかし、ビデオテープに姿を変えたウィルスは、自ら増殖することはできない。人間の手を使い、強引にダビングさせる他ないのだ。したがって、消されてしまったテープのラストに言葉を補えばこうなる。 「この映像を見た者は、一週間後のこの時間に死ぬ運命にある。死にたくなければ、今から言うことを実行せよ。すなわち、テープをダビングして、新たな第三者に見せること」  そう考えれば、筋は通る。浅川は、映像を見てしまった翌日に、竜司に見せた上でダビングしている。気付かぬ間に、テープの増殖に手を貸していたのだ。しかし、竜司はダビングなどしてはいない。  確信を得て、浅川はその後すぐビデオデッキをレンタカーに積み込み、どこかに向かった。ダビングしてコピーを二本作り、二人の人間に見せるためだ。一本は妻のぶん、一本は娘のぶん……。見せられた人間は、新たな餌食《えじき》を捜してビデオを見せ、コピーを作らなければならなくなる。しかし、たいした問題ではない。彼がさしあたってしなければならないのは、妻と娘の命を救うことだった。  ところが、愛する者の命を救ったと安心した矢先、浅川は、リアシートに手を伸ばして冷たくなった妻と娘に触れ、運転を過ってしまう。  浅川が昏迷状態に陥った理由が、安藤にはわかるような気がする。愛する存在を失った悲しみもさることながら、彼は今でも問い続けているに違いない。一体、「オマジナイ」の本当の答えは何なのだと。今度こそ解き明かしたと思った瞬間、答えはするすると手を離れて形を変え、いとも簡単に愛する者を奪ってしまった。怒りと悲しみ、そして次から次に降り掛かる果てしない疑問、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ…………。にもかかわらず、なぜ自分は生きているのだ?  安藤はプリントアウトされた原稿を束ね、テーブルの上に載せた。そうして、自分の心に問うてみる。  ……おまえは、この荒唐無稽な話を信じるのか?  静かに首を横に振る。  ……わからない。  他にはなんとも言いようがない。彼は、竜司の冠動脈内にできた不自然な肉腫《にくしゆ》を実際に見ている。七人の人間に共通な死因。さらに、血液中から発見された天然痘に酷似したウィルスの存在。高野舞はどこに消えてしまったのだ。明らかに留守のはずの彼女の部屋のあの雰囲気、人間ではない何かの存在を仄《ほの》めかすあの部屋の総毛立たせるほどの居心地の悪さ。デッキに差し込まれたままのビデオテープに残る痕跡。現在もビデオテープは増殖を繰り返し、結果として犠牲者は増え続けるのか。考えれば疑問は増すばかりだ。  安藤はワープロのスイッチを切り、サイドボードのウィスキーに手を伸ばした。アルコールの力を借りなければ、今夜は眠れそうにない。 12  生化学研究室に顔を出して、ワープロを植田に返してから、安藤は病理学の教室に向かった。脇には、昨夜プリントアウトした原稿を抱えている。宮下に読ませようと持ってきたものだ。  宮下は、テーブルに顔をつっぷして、一心不乱にボールペンを動かしていた。その横に原稿の束を投げ出したところ、宮下は驚いて顔を上げた。 「ちょっと、これ、読んでみてくれないか」  安藤が言うと、宮下はびっくりした表情のまま見つめ返す。 「なんだ、いきなり」 「読んで意見を聞かせてほしいんだ」  宮下は原稿を手に取った。 「長いな」 「長いことは長いが、興味をそそられる内容だから、すぐに読める」 「まさか、おまえ小説でも書いたってんじゃないだろうな」 「浅川和行が、一連の変死事件を詳細にレポートしたものだよ」 「浅川って、あの?」 「そうだ」  宮下は興味深げに、原稿をペラペラとめくってみる。 「ほう」 「じゃ、頼む。読み終わったら意見を聞かせてくれ」  立ち去ろうとする安藤を、宮下は呼び止めた。 「ちょっと待てよ」 「なんだ?」 「おまえ、暗号が得意だっただろ」  宮下は頬杖《ほおづえ》をついて、ボールペンの先でテーブルを打っている。 「得意ってほどでもない……、学生時代、仲間と一緒にゲームをしたって程度だ」 「ふうーん」  と宮下は、テーブルをコツコツ打つ動作をやめない。 「それがどうかしたのか?」 「これだよ、これ」  宮下は肘《ひじ》で押さえていたプリントを安藤のほうにずらし、その中央をボールペンで打ち始めた。安藤は、上から覗《のぞ》き込む。昨日見せられた、竜司の血液中から発見されたウィルスを塩基自動解析装置にかけて解読し、プリントアウトしたものだ。 「ウィルスの塩基配列……、昨日、見せてもらったものだろ」 「やっぱり、不思議でならないんだよな」  安藤は、プリントを手に取って、顔の前に持ってきた。無秩序な塩基配列の中に、秩序ある繰り返しが数ケ所にわたって挿入されている。 ATGGAAGAAGAATATCGTTATATTCCTCCTCCTCAACAACAA  以上四十二塩基が適当な間隔を保って、繰り返し出現するのは、確かに奇妙な現象だった。 「やっぱり、竜司のウィルスだけが、こうなっているのか?」 「そう。竜司のだけに、この四十二塩基の繰り返しが余分に含まれている」  宮下は、安藤の目から視線を逸《そ》らそうとしない。 「なあ、変だと思わないか」 「そりゃ、もちろん……」  コツコツというボールペンの音が止まった。 「暗号、なんじゃないかと、チラッとな、そう思ったんだが」  安藤はごくりと唾《つば》を飲み込んだ。解剖後、竜司の腹から飛び出した新聞紙の角に並んだ数字が、RINGというアルファベットに置き替わる事実を、宮下に喋《しやべ》った覚えはなかった。にもかかわらず、宮下は、暗号を連想してきた。 「仮に暗号だとして、発信元はどこなんだ」 「竜司だ」  安藤は両目を強く閉じた。信じたくもない事実を、宮下は平気で突きつけてくる。 「竜司は死んだ。おれが解剖したんだ」 「ま、いいから。おまえ、こいつを解読してみろよ」  動ずる気配もなく、宮下は言う。四十二個の塩基配列が、なんらかの言葉に置き替わるというのか。178136が簡単にRINGと置き替わったように、四十二個の塩基配列もまた言葉を形成し、なにか重要な事実を知らせようとしているのか。冥界《めいかい》にいる竜司が、組織標本として残された自分の器官に、繰り返し繰り返し同じ言葉を刻み込んだ?  プリントを持つ手が震えた。浅川が陥ったと同じ袋小路に、自分も陥りそうな気がしてくる。しかし、こうあからさまに差し出されたら引っ込みはつかない。安藤自身、昨日この塩基配列を目にした瞬間、暗号という二文字を思い浮かべたが、意識の底に強引に押し込めていたのだ。そうしなければ、科学の枠組みはますます歪《ゆが》められ、収拾がつかなくなってしまう恐れがあった。 「そのプリントあげるから、ゆっくりと取り組んでくれや」  科学者のくせに、非科学的な遊びに駆り立てる宮下の気が知れない。 「だいじょうぶ、おまえなら、解読できる」  そう言って、宮下は安藤の尻をひっぱたいた。 第三章 解 読 1  ウェイトレスに案内されるまま、安藤と宮下は窓際のテーブルに座った。大学病院の最上階にあるレストランは、眼下に神宮外苑を見下ろして眺望が素晴らしく、大学職員に対する割引のサービスもある。ふたりとも白衣は脱いでいたが、ウェイトレスは一目で一般の見舞い客でないことを見抜き、大学職員用のランチメニューを差し出してきた。安藤と宮下は迷うことなく、本日の定食にコーヒーを付けて注文した。 「読んだよ」  ウェイトレスが立ち去ると、もったいをつけて宮下が言った。昼食に誘われたときから、安藤には、宮下がこう切り出してくるだろうと予想はついていた。宮下は、浅川によって書かれたレポート『リング』を読み、その感想を述べようとしているのだ。 「で、どう思った?」  安藤は身を乗り出した。 「正直なところ、驚いたよ」 「信じるのか」 「信じるもくそもない。辻褄《つじつま》が合ってるじゃないか。レポートにある人間の名前と死亡時間は全て現実と一致している。なあ、おれもおまえも、死体検案調書や解剖所見に目を通してるんだぜ」  まさにその通りだった。南箱根パシフィックランド、ビラ・ログキャビンで死んだ四人の解剖所見や他の書類のコピーは手に入れている。そこに記載された死亡時間は、浅川のレポートに書かれた通りだ。矛盾点はどこにも見当たらない。しかし、安藤が意外に感じたのは、気鋭の病理学者である宮下が、怨念や超能力の存在に拒否反応を示さなかったことである。 「すんなりと受け入れられるのか」 「抵抗がないわけじゃない。だがなあ、よくよく考えてみれば、現代の科学では根本的な問いには何ひとつ答えることはできないんだ。地球上に最初の生命がどのようにして誕生したのか、進化はどのようにしてなされるのか、進化は偶然の連続なのかそれとも目的論的に方向が定まっているのか……、様々な説はあれども何ひとつ証明はされていない。原子の構造は太陽系のミニチュア版ではなく、潜在能力と表現すべき掴《つか》み所のない状態であって、原子レベル以下の世界を観測しようとすれば、観測者の心が微妙に関わってきてしまう。心だぜ、心。デカルト以来の機械論者が身体機械の従属物として退けた心が、なんらかの形で観測結果に関わってくるんだ。お手上げだよ。おれはびっくりしないね。この世界で何が起ころうが、受け入れる覚悟はある。現代科学が万能だと思い込んでいる連中は、ほんと、おめでたいよ」  安藤も少なからず科学の万能性を疑っていたが、宮下ほど極端ではない。そうまで懐疑的になれば、科学者として身の置きどころがなくなってしまう。 「極端だなあ」 「おまえには言ってなかったが、おれは実は唯心論者なの」 「唯心論……」 「色即是空、空即是色とはよく言ったものだぜ」  安藤には宮下の言わんとするところがよく理解できなかった。唯心論と色即是空との間に、かなり言葉の省略があるのだろうが、今は宮下の思想を云々《うんぬん》している余裕はない。 「ところで、レポートを読んで、何か疑問を感じなかったか?」  安藤は、自分の抱いた疑問と宮下のそれが一致するかどうか、まず確認したかった。 「疑問? そんなもの山ほどある」  宮下は、運ばれてきたばかりのコーヒーにたっぷりとミルクと砂糖を入れ、スプーンでかきまぜた。ガラス越しの日差しをもろに受けて、頬《ほお》を紅潮させている。 「まず第一に、ビデオテープを見たにもかかわらず、なぜ、浅川だけが生き残ったのかという点だ」  宮下はそう言って、コーヒーをすすった。 「オマジナイの謎《なぞ》を解いたからとは考えられないか」 「オマジナイ?」 「ビデオテープのラストの一部分が、イタズラによって消去されていただろう」 「テープを見てしまった人間に、強制的に何かをさせたがっている部分だな」 「浅川は、オマジナイの内容を無自覚のうちにしてしまったとすれば……」 「何をしたんだ?」 「レポートのラストにこうあっただろう。ウィルスの特徴、増殖、オマジナイ、ダビングしてコピーを作ること」  安藤は、まだ宮下の知らない事実を手短に説明した。追突事故を起こした浅川の車の中に残されたビデオデッキや、高野舞の部屋に残されていた消去済みのビデオテープの存在。  宮下は説明を聞いて、ようやく納得したようだった。 「なるほど、そういう意味だったのか。つまり、浅川は、オマジナイの内容は、ビデオテープをダビングしてまだ見てない人間に見せることと考えた」 「間違いなく、彼はそう考えていた」 「事故を起こした当日の朝、浅川はビデオデッキを車に積んでどこに出かけたんだ?」 「当然、テープを見てくれる二人の人間のいるところだ。彼はどうしても妻と娘の命を救いたかったに違いない」 「だが、危険なテープをそうやすやすと赤の他人に見せるわけにもいかないだろう」 「たぶん、浅川の妻の両親だと思う。浅川の両親ではない。浅川の父親は健在だ。つい先日電話で話したばかりだからな」 「浅川の妻の両親が、娘と孫を救うため一時的な危険に身をさらしたのか」 「実家がどこかを調べ、地元の警察に問い合わせてみる必要があるな」  一週間以内にダビングすべしという脅迫文が付加され、二本に枝分かれしたテープが繰り返しダビングされて増殖しているとすれば、浅川の妻の実家の近辺からは、既に何人かの犠牲者が出ていると予想される。だが、まだ水面下で進行しているだけなのか、マスコミは何も騒ぎ立ててはいなかった。  ビデオテープがウィルスと同様の繁殖力を身につけたことに思い至ると、宮下は薄笑いを浮かべて安藤をからかった。 「おまえ、もっとたくさんの変死体を解剖することになるぞ」  宮下の言葉に、安藤はぞっとした。状況から考えて、高野舞もテープを見ている恐れが充分にあった。彼女が消えてしまってもう二週間近くたつ。安藤は、自分の手で、舞の身体を解剖することになるかもしれないと、解剖台に横たわる美しい身体を思い浮かべ、怖気《おぞけ》をふるったのだ。 「でも、浅川は生きている」  安藤のつぶやきには、祈りが込められていた。 「浅川が首尾良く二本のコピーを作ることに成功したのなら、なぜ、浅川の妻と娘は死んだのか、やはり、それが一番の疑問だろ」 「逆に言えば、なぜ浅川は生きているのかってことだ」 「わからねえなあ、天然痘《てんねんとう》ウィルスが関わっていることからしても、ダビングして増殖に手を貸すことがオマジナイと考えれば、辻褄が合いそうなものだがな」 「事実、竜司が死んだところまでは、辻褄は合ってる。だが、浅川の妻と娘が死んだことによって、話がわからなくなってしまう」 「ダビングしてコピーを作らせるのが、ビデオテープの願望ではなかったってことなのか?」 「わからない」  他に言いようがなかった。どう解釈すればいいのか……、オマジナイの意図するところは別にあるのか、それともダビングの過程でなにか不手際があったのか。あるいは、オマジナイの実行に拘わらず、見た人間を全て死に追いやるテープなのか。しかし、だとすると、浅川だけが生きている理由がわからなくなる。  ランチが運ばれてきたこともあって、ふたりはしばらく会話を中断し、食べることに専念した。 「ジレンマだな」  フォークを持つ手をとめて、宮下が言う。 「なにが?」 「そんなビデオテープがあるのなら、おれは見てみたい。だが、見れば命の保証はない。ジレンマだ。一週間では短すぎる」 「短すぎる?」 「解明するにはな。興味をかきたてられるんだ。どうにか科学的に説明しようとすれば、映像という、視覚と聴覚という感覚器官を通して人間の脳に訴えかけるメディアが、体内に天然痘ウィルスにそっくりなウィルスを産み落としたことになるんだが」 「産み落としたというより、映像の力によって体細胞のDNAが影響を受け、未知のウィルスに変貌《へんぼう》を遂げたのかもしれない」 「まあ、つまりそういうことだ。おれはエイズウィルスを連想してしまうな。その発祥はまだ解明されていないが、それまであったヒトとサルのウィルスが、なんらかの影響を受けて進化して誕生したと考えられている。とにかく、エイズウィルスは何百年も前から存在しているわけではない。塩基配列を調べれば明らかな通り、つい百五十年前に二系統に枝分かれしているんだ。ひょんなきっかけでな」 「そのひょんなきっかけが何か、知りたいものだ」 「おれは、なんらかの形で“心”が関わっていると思う」  宮下は上半身を前に倒し、安藤の鼻先に顔を突き出した。  ストレスが胃壁に穴を開けるという例を持ち出すまでもなく、質量を持たない心の状態が肉体に様々な影響を与えるのは周知の事実だった。宮下も安藤もほぼ同じことを考えていた。まず、映像を見ることによってある心の状態が出来上がり、その影響によって、既に存在する体内のDNAが変貌を遂げ、天然痘ウィルスに酷似した未知のウィルスが誕生する。そして、疑似天然痘ウィルスとも呼べるウィルスは、人間の心臓を取り巻く冠動脈の内部を癌《がん》化させ、肉腫《にくしゆ》を作り上げる。ちょうど一週間で肉腫は最大になり、血液の流れを遮断された心臓は動きを止めることになる。しかし、ウィルスそのものは癌ウィルスと同じで、冠動脈中膜のDNAに組み込まれて細胞に変異を起こさせるだけで、ほとんど伝染性はない。これまでの分析結果から導かれるのは、おおよそ以上の推論だった。 「見てみたいとは思わないか」  宮下は、現物を自分の目で確認したくてならない。 「そりゃ、まあな」 「ビデオテープだけでも手に入れたいよ」 「よせよせ、触らぬ神にたたりなし。竜司の二の舞だぜ」 「竜司といえば……、ウィルスの塩基配列に組み込まれた暗号、解読できたかよ」 「いや、まだだ。仮に、暗号として、たった四十二塩基では少なすぎる。言葉になったとしてもせいぜい数単語だろう」  安藤は言い訳をした。何度かトライしかけて、ほんの入口のところで挫折してばかりいる。 「明日の休日は、そのために使うんだな」  宮下に言われて初めて、安藤は明日が勤労感謝の日であることを思い出した。しかも、あさっての土曜も仕事が休みのため、三連休になる。息子を亡くし妻と別れてから、休日へのこだわりはなくなってしまった。部屋に一人でいるのは苦痛でしかない。とりたててすることもない三連休となると、特に絶望的な気分になってくる。 「ま、やるだけはやってみるが」  安藤は投げやりに言った。連休の暇潰《ひまつぶ》しに死者からの暗号に取り組んでも、明るい気分になるどころか、かえって憂鬱《ゆううつ》になるのがおちだ。だが、解読できれば、それなりの充実感は味わえるだろうと思い直す。とにかく、気を紛らせることができれば、何でも構わなかった。 「月曜日には教えてやるよ、竜司からのメッセージを」  安藤は三日のうちに解読できると、宮下に約束した。 「頼むぜ」  宮下はテーブル越しに手を伸ばして、安藤の左肩を軽く叩《たた》いた。 2  ランチのあと、教室に戻るとすぐ、安藤は栃木県宇都宮にあるJ医大法医学教室に問い合わせを入れた。浅川和行の妻の実家を調べたところ、栃木県|足利《あしかが》であることが判明し、その近辺で変死体が出た場合、解剖を担当するのはJ医大以外にはありえないからだ。  法医学教室の助教授が電話口に出ると、安藤は、先月の下旬頃、冠動脈|閉塞《へいそく》による心筋|梗塞《こうそく》で死亡した患者がいないかどうかを尋ねた。  すると、助教授は困惑気に語尾を濁し、逆に質問を返してきた。 「すみません、意図がよくわからないのですが」  安藤は、関東を中心に心筋梗塞による変死体がこれまでに七体発見されていて、さらに多くの犠牲者が予想される旨を伝えた。『リング』に記載されている超心理学への言及を避け、安藤は手短に説明した。 「関東圏の全ての医学部に問い合わせているのですか」  助教授は、なおも執拗《しつよう》に疑問を投げかけてくる。 「いえ、そういうわけではありません」 「では、なぜ、うちの大学に?」 「可能性があるものですから」 「宇都宮の近辺で、死体が発見されるという?」 「いえ、足利です」 「足利……」  足利の地名を聞いて、助教授はかなり驚いた様子だった。言葉を止め、受話器を握る手に力が入る気配までが、安藤のところに伝わってくる。 「驚きましたねえ、なぜご存じなんですか。事実、十月二十八日に足利で発見された老夫婦の変死体を、その翌日、わたしどもの教室で解剖いたしました」 「その老夫婦の名前は?」 「確か小田という名字で、夫のほうは忘れましたが、妻の名は節子です」  浅川の妻の両親の名前が小田徹と節子であることは既に確認済みだった。間違いない。ここにはっきりと裏づけられたことになる。十月二十一日の午前、浅川はレンタカーにビデオデッキを積んで足利の妻の実家に向かい、そこで二本分のテープをダビングし、老夫婦に見せたのだ。一週間以内にダビングして他の人間に見せれば命に別状はないと、両親を説得したのだろう。無理な説得がなくとも、また、義理の息子のおよそ突拍子もない話を信用するにしろしないにしろ、娘と孫の命がかかっているとなれば、両親は申し出に応ずるに決まっている。ふたりにビデオテープの映像を見せ、コピーを作ったことにより、浅川は妻と娘の命を救ったと信じた。ところが、その帰り道、彼は妻と娘を同時に失い、ちょうど一週間後には、ビデオテープを見せられた両親もまた命を落とすことになった……。 「解剖してみて、驚かれたでしょう」  二体同時となると驚きもひとしおだったろうと、安藤はスタッフの胸のうちを想像してしまう。 「そりゃもう。なにしろ、死亡時間がほとんど同じで、しかも、遺書まであるんですから、心中を疑うのは当然の状況でした。ところが、解剖してみると、あれでしょ、毒物が発見されるどころか、冠動脈には奇妙な肉腫《にくしゆ》ができている。驚きを通り越し……」 「ちょっと待って下さい」  安藤は割って入った。 「なにか」 「今、遺書っておっしゃいませんでした?」 「ええ、ほんのメモ程度のものですが、亡くなる直前に書かれたと思われる遺書が、死体の枕《まくら》もとに置いてあったのです」  安藤の頭はこんがらがった。どういうことなのだろう。なぜ、遺書があるのだ? 「遺書の内容を教えてもらえませんか」 「ちょっと失礼」  助教授は受話器をその場に置いて、しばらく電話から離れたが、ほんの十数秒で戻ってきた。 「捜すのに手間取りますから、あとでファックスでお送りしましょうか」 「そう願えれば助かります」  安藤はファックスの番号を告げ、受話器を置いた。  そのまま、安藤はデスクの前から離れることができなかった。ファックス専用機は、デスクをふたつ隔ててパソコン用キャビネットの中段に乗っている。回転|椅子《いす》を四十五度回し、正面をファックスに向けて、安藤は文書が届くのを待った。  待つ間、安藤はほとんど姿勢を崩すことなく、これまでの経緯を何度も何度も頭の中で反復した。いつ動き出すかわからないファックスが気になって、新たな思考を生む余裕はなく、事件経過をただ反復するだけだった。  やがて、ジジジジジと音をたて、ファックスから用紙が吐き出されてきた。完全にプリントアウトが終わると、安藤は立ち上がって破り取り、再び椅子に戻ってデスクの上に広げた。 K大学医学部、安藤様 小田夫婦の遺書と思われる文書をお送りします。なにか進展がありましたら、ぜひお知らせ下さい。 J医大、横田  サインペンによる、助教授の走り書きの下、小田夫婦両方の署名で書かれた数行の文章が添付されている。直筆をコピーしたものらしく、助教授の筆跡とは異なっていた。 ビデオテープは責任を持って処理しました。もはや何の心配もございません。 ほとほと疲れました。良美、紀子、あとのことはよろしく頼みます。 十月二十八日 朝 小田 徹 節子  短いものだが、明らかに死を前にしてのメッセージに違いなかった。良美と紀子というのは、長女と次女の名前だろうが、その前にある文章は、一体だれに向かって言われているのだろう。  ビデオテープは責任を持って処理した?  処理したというのは、葬り去ったということなのか。ここで、処理という言葉を、ダビングしたという意味に取るのはまず不可能だった。  安藤は、小田夫婦の心理を順を追って推しはかってみた。  十月二十一日の日曜日、ふたりは娘婿である浅川の来訪を受け、ビデオに込められた忌まわしい呪《のろ》いのせいで娘と孫の命が危険にさらされていると打ち明けられ、テープをダビングすることに同意する。ところが、同日、娘と孫は予告通りの時間に命を落としてしまった。小田夫婦が初めのうち浅川の言うことに半信半疑だったとしても、この事実によってテープの力を信じざるを得なくなる。娘と孫の葬式を終え、解剖の結果、原因不明の心筋梗塞が死因と聞かされ、彼ら夫婦は自分たちの生を諦《あきら》める決心をしたに違いない。ビデオテープの命令に従ってダビングしたにもかかわらず、娘と孫の命は失われたのだ。もはやどうあがいても助からないと観念し、葬式の後片付けやなにやでくたくたに疲れた上に、厭世《えんせい》観も手伝って、彼らはビデオをダビングすることなく、死が近づくのを待った……。だが、遺書の言葉を信じれば、死を待つにあたって、彼らは、不幸の元凶である二本のビデオテープを「処理」した。  小田夫婦がビデオテープをどのように処理したのか、安藤には知りようがない。完全に消去した上で危険物として捨てたのか、あるいは庭の土の下に埋めたのか。とにかく、完全にこの世から抹殺したと仮定して、安藤は手元のメモ用紙に、ビデオテープが枝分かれして辿《たど》った系統樹を書いてみた。  まず、南箱根パシフィックランド、ビラ・ログキャビンB‐4号棟にて、録画状態のビデオテープに映像が流れ込み、悪魔のテープが一本誕生する。それを自宅マンションに持ち帰った浅川は、高山竜司のために一本をダビングする。ここでテープは二本に枝分かれしたことになる。ところが、竜司のテープは舞の手に渡り、冒頭の十秒ばかりを残してあとは消去されてしまった疑いがある。浅川の分のテープは、兄の順一郎に引き取られ、壊れたデッキごと捨てられてしまった。さらに、浅川の持つオリジナルテープから枝分かれした二本のテープは、小田夫婦の手によって処理された。となると、山村貞子なる女性の怨念で誕生したビデオテープは、全てこの世から姿を消したことになるではないか。  安藤は何度も系統樹を辿り、この点を確認した。どう考えても、あたかも種が滅ぶようにビデオテープは消滅してしまったことになる。八月の末にこの世に生を受けたビデオテープは、合計九名の犠牲者を出しただけで、たった二ケ月で滅亡を遂げたのだ。それを証明するように、ここ一ケ月間新しい犠牲者は出ていない。しかし……、安藤は考える。ダビングしたしないにかかわらず、見た人間を全て死に追いやるビデオテープならば、早晩消滅するのは理の当然ではないかと。一週間以内にダビングしなければ死ぬと脅迫されて初めて、ビデオテープは増殖可能であり、環境に適応して生き延びることができる。脅迫が偽りであると知れれば、やがて駆逐され袋小路に追い詰められるに決まってるではないか。  もし本当に消滅してしまったとすれば、今回の一連の変死事件は解決されたことになる。あの映像が存在しないのなら、もはやだれも原因不明の心筋梗塞で命を落とす心配はない。だが、根本的な疑問が、安藤の脳裏に甦《よみがえ》ってきた。  ……浅川だけが、なぜ生きているのだ?  さらに、  ……高野舞は今どこにいる?  理屈で考えれば、ビデオテープは死に絶えたように見える。しかし、安藤の直感は否定していた。そうあっけなく終わるはずがない。どこか釈然としないのだ。 3  図書館の受付でロッカーのキィを受け取ると、安藤は歩きながらジャケットを脱いだ。もうすぐ冬という季節にあって、薄手のシャツ一枚という軽装は見る者に寒々しい印象を与える。だが、汗かきの安藤には、常温に保たれた図書館の中、シャツ一枚でもまだ暑いくらいだ。安藤は、ブリーフケースからノートとペンを取り出し、ジャケットにくるんでロッカーに入れた。  ノートには、竜司の血液から発見された疑似天然痘ウィルスの塩基配列を解析したプリントが差し挟まれている。今日こそは、本気で暗号解読に取り組もうと、朝から図書館にやってきたのだが、プリントに印刷された塩基配列を目にしただけで、無秩序な羅列に目がくらみ、解読できるわけがないと弱気になってしまう。しかし、考えてみれば、無駄に時間を費やすのも目的のひとつだった。何もすることのない三連休をやり過ごす方法が、他にあるとは思われない。  ノートを脇に抱えて、安藤は三階の閲覧室に上り、窓際の席に腰を下ろした。  竜司と一緒に暗号遊びに熱中した学生時代には、暗号に関する解説書は自宅に多数買い揃えてあった。しかし、結婚と離婚を含め計三度の引っ越しをするうち、暗号への興味を失ったこともあり、その種の本は全てどこかに失われてしまった。暗号の種類によっては、専門書に記載された換字表や頻度分析表がなければ解けないものもあり、資料なしでやみくもに取り組んでも解読は覚束《おぼつか》ない。再度買い揃えるのもばからしく、結局図書館に足を運ぶしかなかったのだ。  十数年も前に夢中になった暗号の、組立てと解読の基本を理解し直すため、安藤は入門書にざっと目を通していった。そしてまず、疑似天然痘ウィルスの塩基配列が、暗号のどの形式に属するのだろうかと、分類から始めることにした。  暗号には大きく分けて、文章を他の文字や記号、数字に置き換える換字式、単語の順序を並べ変える転置式、単語間に余分な語を挿入する挿入式の三つの種類がある。たとえば、解剖後に、竜司の腹から飛び出した数字が「RING」という英語のアルファベットに置き換えられたのは、換字式の基本的な例である。  疑似天然痘ウィルスの塩基配列の暗号は、深く考えるまでもなく、換字式の形式だろうと推測できる。ここにあるのはATGC四つの塩基の羅列であって、ある特定の組み合わせが一つの文字を指定するのがもっとも暗号らしいと思われたからだ。  自分で思い浮かべた“暗号らしさ”という言葉に自らはっとして、安藤は顔を上げた。そもそも暗号の目的とは、第三者に知られることなく特定の相手に情報を伝えることにある。学生時代、それは遊びの道具であり、知的なゲーム以外の何ものでもなかった。しかし、解読の成否が戦況をも支配しかねない条件下では、暗号らしい暗号はすなわち解読されやすい暗号となってしまう。第三者による解読を防ごうとすれば、一見しただけでは暗号とわからないような仕組みが必要なのだ。たとえば敵のスパイを捕らえ、所持品の中からいかにも怪しげな数字の並んだ手帳が出てくれば、機密事項をメモした暗号だろうと疑うのはまず当然だろう。フェイントならともかく、暗号であると判断された時点で、解読の可能性はかなり高くなってくる。  安藤はなるべく論理的に考えようと努めた。第三者に知られないよう情報を伝えるのが暗号の目的であるとすれば、情報を伝えようとする人間にのみ、暗号は暗号らしくなければならない。今見つめている、塩基配列の中に組み込まれた四十二塩基の繰り返しを、安藤は非常に暗号らしいと感じる。初めて見た瞬間から、確かにそんな印象を抱いたのだ。  ……一体なぜなのか。  安藤は印象の出所を冷静に見つめ直した。なぜ、暗号らしいのか。塩基配列を分析して、わけのわからない繰り返しが差し挟まれる例は、他にもないわけではない。にもかかわらず、この繰り返しはいかにもいわくありげだ。金太郎|飴《あめ》のように、どの断面で区切ってもこれでもかこれでもかと顔を出してくる。暗号だよ、と自己主張するかのようだ。解剖後、竜司の遺体から飛び出した数字が、「RING」というアルファベットに置き換わったという経験が強く作用して、塩基配列の同じ繰り返しがいかにも暗号らしく見えてくるように思えた。つまり、竜司が、「RING」という単語を腹から飛び出させたのには二つの目的があるのだ。ただ単純に、「RING」という文書の存在を知らせる以外に、これ以後も機に応じて暗号を出現させるから、見逃すことがないよう注意すべしという警告の意味。数字をアルファベットに置き換えるという、換字式のもっとも簡単な暗号を使用したのは、後々への伏線のためだったのかもしれない。  塩基配列の同じ繰り返しが竜司の血液に潜む疑似天然痘ウィルスのみに発見されたことから、発信人は竜司と仮定できる。竜司が死に、灰になったのは動かしようのない事実だが、彼の組織標本は研究室に残っている。竜司という個体の設計図であるDNAは、標本内の細胞の中、まだ無数に存在しているのだ。そのDNAが、竜司の“意志”を引き継ぎ、“言葉”を発しようとしているのだとしたら……。  解剖学者にあるまじき、あまりに荒唐無稽な仮定だった。だが、もしこの塩基配列が特定の言葉に置き換わるとしたら、他の解釈はできなくなる。論理的には、竜司の血液標本からひとつのDNAを抽出し、竜司とそっくり同じ個体(クローン)を造るのは可能なのだ。共通の意志を持ったDNAの集合が、血液に混じった疑似天然痘ウィルスに影響を与え、ある“言葉”を挿入した。しかも、疑似天然痘ウィルスにだけ言葉を挿入した事実は、竜司の読みの深さと才能を感じさせる。赤血球のDNAではなく、なぜ外部からの侵入者である疑似天然痘ウィルスにだけ言葉を挿入したのか。他の細胞のDNAでは、解析される可能性がないことを、医学部出身の竜司は知っていたからだ。今回の一連の変死事件を起こしたウィルスなら、間違いなく塩基自動解析装置にかけられ配列が明らかにされると承知の上で、彼は、疑似天然痘ウィルスのDNAにだけ細工を施した。発した言葉が、読み手の側に届くように。  安藤はひとつの結論を導き出そうとしていた。とすると、これは、暗号のように見えて本来の暗号の目的を失していることになる。竜司のDNAが意志を持ち、外部に対してコミュニケーションを取ろうとした場合、他に手段があり得るかどうか。DNAの二重|螺旋《らせん》がATGC四つの塩基の配列で構成されているとすれば、この四つのアルファベットをうまく組み合わせて意志を伝達するしか方法はなさそうだ。第三者に解読されるのを防ぐために暗号を用いたのではなく、他の伝達手段がないから、しかたなく四つの塩基を用いたに過ぎない。今の竜司は、四つのアルファベット以外の言葉を持たないのだ。  ついさっき感じた、解読などできるわけがないといった諦《あきら》めが、嘘《うそ》のように自信へと変わっていく。  ……解けるかもしれない。  安藤は胸のうちで叫んでいた。DNA内部に残存する竜司の意志が、塩基配列を使って安藤に語りかけようとしているのなら、その言葉は安藤にとって解読しやすいものでなければならない。わざわざ難しくする必要などどこにあろう。論理に誤りがないかどうか、安藤は何度も筋道を辿《たど》って確認した。入口で間違ってしまうと、袋小路に迷い込んだあげく結局回答には辿りつけなくなる。  安藤はこのゲームをもはや単なる暇つぶしとは見做《みな》さなかった。解けるという見通しが立った以上、安藤は早くその答えを知りたくてならなかった。  昼食前までに安藤が試みたのは、次の二つの方法だった。 ATGGAAGAAGAATATCGTTATATTCCTCCTCCTCAACAACAA  以上四十二のアルファベットをどのように区切るかが、最初の難問である。二つずつに区切る方法と、三つずつに区切る方法と、二つの方法が考えられる。 例1)二つずつに区切った場合  AT GG AA GA AG AA  TA TC GT TA TA TT  CC TC CT CC TC AA  CA AC AA  四つのアルファベットの二つずつをひとつの単位と見做すと、四×四で計十六種類の組が生じることになる。そしてひとつの組がひとつの文字に相当すると考えてみよう。  ここで浮かび上がるのは、この暗号は一体どのような“国語”によって書かれているかという問題である。  ひらがなの場合、濁点や破裂音を含めれば五十近くになり、十六個の組ではとても表現し切れない。英語やフランス語のアルファベットなら二十六字必要だが、イタリア語なら二十字ですむ。しかし、ローマ字の可能性も見逃すわけにもいかず、国語を特定するのは、暗号を解読する場合、かなり重要なポイントとなる。  だが、安藤にとってこの問題は実は解決済みであった。178136という数字が「RING」という英語に置換できた事実が、竜司から与えられたヒントとすれば、今度の場合も塩基配列は英語のアルファベットに置き換わると推察できるからだ。この点に関してはまず間違いないと思われた。国語はほとんど決定されたも同然なのだ。  四十二の塩基配列を二つずつに区切ってゆくと、全部で二十一の組ができる。しかし、AAが四つ、TAとTCがそれぞれ三つ、CCが一つ重複しているため、組の種類は全部で十三になる。安藤はこの数字をノートに書き出した上で、解説書のページをめくり、英文における出現文字種類数の表を捜し出し、確認しようとした。  例えば英語の場合、アルファベットには二十六の種類があるけれども、実際に文章にした場合、使われる頻度にはかなり片寄りが出てくる。EやTやAなどは頻繁に顔を出し、QやZなどは洋書一ページに一つか二つ程度しか使われない。英文における出現頻度種類数は、統計資料として暗号解説書の巻末に掲載されていることが多い。この統計と一致すれば、暗号がどんな“国語”で書かれているかの推察が楽になる。 「英文二十一文字中における出現種類数の平均は約十二」  それが統計の結果だった。  安藤は小躍りした。平均の十二は十三に極めて近い数字である。つまり、四十二の塩基配列を二つずつ二十一組に分け、それぞれの組が英語のアルファベットのひとつに相当するとした場合、統計上なんの矛盾も生じないことが明らかになったのだ。  安藤はこの点を保留した上で、塩基配列を三つずつに区切った場合を考えてみた。 例2)三つずつに区切った場合 ATG GAA GAA GAA TAT CGT TAT ATT CCT CCT CCT CAA CAA CAA  組数は十四で、種類はATG、GAA、TAT、CGT、ATT、CCT、CAAの七種類である。英文十四文字中における出現文字種類数の平均は約九であり、七種類という数字は平均からそうはずれてはいない。  安藤は眺めてすぐ、重複が多いことに気付いた。GAA、CCT、CAAはそれぞれ三回、TATは二回の重複が見られる。安藤が気にかかったのは、GAA、CCT、CAAが三つ連続している点だ。つまり、ひとつの組がひとつのアルファベットに相当するとすると、同じアルファベットの連続が三ケ所も現れてしまうことになる。F|ee《ヽヽ》l、Cla|ss《ヽヽ》など、同じアルファベットが二個連続して使われる単語は少なくない。しかし、同じアルファベットが三つ連続する英単語はなく、ありうるとすれば、……t|oo《ヽヽ》 |o《ヽ》ld……、……wi|ll《ヽヽ》 |l《ヽ》ink……などのように、特定の単語が二つ連続した場合のみである。  安藤は手近な洋書を手に取り、試しに一ページ内に、同じアルファベットが三つ連続した個所がどのくらいあるか数えてみた。五、六ページめくってようやく一ケ所見つかるかどうかなのだ。たった十四文字の中に、同じアルファベットが三つずつ三回も連続する確率などゼロに等しい。それに対して、四十二塩基を二つずつの組に分けた場合、同じアルファベットが二回連続する個所は、たった一回現れるだけである。こういった観点から、四十二の塩基を二つずつ二十一の組に分けるのが統計上もっとも自然だろうと、安藤は判断したのだった。  狙いが絞られてくると、あとは試行錯誤を繰り返すだけだ。  AT GG AA GA AG AA  TA TC GT TA TA TT  CC TC CT CC TC AA  CA AC AA  AAの組が四回出現していることにより、AAが指定するアルファベットはかなり頻繁に使われるものと予想できる。安藤はさらに専門書のページをめくり、英文におけるアルファベットの使用頻度表を開いた。もっとも使用頻度の高いアルファベットはもちろんEである。安藤はまず、AAがEを指すものと仮定した。次に出現数が多いのはTAとTCの三回である。しかも、AAの後にTAがきて、TCの後にAAがきている個所がそれぞれ一回ずつ見られる。これは重要なヒントだった。というのも、文字の連接(アルファベットがどのように続いているのか)には特徴があり、これもまた統計として整理されているからである。安藤は統計表と首っ引きで、TAとTCにアルファベットをあてはめていった。  Eの後に続きやすいアルファベットで、しかも使用頻度が高いのはAであり、このことからTAはAを指すものとし、同じ理由で、TCにTをあてはめてみる。CCは、連接の仕方からみてNと見当をつける。そこまでは統計上まったく問題がなく、見事に合致していた。  …… …… E  …… …… E  A  T  …… A  A  ……  N  T  …… N  T  E  …… …… E  無秩序に並んでいたと思われていた塩基配列を二つずつ二十一組に分け、頻度分析によってアルファベットをあてはめていったところ、英文の輪郭のようなものが浮かび上がりかかってきた。これをもとに、母音と子音の関係、連接度数等を手がかりに、さらに隙間を埋めればどうなるか。  S  H  E  R  D  E  A  T  Y  A  A  L  N  T  I  N  T  E  C  M  E  冒頭のSHEは“彼女”という意味にもとれるが、以下をどう区切っても意味のある文章は形成されない。安藤は、EとAやTとNの位置を入れ替えたり、思いつくままアルファベットを並べ替えた。ボールペンで書き出す手間を省くため、ノートを破って二十六枚のカードを作り、アルファベットを書き込み、ゲームの要領で様々に差し替えた。  T  H  E  Y  W  E  R  B  O  R  R  L  N  B  I  N  B  E  C  M  E  この列を目にしたとき、安藤の頭には、 「THEY WERE BORN……」  という英文が浮かんだ。正確にそう読めるわけではないが、無理にこじつければ読めないこともないというレベルである。日本語に訳せば、 「彼ら(彼女)らは生まれた」  となる。どことなく気になる意味ではあるが、もっとぴったりと当てはまるはずだと、安藤はさらにゲームを続けた。  およそ十分ほど取り組んだだけで、安藤は結果が予想できて、手を止めた。もしここにパソコンがあれば、この程度の作業はずっと楽になる。三番目、六番目、十八番目、二十一番目のアルファベットが同一。七番目、十番目、十一番目のアルファベットが同一。八番目、十四番目、十七番目のアルファベットが同一。十三番目、十六番目のアルファベットが同一。文章の長さは二十一字。以上の条件を入力し、使用頻度の調整を手作業で行えば、コンピューターは答えを弾《はじ》き出すだろう。ただし、間違いなく、コンピューターは複数の答えをはじき出す。上の条件を満たす二十一字の有意味な英文など、無数に存在するに決まっている。としたら、どれが竜司からの通信文なのか、区別がつかなくなってしまう。文末の署名のように、一見して竜司からの暗号文とわかる仕掛けが施されているならともかく、そうでなければ判断の下しようがない。  デッド・エンド。  今頃になって気付くとは、なんと鈍いのだろうと、安藤は頭を抱えた。学生時代の、暗号に関する勘の冴《さ》えていた頃なら、ほんの一、二分で、この程度のことは見抜けていたはずなのだ。考え方を変えなければならない。仮定の立て直しが必要だった。  夢中になっていたせいで、安藤は時がたつのを忘れていた。腕時計を見ると、もう午後の一時に近い。同時に空腹を覚えた。四階の食堂でランチをとろうと、安藤は椅子から立ち上がった。気分転換にはもってこいだ。「試行錯誤」と「ひらめき」。両方がうまく噛《か》み合わなければ、解読は難しい。食事中にひらめきを得たことはこれまでに何度もあった。  ……答えはおのずからひとつに決まるものでなければならない。  呪文のようにそう唱えながら、安藤は四階の食堂に上がっていった。 4  四階の食堂で定食を食べながら、安藤はすぐ間近に伸びた木々の下、公園のブランコやシーソーで遊ぶ幼児の姿を目で追った。午後も一時を回り、さっきまで一杯だった食堂にも、ちらほらと空席が目立ち始める頃だ。アルマイトのトレーの横には、塩基配列のプリントが置かれているが、彼の視線は暗号から離れて窓からの景色に向けられていた。  食堂の窓は総ガラス張りで、遮るものもなく子供たちの遊ぶ様子は無声映画のように伝わってくる。五歳ぐらいの男の子がいると、いつも安藤の目は釘《くぎ》付けになった。ほとんど無意識のうちに目が向けられ、ぼんやり何分も見つめていたりする。  二年ばかり前、南青山のマンションに住んでいた頃、日曜日の午後になって急に研究会での発表資料が不足していることを思いつき、息子の散歩がてら今いる図書館まで歩いて来たことがあった。ところが、入口に『十八歳未満の方は入館できません』と掲示があるのを見て、まさか子供を外で待たせて調べ物を済ますわけにもいかず、仕事のほうは諦《あきら》め、子供と一緒に公園で遊んだことがあった。揺れるブランコの後ろに立って、息子の背中を一定のリズムで押し続けた。その、同じブランコが、色づいた銀杏《いちよう》の下で、今も揺れていた。音は届かず、足を曲げたり伸ばしたりする子供の表情も見えない。だが、安藤の耳の奥では、三歳当時の息子の声が甦《よみがえ》っていた。  外の景色を見ていると、つい余計なことを考えがちだった。安藤は視線を戻し、ボールペンを手に取った。  暗号解読の基本に戻るのだ。いくつもの仮定をたて、ある程度まで踏み込み、だめと分かれば潔く仮定を捨てていく以外、この手の暗号を解読する方法はない。二十字程度の長さでは、使用頻度や連接度数表に頼るわけにもいかず、ましてや特定の換字表が必要となれば、難解過ぎて相手に情報を伝達できない恐れが出てくる。仮定をたて、ひとつひとつ筋道を追い、答えが見つかればそれでよし、見つからなければ仮定そのものを捨て、試行錯誤を繰り返すよりほかないのだ。  安藤は、あるひとつの仮定をあまりに早く捨て過ぎたのではないかと思いついた。というのも、アナグラム(語句の綴り字の並べ換え)の可能性が頭にひらめいたからだ。  食堂から閲覧室に戻ると、安藤は、もう一度四十二の塩基を三つずつの組に分けて眺めてみた。 ATG GAA GAA GAA TAT CGT TAT ATT CCT CCT CCT CAA CAA CAA  さっきは、GAA、CCT、CAAの組に連続三回の重複が見られることにより、英文にはなりにくいと判断して、三つ一組の仮定を捨てたのだ。だが、文字が適当に入れ替わっているとすれば、この仮定が再度成立する余地は十分にある。  例えば、 OOOOEEEBBDDTPNHR  という極めて重複の多い文字列を考えてみよう。ところが、ある規則に従って、この文字列を並べ替えると次のような有意味な文章が出現する。  BOB OPENED THE DOOR(ボブはドアを開けた)  ……いけるかもしれない。  取りかかろうとして、安藤は手を止めた。すぐに先が見えてしまったからだ。GAAやCCTが指定するアルファベットを決め、さらに並べ替えが必要となれば、解読に要する時間は膨大なものとなってしまう。時間を費やせば解けるというレベルではない。何か鍵字のようなものがなければ、二つ一組の場合と同様に、答えをひとつに決定できなくなってしまう。ひょっとして「RING」に置換された178136という数字が、並べ替える場合の順序を指定しているのかもしれないと、鍵字の可能性も思い浮かべたりしたが、その前には当然、アルファベットを正確に特定しなければならない。  またもやデッド・エンド。  ……発想の転換が必要だ。  安藤は強く自分に言い聞かせた。試行錯誤しているつもりでも、さっきから同じ発想に立ち続けている。二つ一組、あるいは三つ一組の組が、ひとつのアルファベットを指すという考え方に固執し過ぎているのではないか。  ……答えはひとつに特定でき、しかも複雑な手続きを要さないで簡単に手に入るものでなければならない。  集中力が続かず、塩基配列のプリントに注がれる視線も散漫になりがちだった。ふと気付くと、机の斜め向かいに座っている若い女性の髪を見つめていたりする。うつむいた額のあたりが高野舞と似ていた。  ……彼女は今、どこにいるのだろう。  舞の身の安全が思いやられる。かつて竜司の恋人だった高野舞。  ……ひょっとして竜司は、この暗号で、舞の居場所を知らせようとしているのか。  そんな疑問が安藤の頭をかすめたが、あまりに漫画じみた空想に安藤は苦笑いを浮かべた。危機に瀕《ひん》したヒロインを救う名探偵に自分を見立てるという幼稚さ。安藤は、自分のしていることが急にばからしくなってきた。科学的に説明できるなんらかの作用により、ウィルスのDNAに四十二塩基の特別な繰り返しが挿入されただけで、実は暗号でもなんでもないのではないか。その可能性をちょっとでも思い浮かべるだけで解読への情熱は薄れてゆく。もとより暇潰しのはずではあった。しかし、無駄なことに時間を費やすのはことのほか骨が折れるものだ。  西日が伸びて、二の腕の産毛を金色に浮かび上がらせていた。午前中の集中力は、午後になると急速に衰えていく。日の当たらない席に移ろうかと、安藤は中腰になって見回してみた。受験生や大学生の大半が、積み上げた本の陰でまどろんでいる。移動すれば集中力が戻るわけでもない。閲覧室全体が、一斉のまどろみに襲われているのだ。安藤は同じ場所に腰を落ち着けた。  ……論理、論理。  そうつぶやいてみる。  ……関数でなければならない。  安藤は姿勢を正した。三つ一組の塩基に様々なアルファベットを当てはめていたのでは、関数ではなくなる。多対一か、一対一対応であれば、自然に答えがひとつに定まってくる。多対一、あるいは一対一対応……。どこかにそんな対応のしかたはないか。  安藤は立ち上がった。論理的に筋道を辿《たど》れば、他に方法はないと思われた。解答に一歩近づいたという直感が、まどろみを吹き飛ばし、行動へと駆り立てる。  自然科学の書架に歩み寄ってDNAに関する専門書を抜き出し、急いでページをめくった。興奮してくると彼の手の平には汗がにじむ。捜すべきは、三つ一組の塩基がどのアミノ酸に対応するかをまとめた表であった。(本文参照)  安藤は捜し当てたページを開き、暗号と並べて机の上に広げた。  三つ一組の塩基(コドン)は、蛋白《たんぱく》を合成するとき、安藤が今開いている表に示した法則に従ってアミノ酸に翻訳される。アミノ酸の種類は全部で二十種類。四つの塩基が三つ一組になる組み合わせは六十四通り。六十四個の組み合わせで二十種類のアミノ酸を指定するとなると重複が生じてしまう。しかし、三つ一組の塩基がアミノ酸を指定する限りにおいては、多対一対応であり、どの組も必ずひとつのアミノ酸あるいは『終始』という意味に相当する。  安藤は、表に従って、四十二個の塩基に順にアミノ酸の略語を当てはめていった。  ATG  GAA  GAA  GAA (Met)(Glu)(Glu)(Glu)  TAT  CGT  TAT  ATT (Tyr)(Arg)(Tyr)(Ile)  CCT  CCT  CCT  CAA (Pro)(Pro)(Pro)(Gln)  CAA  CAA (Gln)(Gln)  アミノ酸の頭文字だけを取って、横一列に並べてみる。 MGGGTATIPPPGGG  意味を成さない。  三つ連続して重複する個所をどう解釈するかがやはり重要なポイントになりそうだ。何か別の解釈があるに違いない。例えば、三つ連続した場合は、後ろの二つはスペースとして考えろという意味なのかもしれない。  MG——TATIP——G——  やはり英文は形成されない。  だが、安藤には確かな手応えがあった。間違いなく解答に近づいている。なぜかそう感じた。あともうちょっとで意味のある単語が生まれそうな気がする。  Glu、Pro、Glnだけが三つ連続している。  安藤は並べ方に変化をつけた。  Met  Glu(三つ)  Tyr  Arg  Tyr  Ile  Pro(三つ)  Gln(三つ)  およそ一分ほど凝視するうち、彼の目にはひとつの英単語が見えてきた。  コドンの三つの繰り返しは、「三個」という意味ではなく「三番目」という意味であることに気付いたのだ。『アミノ酸を示す略語の三番目のアルファベットを取れ』と指定しているのだ。  Met  Glu  Tyr  Arg  Tyr  Ile  Pro  Gln  したがって答えは、  『MUTATION』  日本語に訳せば、  『突然変異』  安藤は場所柄もわきまえず、思わず唸《うな》り声を発していた。関数の論理に立ち、試行錯誤の結果を全て考慮にいれて解読すれば、答えが他にあるとは思われない。単純かつ明確に答えはひとつに定まる。  だが、安藤は頭を抱えた。MUTATION(突然変異)という生物学上の専門用語を受け取ったとしても、それをどう解釈すべきなのか、皆目見当がつかないのだ。  ……竜司、おまえ一体、何が言いたいのだ? 語りかける安藤の声は、解読に成功した興奮のせいか胸の内で震えていた。 5  安藤は図書館ホールの公衆電話の前に立ち、宮下の番号をプッシュした。三連休の初日の夕刻、つかまらないだろうと覚悟してかけた電話だったが、あにはからんや彼は家族と一緒に自宅に居て、安藤は、電話口に出た宮下に暗号が解読できたらしいことを伝えることができた。  リビングダイニングに居るのだろう、夕飯の支度をする妻と子供たちの様子がダイレクトに伝わってくる。宮下が手で受話器を囲って周囲の雑音が入らないようにしたのがわかった。だが、和やかな雰囲気は完全に消えることはない。 「でかした、でかした。で、どんな文章になった?」  手で囲った上、もともと声が大きいせいもあり、宮下の声は耳に響いた。 「文章ではなく、ひとつの単語だ」 「もったいつけてないでさっさと教えろよ」 「ミューテイション」 「ミューテイション……、突然変異か」  宮下は、さらに何度も「ミューテイション、ミューテイション」とつぶやき、語感を確かめているふうだ。 「どういう意味だと思う?」  安藤が聞いた。 「わからない。おまえ、何か心当たりは?」 「なんのことやら、さっぱり」 「なあ、今からこっちに来ないか」  宮下のほうから誘ってきた。宮下は、鶴見区北寺尾にある瀟洒《しようしや》なマンションに住んでいる。一旦品川駅に出て京浜急行に乗り替えなければならないが、一時間足らずで行ける距離だった。 「別に構わないが……」 「駅に着いたら電話をくれないか。駅前にいい店があるから一杯やりながら話を聞こう」  幼稚園に行っている娘が父の外出を察したらしく、 「あー、パパ行っちゃダメ」  と喚《わめ》き立てながら宮下の腰に飛びつき始めた。安藤の手前もあり、宮下は受話器にきつく手を当てて娘を叱《しか》りつけ、電話機を持ったまま娘から逃げ、あちこちうろうろしているようだ。安藤のほうから誘ったのではないにしろ、彼は何か自分が悪いことをしているような気になってきた。と同時に、たとえようのない喪失感と妬《ねた》ましさが湧《わ》き上がる。 「日を改めようか」  安藤が提案しても宮下はにべもない。 「だめだ、ぜひ詳しく話を聞きたい。すまんが、駅に着いたら電話をくれ。すぐに飛んでいくから」  宮下は安藤の返事も待たずに受話器を置いた。宮下家の和やかな雰囲気がいつまでも耳に残り、やり切れぬ思いで溜め息をつきながら、安藤は図書館を出て地下鉄のホームへと向かった。  安藤が京浜急行に乗るのは、八日前に高野舞のマンションを訪れて以来のことだった。北品川の駅を過ぎたあたりから線路は高架になり、両側の家並みや商店街のネオンが眼下に見下ろせた。十一月下旬の六時ともなればもうあたりは真っ暗に近く、東京湾のほうに目を向けると、運河を挟んだ八潮団地の碁盤の目状の窓々から明かりがまばらに漏れているのが見えた。休日の夕暮れというのに、消えている明かりのほうが多い。暗号解読の癖が抜け切らないのだろう、安藤は、窓明かりが作る明暗の模様に文字をあてはめようとした。無数に林立する高層アパート群のひとつが、カタカナのコの字に似た光の模様を浮かび上がらせていたが、だからといって何の意味もない。  ……ミューテイション、ミューテイション。  安藤は遠くの景色を見ながら、同じ言葉を口ずさんでいる。唱えていれば、竜司の真意が伝わるかもしれないと期待して……。  遠くで船の汽笛が鳴った。電車はホームに滑り込み、急行の通過待ちを告げてそのまま停まってしまった。最後尾の車両に乗っていた安藤は、ドアから顔を出して駅名を読み、そこが高野舞のマンションのある駅であることを確認すると、八日前の記憶を頼りに彼女のアパートを商店街に捜してみる。舞の部屋から外を覗《のぞ》いたとき、京浜急行の駅がちょうど目の高さに迫り、ホームの人影まで見えたのを覚えている。ということは逆に、ホームからでも舞のマンションが見えるはずだった。  車両の内部からではよく見えず、安藤はホームに降りて端に寄り、柵越しに顔を出した。線路と直角に交わる格好で、商店街が東に伸びている。その数十メートルほど先のところに、見覚えのある七階建てのワンルームマンションがあった。  突如、品川方面から急行電車が近づいてくる音が聞こえた。駅を通過すれば、安藤の乗っていた各駅停車のドアは自動的に閉まり、川崎方面に向けて出発する。安藤は急いで、三階の窓を捜した。舞の部屋は確か303号室だった。右から三番目の部屋だ。急行電車が通過し、発車のベルが鳴っている。安藤は腕時計を見た。まだ六時を過ぎたばかり、宮下は家族と一緒に夕食をとっている頃だ。あまり早く着いて夕げの団らんを邪魔するのも気が引ける。三十分ばかり早過ぎるのだ。安藤は電車を一本遅らせることにした。各駅停車は安藤をホームに残して走り去った。  ほぼ駅のホームと同じ高さの三階の窓を、右から順に見渡していった。だが、点《とも》っている明かりはひとつもない。  ……やはり舞はいないのか。  もしやという期待はあっさりと裏切られ、視線を元に戻しかけたとき、右から三番目の部屋から薄青色の光の帯が放出されているのが目に止まった。錯覚ではないかと目を細めてみたが、ほんのかすかな青白い光の帯は、まるで旗のように揺らめいていた。注意しなければ見過ごしてしまいそうな淡い光で、時々すうっと消えては、また現れたりする。安藤はさらに身を乗り出し、光の正体を確かめようとしたが、遠すぎてよくわからない。  安藤は、再び舞のマンションに行ってみたくなった。ほんの二十分程度の寄り道は、手頃な時間調整になる。彼は迷うことなく改札を抜けて商店街の道へと出た。  すぐ真下から三階の窓を見上げてようやく、安藤は光の正体を掴《つか》むことができた。開け放たれた窓からレースのカーテンが外に向かって舞い上がり、その純白の生地に、真向かいにあるレンタカー会社のネオンサインが反射しているのだ。真っ白な布地に原色の光を当てると蛍光塗料のように色を浮かび上がらせることがある。レースのカーテンは青いネオンを受けて薄青色にはためき、その様が、駅のホームにまで小さく届いていたのだ。だが、安藤には腑《ふ》に落ちないことが多過ぎる。八日前、舞の部屋を訪れたおり、開いていたサッシ窓を閉め、中途半端に引かれていたレースのカーテンを端に寄せたのを覚えている。断じて開けたままではなかった。それ以上に妙なのは、風のない初冬の夕方に、バルコニーの手摺《てす》りを越え、ほとんど水平近くまでカーテンを舞い上がらせる風が、一体どこから湧き起こっているのかということだ。風の音はどこからも聞こえない。商店街の街路樹を見ても風の気配はまるでなかった。そよとも揺るがぬ梢の上で、勢いよく吹き出し、はためいているカーテンは、いかにもアンバランスで不気味な印象を与える。街をゆく人々はだれ一人見上げる者もなく、この不思議な光景に気付かぬようだ。  考えられる唯一の原因は機械的な力のみだろう。部屋の内部で強力な扇風機を回し、風圧を人工的に作り上げるしか、方法はありそうもない。だが、一体何のために……、好奇心がかき立てられる。  安藤はマンションのロビーに回った。とにかくもう一度、舞の部屋の前に立ってみる他なかった。  休日は管理人も休みらしく、管理人室のカウンターにはカーテンが引かれていた。マンション全体がひっそりとして、人のいる気配はどこにもない。  エレベーターを三階で降り、303号室に近づくにつれ、安藤の歩幅は小さく、動きも鈍くなった。本能の一部は、引き返すことを命じていた。だが、好奇心はどうすることもできない。外廊下のドアは開いたままで、その先には螺旋《らせん》状の非常階段がある。いざというときはエレベーターを使わないで、螺旋階段を駆け降りたほうがいいかもしれない……、恐怖をかき立てる対象がはっきりしないまま、安藤は漠然と避難経路を頭に入れていた。  303号室のドアには、『TAKANO』と書かれた赤いシールがチャイムの下に貼《は》られてあった。以前と同じだった。安藤はチャイムを押そうとしてためらい、廊下にだれもいないのを確かめてから、ドアに耳を当てた。扇風機を回すモーター音はおろか、何の物音も聞こえない。本当に、今この瞬間も、レースのカーテンは外に向かって舞い上がっているのだろうか。耳を当てている室内の様子からは、とてもそんなふうには思えない。 「高野舞さん」  チャイムを押す代わりに、安藤は部屋の主人の名を小さく呼び、ドアをノックした。返答はない。  舞は確かに例のビデオテープを見た……、安藤はその事実を確信している。奇妙なのは、ビデオテープの映像が消去されていることだ。しかも、安藤が訪れる前々日に消したと思われる。舞が失踪して五日目。一体、だれが、何の目的で、舞の部屋で、映像を消したのだ?  突如、安藤はこの部屋の内部の、内臓の内側に似た雰囲気を、膚に甦らせた。バスタブにたまった少量の湯、水の滴る音、アキレス腱《けん》のあたりを撫《な》でられた感触。  安藤はドアの前を一歩二歩と離れた。とにかく、この世に誕生した悪魔のビデオテープは、四本とも全て破棄されたのだ。事件は終結した。近いうちに高野舞の遺体は発見されるだろう。今ここであがいたところで、事件がどう進展するものでもない。安藤は自分にそう言い聞かせ、エレベーターのほうへと歩き始めた。理屈のつかない現象を放り出してまで、安藤はこの場を離れたかった。なぜいつもこうなるのだろう、このマンションに来てしばらくすると、むしょうに逃げ出したくなる。  エレベーターを呼ぶためにボタンを押し、安藤はミューテイション、ミューテイションとつぶやいた。なんでもいい、他のことを考えたかった。エレベーターはなかなか上ってこない。  右側の廊下中ほどからガチャリと鍵《かぎ》の回る音が聞こえた。安藤は身体を硬直させ、大きく振り返ることなく、わずかに顎《あご》を斜めに向けて音のする方に視線を飛ばした。303号室のドアが内側からゆっくりと開いていくのが見えた。チャイムの下に貼られた赤いシールから、303号室のドアであることは間違いない。安藤は、無意識のうちに、何度も続けてエレベーターのボタンを押していた。もどかしいほどにゆっくりと、エレベーターは一階でUターンしている。  ドアの内側から人影が現れるのを見て、安藤ははっと身構えた。夏物のグリーンのワンピースに身を包んだ女性は、ハンドバッグからキィを取り出し、安藤に横顔を向けてロックしようとしている。その横顔を、安藤はそっと観察した。サングラスをかけているが、明らかに舞ではなく、別のだれかだ。恐れる理由などまったくなかった。しかし、理性よりも先に、安藤の肉体が反応していた。  エレベーターのドアが開くや安藤は中に滑り込み、『閉』のボタンを押そうとして間違って『開』のほうを押してしまった。ワンテンポ遅れてドアが閉まりそうになった瞬間、ドアとドアの隙間《すきま》に白い手がニュッと差し込まれてきた。ドアの隙間に異物を感じ取ったエレベーターは、改めてドアを大きく開け放った。正面には女が立っていた。サングラスのせいで目の表情まではわからない。二十五歳前後と思われる整った顔立ちの女性が、ドアの縁に手をかけ、クルリと振り返り、落ち着いた動作で『閉』ボタンを押し、さらに一階のボタンを押した。安藤はじりじりと小刻みにあとじさりし、背中と両肘をエレベーターの壁いっぱいに押し当てて爪先立《つまさきだ》ちになる。その姿勢のまま、303号室から出てきた女の背に、無言で同じ問いを投げ続けた。  ……だれなんだ、あんたは?  香水とは異なる奇妙な匂いが鼻をつき、安藤は顔をしかめ、息を止めてしまった。何の匂いだろう。鉄分を含む血の匂いに似ている。女の髪は背中の真ん中まで伸び、壁に当てられた手は透き通るように白かった。手をよく見ると、人差指の爪の先が割れている。季節はずれのノースリーブは見るだけで寒々しく、ストッキングも履かずパンプスをひっかけただけの足元には、紫色に変色した痣《あざ》がある。安藤はぞっとした。なぜかわからない。堪《こら》えても堪えても、身体の奥のほうから震えてくるのだ。  女と二人っきりの狭い箱の中、時間はむやみに長く感じられる。一階に到着してドアが開くまでの間、安藤は息を止め続けていた。女はまっすぐにマンションロビーを通り抜け、そのまま夜の商店街へと消えていった。  身長は一メートル六十センチ弱で、均整のとれた身体だった。膝上十センチのタイトスカートは魅力的に尻の形を際立たせ、足の動きにはしなやかさがあった。ストッキングをはいてないせいか、膝の裏の皮膚が特に白く、ふくらはぎの痣が鮮やかに浮き上がっている。街をゆく二人にひとりがコートを羽織るこの季節、女はノースリーブのワンピースを来て、肌寒い夜の闇《やみ》へと消えていったのだ。  安藤はエレベーターから出てもしばらくその場にたたずみ、女の消えた闇に目を凝らしていた。 6  指定された銀行の前で、安藤は宮下の来るのを待った。休日の夜、シャッターの下りた銀行の周りだけが妙に整然としている。こぢんまりとした闇の向こう、宮下が来るであろう方向に目を向けていても、303号室から現れた女の後ろ姿がまぶたにちらつき、拭《ぬぐ》っても拭っても消すことはできなかった。  彼女の姿は網膜に焼き付いて離れない。舞のマンションから夢遊病者のような足取りで駅のホームに戻り、電車に揺られて鶴見駅に来るまでの間、安藤の脳裏から女の姿は片時も去らなかった。  ……あの女はだれなんだ。  すぐに思いつくもっともらしい答えはといえば、舞の姉妹が、舞の不在を心配して部屋の様子を見にきたということぐらいだ。舞の母親には、娘の部屋の様子を電話で簡単に伝えておいた。舞に姉妹がいて、彼女もまた東京に出ているとしたら、舞の部屋を訪れていたとして何ら不思議はない。  だが、女の身体から発散される得体の知れない雰囲気は、そういった安易な答えを否定する。エレベーターに乗り合わせ、安藤は心底ぞっとしたのだ。この世のものとも思われず、かといって幽霊の類《たぐい》でも有り得ない。あの女は確かに肉として実在する。それは確かだ。しかし、安藤にとっては、まだしも幽霊であったほうが納得しやすいし、受け入れることができる。  雑居ビルの陰から豆粒ほどの光が現れ、一直線に安藤に向かって近づいてきた。 「おーい、安藤」  呼ばれて目を凝らすと、妻の自転車を借りてきたのか、買物カゴのついた婦人用の自転車にまたがり、猛スピードで飛ばしてくる宮下が見えた。  宮下は、ブレーキを鳴らして自転車を止めた。サドルに跨《またが》ったままはあはあと息を弾ませ、喋《しやべ》るのもつらそうにハンドルに両肘を載せ、首を上下に揺らせている。ちょっと身体を動かしただけで息を切らすような人間が、全力で自転車を飛ばしてきたのだ。 「ずいぶん早いな」  最低十分は待たされると踏んでいた安藤は、宮下の到着の速さに驚かされた。宮下はいつも約束の時間より早く来たためしがない。  自転車を駅前の歩道に置き、宮下は安藤の背中を押して赤ちょうちんが軒を連ねる小路へと案内していった。幾分呼吸も落ち着き、歩きながら宮下は切り出した。 「ミューテイション……、突然変異の意味がわかった、ような気がする」  だから宮下は無理をして自転車を飛ばしてきたのだ。早く、その内容を安藤に知らせるために。 「なに?」  安藤は短く尋ねた。 「まあ、とにかくビールでも飲もう」 『牛舌』と書かれた居酒屋の暖簾《のれん》をくぐるとすぐ、宮下は、安藤の好みも聞かずに生ビールを二つと牛舌を塩で注文した。店の主人とは顔|馴染《なじ》みらしく、宮下は目だけで軽く挨拶《あいさつ》を交わし、奥のカウンターに座った。そこは店で一番静かな席であった。  宮下はまず、竜司のウィルスに填《は》め込まれた塩基配列の暗号をどうやって解読したのか、その方法を安藤に尋ねた。ブリーフケースからプリントを出し、解読までの経緯を安藤が手短に説明すると、宮下はしきりに「うんうん」とうなずき、半ばまで聞かぬうちに方法の正しさを確信するに至った。 「ま、ミューテイションで、間違いなさそうだ。この方法なら答えは常にひとつに決定されるもんな」  宮下は早口でそう言って、安藤の肩を軽く叩いた。「ところでよぉ、すごい類似が見られるんだが、おまえは気付かなかったか?」 「類似?」  宮下は、ポケットからくしゃくしゃに折りたたんだメモ用紙を取り出して広げた。メモにはなにやらイラストが描き込まれている。思いついたアイデアをよりはっきりさせるために描いた、ひどく雑なイラストだった。 「ちょっと、これを見てくれないか」  宮下は、メモ用紙を渡しながら言った。受け取って、安藤はメモ用紙をカウンターの上に広げた。  見てすぐにわかった。イラストは、細胞内のDNA二重螺旋がどのようにして自己複製していくかを示すものだ。二重螺旋は相補的な関係にあり、片方の構造が決まるともう一方の鎖の構造が自動的に決まってしまう。つまり細胞分裂のたび、二本の鎖は二つに分かれ、忠実に、第一世代、第二世代へとコピーされていくことになる。遺伝の基本とは、遺伝子がコピーされて親から子に伝わるものと考えればいい。  もちろん、安藤にとってはとっくに理解している事柄だった。 「これが何か?」  安藤は宮下のほうに顔を向け、先を促した。 「どういったメカニズムで種の進化が起こるのか、ちょっと思い浮かべてみないか?」  進化のメカニズムに関しては不明な点がまだ多い。例えば、ネオ・ダーウィニズムと今西錦司の進化論では、基本概念がまるで異なり、どちらが正しいという結論にはまだ到達していない。それ以外にも、進化論に関する仮説は百花|繚乱《りようらん》のごとく、多数の生物学者から哲学者までも巻き込んでの解釈合戦が繰り広げられている。しかし、決め手は欠くにしろ、分子生物学の成果から、進化の要因が突然変異と遺伝子組み換えにあるらしいと、最近ようやく明らかになりつつあった。 「突然変異がその始まりだろうな」  安藤は自信を持って答えた。暗号の答えがミューテイションであることからして、話の方向は容易に察せられる。 「そうだ、突然変異が進化を引き起こす引き金になる。では一体、突然変異はいかにして生じる?」  宮下は生ビールをぐいとあおると、胸ポケットからボールペンを取り出した。  ……突然変異が起こる理由?  安藤が答えるより先、宮下は先ほどのイラストになにやらボールペンで書き込んでいった。安藤は、ボールペンを握る手の上から、イラストを覗《のぞ》き込む。 「偶然による遺伝子の欠損、組み換え等、なんらかのエラーが生じ、そのエラーがそのままコピーされることによって、突然変異が起こる。いいか、これが現在考えられている突然変異のメカニズムだ」  イラストをボールペンで指しながら、宮下は念を押した。安藤には説明するまでもないことだった。偶然による遺伝子の事故は、X線や紫外線を照射することにより、人工的に起こさせることができる。だが、ほとんどの場合、それは偶然に生じる。正しくコピーされて子孫に伝えられるべきDNAの塩基配列が、偶然のコピーミスによって突然変異を起こし、さらに複製が重ねられることにより、やがて新たな種へと発展する。それがすなわち進化へのワンステップと見做《みな》されているのだ。 「類似だよ、類似」  宮下が耳許でつぶやいている。安藤はようやく思い当たった。宮下が言っていることの意味。何と何が似ているというのか。言われてみれば、確かにそっくりだ。 「ビデオテープのダビング、か」  そこまで言うのがやっとだった。 「どうだ、同じだと思わんか?」  宮下は、牛舌を二枚まとめて口に入れ、ビールで流し込んだ。  安藤は、類似点を整理しようと、カウンターに広げたメモをひっくり返し、宮下のボールペンを借りて図を書こうとした。わかりきったことであっても、思考を整理するのに図案は役立つ。  八月二十六日、南箱根パシフィックランド、ビラ・ログキャビンで一本のビデオテープが誕生する。ところが、二十九日の夜、同じ棟に投宿した四人の男女のイタズラにより、「この映像を見た者は、一週間以内にダビングして他の者に見せなければならない」というメッセージを含むラストの一部分が消去され、テレビCMに置き換わってしまう。ビデオテープにとってみれば、予期しないある偶然の事故により、遺伝子ともいえる映像にエラーが生じてしまったのだ。そして、エラーを生じたまま、浅川の手によってビデオテープはダビングされる。当然、エラーも忠実にコピーされてゆく。この過程は、DNAが自己複製するのとまったく同じだ。しかも、ビデオテープのラストに込められたメッセージは、テープ自身の複製に関して非常に重要な役割を担っている。DNAに喩《たと》えれば、調節遺伝子ともいえる個所だ。DNAの場合、調節遺伝子が打撃を受けると突然変異を起こしやすくなる。同様に、ラスト部分に打撃を受け、ビデオテープは突然変異を起こした? 宮下は、そう言いたいのだろうか。  安藤はそこでペンを止めた。 「ちょっと待ってくれ、ビデオテープは生命でもなんでもない」  あらかじめ用意したかのように、宮下の問いは間髪を入れないものだった。 「生命を定義しろと言われたら、おまえは何と答える?」  生命の定義は、自己複製能力と外殻を持つこと、大きく言ってその二つだ。ひとつの細胞を例にとれば、自己複製を司《つかさど》るのはDNAであり、外殻にあたるのは蛋白《たんぱく》質である。ところが、ビデオテープは……、確かにプラスチック製の殻を持っている。大概の場合、殻は長方形で黒く堅い。しかし、自己複製能力となると……、持っているとは思えない。 「自分自身の力で複製する力は、ビデオにはない」 「だから……」  宮下はじれったそうに言う。 「だからよぉ、ウィルスにそっくりだと言ってるんだ」  安藤は悲鳴を上げそうになった。ウィルスとは実に奇妙な生物で、自ら増殖する力はなく、その点では生物と非生物の中間にいる存在である。しかし、ウィルスは、他の生物の細胞の中に潜り込み、その細胞を利用することによって増殖していく。増殖能力を持たないビデオテープが、「一週間以内にダビングしないと命を奪う」と脅して人間を呪縛《じゆばく》し、人間の手を借りて増殖していく過程とそっくり同じではないか。 「しかし……」  安藤は否定したかった。なんでもいい。今ここで否定しておかねば、とんでもない災厄が降り掛かってきそうな気がするのだ。 「しかし、ビデオテープは全て破棄されてしまった」  だから、もう何の危険もない。安藤は自分に言い聞かせた。ビデオテープがウィルスと同じ生命力を持っていたとしても、もう滅んだのだ。この世に存在した四本のビデオテープは、すべて消滅した。 「確かに例のビデオテープは滅んだ。でも、そいつは古い種だ」  ビールを飲むたびに、宮下の額に浮かぶ汗の粒は大きくなっていく。 「古い?」 「ああ、突然変異を起こしたビデオテープは、ダビングされるうちに進化し、新種として生まれ変わり、今もどこかに潜んでいる。以前とはまるで異なった形態を身につけてな。オレにはそう思えてならない」  安藤は口を半開きにしたまま、何も答えることができなかった。ジョッキはとっくに空になっている。もっとアルコール度の高い酒を飲みたかった。焼酎《しようちゆう》のオンザロックを注文しようとしたが、途中で声がかすれ、店の主人にまで届かない。代わって宮下が手を上げ「焼酎」と短く叫び、人差指と中指を立てた。焼酎が二つカウンターに置かれるとすぐ手を伸ばし、安藤は一口で三分の一ほどを流し込んだ。その様を横目で見ながら、宮下が言った。 「ビデオテープが突然変異を起こし、ダビングされているうちに他の媒体に進化したとすれば、古い種が滅んだとしてもなんら困ることはないだろ。いいか、竜司ほどの奴が、DNAの塩基配列を使って冥界《めいかい》から語りかけてきたんだぜ。他の解釈があるとは思えない。それとも、おまえ、『ミューテイション』に関して、もっと他の解釈ができるとでもいうのかい」  もちろんできない。できるはずもない。焼酎のロックを何度口に運んでも、酔いはまだまだ遠く、頭は妙に冴《さ》え渡っていく。  ……あり得るかもしれない。  安藤もまた宮下の考えに傾き始めていた。『ミューテイション』というキィワードを使って、竜司は警告を与えてきたのだ。 「滅んだと思って安心してんじゃねえぞ。突然変異によって誕生した新種が、おまえたちの周りに現れるんだ」  ニヤニヤしながらそう言う竜司の顔が、目に浮かぶようだった。  たとえば、エイズウィルスは、数百年まえに、それまで存在していたある種のウィルスが突然変異を起こして誕生したとされている。以前あったウィルスは人間には感染せず、無害だったかもしれない。だが、突然変異により、エイズウィルスは人間の免疫系統をずたずたに破壊する恐るべき力を身につけて再生した。同じことが、ビデオテープに生じたとしたら……。安藤は逆のパターンを祈る他なかった。有害な存在が無害なものに変化すること。だが、事実は違う。無害な媒体になるどころか、突然変異を生じたビデオテープは、映像を見た人間を、ダビングするしないにかかわらず全て殺してしまうよう変化した。よりタチが悪くなったではないか。例外は浅川だけ。舞の失踪《しつそう》をどう判断すべきなのか、今の段階ではまだ何とも言えず、安藤は例外を浅川だけと判断した。 「浅川はなぜ生きているんだ?」  昨日と同じ質問を、安藤は宮下にぶつけてみる。 「そいつが重要なポイントさ。ビデオテープが、何に化けやがったか、知る手がかりは他にない」 「いや、もうひとりいる」  安藤は、高野舞という女性のことをかいつまんで話した。浅川がダビングしたビデオテープは、竜司の手を介して高野舞という女性に渡り、ビデオを見た痕跡《こんせき》を部屋に残したまま、彼女がもう三週間近く部屋を留守にしていること。 「つまり、ふたりいるってことか、ビデオテープを見たにもかかわらず、死んでない人間が……」 「意識不明の重体とはいえ、浅川はまだ生きている。しかし、舞さんに関しては、生死不明だ」 「その舞さんとやらには、生きていてもらいたいもんだ」 「なぜ」 「決まってるじゃないか、ヒントはひとつよりふたつあったほうがいい」  確かにそうだ。舞が今も生きているとすれば、彼女と浅川の共通点を捜せば、答えが出る可能性がある。しかしなによりも、安藤は純粋に舞の無事を祈っていた。 第四章 進 化 1  十一月二十六日、月曜日、午後。  川で溺死《できし》した少年の解剖を終え、安藤は、少年の父親から詳しい事情を聞きながら、解剖報告書を仕上げようとしていた。  少年の生年月日と名前を確認したり、事故当日の行動を語ってもらったりしたが、父親の喋《しやべ》りかたはどこか要領を得ず、仕事ははかどらなかった。少年の父親は、会話が途切れると目を窓の外にやり、あくびを噛《か》み殺すような顔をすることがあった。身体から力が抜け切り、眠そうにも見える。安藤はさっさと仕事を切り上げ、弱り切った父親を解放してあげたかった。  監察医務室がにわかに騒がしくなってきた。もう一体、身元不明の女性死体が運び込まれる手筈《てはず》になっていて、遺体の処理と解剖の準備が同時進行で行われているからだ。身元不明の女性の解剖は、安藤の先輩の中山医師の担当だった。女性の死体がビルの屋上の排気溝で発見されたと、ついさっき警察から連絡を受けたばかりだ。続けて二体の解剖が行われることになり、助手たちや警察官などの出入りがにわかに多くなってきた。 「女性の死体が到着しました」  解剖助手の声が医務室に響くと、安藤はびくっと身体を震わせ、声のしたほうを見てしまった。ドアを半分ほど開け、中山に顔を向けて、解剖助手の池田が立っている。安藤は、なぜか自分が呼ばれたかのような印象を受けた。 「わかりました。準備を進めておいてください」  と答えてから、中山はゆっくりと立ち上がりかけた。中山は、監察医務院では安藤の二年先輩で、J医大の法医学教室に籍を置いている。  助手が姿を消すと、代わりに警察官がひとり現れ、中山に近づいていった。二言三言|挨拶《あいさつ》を交わしてから、警察官は手近の椅子《いす》を引いて中山の隣に腰を下ろす。  安藤は、顔を元に戻し、自分の仕事に戻っていった。だが、中山と警察官の会話が背後から聞こえ、気になってならない。言葉は、断片的に安藤の耳に届いた。警察官は、これから遺体を解剖する中山に、遺体を発見したときの概況説明をしているらしい。  安藤は書類に走らせていたペンを止め、耳をそばだてた。「身元不明」「若い女性」という言葉がしきりに繰り返されている。 「しかし、なぜ、ビルの屋上なんかに?」  尋ねたのは中山だった。 「さあ、どういう理由で上ったかはわかりません。あるいは、自殺願望があったのかどうかも」  警察官が答える。 「遺書の類《たぐい》は?」 「今のところ、発見されていません」 「ビルの屋上の排気溝ですか。助けを叫んでも聞こえないのかなあ」 「住宅街じゃないですからねえ」 「場所はどちらです?」 「品川区、東大井の海岸通りに沿った十四階建ての古いビルです」  安藤は、はっとして顔を上げた。脳裏に浮かぶのは京浜急行沿線の風景。住宅街を抜けた先の海岸通りには、倉庫やビルが閑散と建ち並んでいる。舞の住むマンションから目と鼻の先だった。身元不明の若い女性、海岸通りのビルの屋上……、同じ言葉を胸の中で何度もリピートする。 「どうもご苦労様でした。不明な点がありましたらまたお電話いたします」  少年の父親に断り、安藤は自分の仕事を切り上げた。背後から漏れ聞こえる中山と警察官の会話が気になって、報告書の作成どころではなかった。まだ少し聞き足りない気もしたが、後でどうにでも補える。  ファイルに書類を挟むと、安藤は席を立った。同時に、中山と警察官も立ち上がる。安藤はふたりに近づき、中山の肩をポンと叩《たた》いた。共に見知った顔の警察官と軽く会釈を交わしてから、 「これから解剖する女性、身元不明なんですって?」  と尋ね、安藤は、監察医務室から解剖室までの廊下を一緒に歩き始めた。 「そうなんだ。身元を明らかにするものを何も身につけてなくて」  安藤の問いを引き受けたのは、警察官のほうだった。 「何歳ぐらいの女性ですか」 「若いですね、二十歳前後ってところじゃないかな。生きていればかなりの美人だったでしょうね」  二十歳前後……、高野舞は二十二歳だったが、十代の面影も充分に残している。安藤は唾液《だえき》が喉《のど》に絡まるような感覚を覚えた。 「他になにか特徴はありませんか?」  遺体を見さえすれば、すぐにわかることだった。だが、その前に心の準備をする必要がある。できれば彼女でないという確証を得て、遺体を確認することなくこの場から去りたい。 「どうかしたの、安藤先生」  中山がニヤッと笑って安藤の顔をのぞきこむ。 「若い美人と聞いて、興味津々ですか?」 「いや、ちょっと気になるものですから」  安藤は冗談に乗らず真顔で答える。安藤の真剣な表情を見て、中山はニヤついた笑いをすぐに引っ込めた。 「あ、そういえば、ちょっと妙な点がありましてね。これはぜひ中山先生の耳に入れておかないと」 「なんでしょうか」 「実は、下着をつけてなかったのですよ」 「下着……、上下ともですか?」 「いえ、下だけです」 「発見されたときに着衣の乱れは?」  安藤と中山の頭には、同時に同じ考えが浮かんだ。若い女性がビルの屋上で強姦《ごうかん》され、排気溝に投げ捨てられた可能性。 「着衣の乱れはなく、外見上、強姦の痕跡《こんせき》はないように思われます」 「服装は?」 「厚手のジャンパースカートにハイソックス、上はシャツにトレーナー。ごく一般的な、どちらかといえばまあ地味めの服装といっていいでしょうね」  しかし、女性はパンティだけを身につけていなかった。十一月の、これから寒くなろうという季節に、ノーパンでジャンパースカート。それは彼女にとって普通のことなのだろうか。 「どうもよくわからないんですよ、ビルの屋上の排気溝というのが」  安藤には、死体の発見された場所のイメージがどうもうまく描けない。 「深さ三メートル、幅一メートルばかりの溝が、屋上のマシンルームの横にありまして、普段は金網でカバーされてるらしいのですが、どうも一部はずれていたようで」 「で、その隙間《すきま》から転落したというわけですか」 「おそらく」 「過って転落するような場所なの?」 「いや、よほどのことがなければ近づかないと思いますよ。第一、エレベーターホールから屋上への出口には鍵《かぎ》がかかっていますから」 「じゃ、どうやって?」 「非常用|螺旋《らせん》階段の踊り場から、ビルの壁に埋め込まれた垂直の梯子《はしご》を伝ったのでしょう。他に方法はありません」  まだよくわからない。その女性は、そんなところで何をしようとしていたのか……。 「ところで、下着の件ですが、彼女が排気溝で故意に下着を脱いだとは考えられないのですか?」  溝は三メートルの深さだという。転落すれば、当然|怪我《けが》を負っただろう。下着を脱ぎ、負傷した個所に包帯代わりに当てた可能性もなくはない。あるいは溝からの脱出を試み、小道具として利用したか……。 「捜しました。溝の中も屋上も、隅々まで。念のため、ビルの回りまで」 「ビルの回り?」  中山が口を挟んだ。 「鉄片かなにかを包み、放り投げたとも考えられますから。溝の底で助けを呼んでもまず聞こえない。となれば、自分の居場所を知らせるためには、外に向かって何か目立つものを放り投げるしかないですからね。でも、結局それも不可能だとわかりまして」 「なぜ、不可能なんですか」 「溝の底に立って投げたとしても、屋上の柵を越えて外に放ることはできそうにないのです」  おそらく角度の問題だろうと、安藤は敢えて理由を聞こうとはしなかった。 「つまり、その女性は家を出るとき既に、パンティをはいてなかった……、そう考えるのがもっとも自然なのですね」 「今のところ他に解釈のしようがない」  解剖室の前で三人は立ち止まった。 「安藤先生も立ち会うの?」  中山が尋ねた。 「ええ、ちょっと」  他になんと答えればいいのか。遺体が高野舞でなければ、胸を撫《な》でおろしてこの場を去るだろうし、もし高野舞だったとしても、中山に任せてやはりこの場を去るだろう。どちらにせよ、安藤ができるのは遺体の確認だけだ。  いつも通りの、蛇口から迸《ほとばし》る水音がドアの向こうから響いてくる。中の様子にじっと耳を澄ますうち、安藤は、この場から逃げ出したい思いに駆られた。胃がせりあがり、手足の先がわずかに震えてくる。そうでないように祈る他ない。高野舞ではありませんようにと。  安藤の覚悟も定まらぬうち、中山はドアを開け、先頭に立って解剖室に入っていった。次に従ったのは警察官だった。安藤は、部屋に入ることなく、開いたドアの隙間から解剖台の上に横たわる白い裸体にチラッと目をやった。 2  いつかこんな日がこないとも限らない……、ある種の予感を抱いていた安藤ではあるが、現実にその若い女性の遺体を間近に見て、ショックのあまり全身が凍りついてしまった。中山と警察官のあとからのろのろと遺体に近づき、まだ認めたくない思いで、白い顔を様々な角度から眺めやる。後頭部のあたりでは髪に泥水が付着し、乾燥して固まっていた。足首が不自然な形に曲がり、そこの部分だけ皮膚の色が変わっている。骨折か捻挫《ねんざ》だろうと思われた。首を絞められた跡もなく、特に外傷は見られない。死後硬直の緩解が充分に終了した、死後九十時間以上を経過した遺体だった。  安藤は生前の、生き生きとした肌の色を知っている。できれば、この身体を抱き、肌を触れ合わせてみたいと、幾度妄想を膨らませたことか。だが、機会は永遠に失われてしまった。艶《つや》やかな色をなくし、痩《や》せ細った遺体……、恋心を抱きかけた美しい女性が、かくも変わり果てた無残な姿をさらしている。その現実に我慢ならず、激しい怒りが湧《わ》き起こった。 「クソッ、なんてこった」  安藤の口から嘆息の声が漏れると、中山と警察官は同時に振り向いた。 「お知り合いの方ですか」  驚きを隠し切れない表情で警察官が聞く。安藤は軽く目でうなずいた。 「それはまた……」  中山は、この女性と安藤がどれほど親密であったか知らず、あやふやに言葉を濁す。 「あの、この人の連絡先、ご存じですか?」  ゆっくりと言葉を切って、警察官は尋ねてきた。遠慮がちな言葉の背後に、期待が見え隠れする。安藤が身元を知っているとなれば、この後に続くはずの、気の遠くなるような身元割り出しの作業から解放されるからだ。  安藤は無言で手帳を取り出し、ページをめくった。高野舞の実家の電話番号は、確か手帳に書き留めてあるはずだった。番号を捜し当て、メモをして渡した。警察官はメモの名前と電話番号を見ながら、再度確認する。 「本当に間違いございませんね」  やけに丁寧な言い方だった。 「間違いない。この人は、高野舞さんです」  安藤が断言すると、警察官は解剖室から飛び出していった。実家に連絡を取り、娘の死を知らせるためだ。  電話のベルが鳴り、受話器を上げると、警視庁のだれそれと名乗る相手から、もったいぶった重苦しい口調で、娘の死を知らされる……。その瞬間を思い浮かべると、安藤はぞっとした。舞の母親が気の毒でならない。取り乱すでもなく、泣き出すでもなく、自分を取り囲む風景がすっと一歩引き下がるような時間を、舞の母親はこれから味わおうとしている。  これ以上、解剖室にいたくなかった。高野舞の身体に一旦メスが入れば、部屋は今漂う死臭どころではない臭《にお》いに包まれる。さらに内臓の壁を切り裂いて胃や腸の内容物を調べるとなれば、その悪臭はまさに壮絶の一語に尽きる。臭いの記憶は、意外に長く尾を引くものだ。安藤は嗅《か》ぎたくはなかった。どんなに清楚《せいそ》で美しい肉であっても、やがて耐えられない悪臭を放つ……、そして、それが生きる者の運命であると充分わかってはいる。だが、今回だけは青臭い感傷に縛られようとしていた。舞の面影に臭いの記憶がついて回るのは、どうしても避けたかった。 「ぼくはこれで失礼します」  中山の耳許でそう囁《ささや》くと、中山は、 「あれ、立ち会わないの?」  と怪訝《けげん》な顔を向けてきた。 「ちょっと研究室の仕事が残っているから。あとで詳しく聞かせてください」 「ああ、わかった」  安藤は中山の肩に手をのせ、耳許で囁いた。 「心臓の冠動脈に充分注意してください。その部分の組織標本を決して忘れないように」  なぜ安藤が死因に関わることを口にするのか、中山には理解できない。 「この人、狭心症だったの」  安藤はその問いには答えないで、肩にのせた手にぐっと力をこめる。 「たのみます」  理由を聞かれても困ると、安藤の目は訴えかけている。中山はその思いを汲《く》み取り、続けて二度うなずいた。 3  監察医務院のオフィスに戻ると、安藤は、中山の横のデスクから椅子《いす》を引っ張り出し、背もたれを胸に抱く格好で腰かけた。その姿勢のまま、中山が書類を書き終えるのをしばらく待った。 「よほど、気になるとみえるね」  中山は、書きかけの報告書から顔を上げずに言う。 「まあね」 「見るかい、解剖報告書」  中山は安藤の前に書類の束を差し出す。 「いえ、ポイントだけで」  中山は安藤のほうに向き直った。 「単刀直入に言いましょう。死因は、冠動脈の閉塞《へいそく》による心筋|梗塞《こうそく》ではなかった」  安藤は解剖前に、冠動脈の閉塞が原因かもしれないと中山に匂わせていたのだが、死因はそうではないという。これをどう解釈すべきか、安藤はしばし考え込んでしまった。  ……つまり、舞さんは、例のビデオテープを見ていなかったってことなのか。それとも血液の流れを止めるまでに肉腫《にくしゆ》が成長していなかったということなのか。 「冠動脈内部に肉腫はなかったのですか?」  その点を確認する。 「見た限り、ない」 「まったく?」 「いや、はっきりしたことは、組織標本の完成を待たなければなんとも言えないが」  舞の血管には、肉腫らしき影は今のところ発見されていないのだ。 「となると、彼女の死因は?」 「おそらく凍死だろう。かなり衰弱した果ての」 「外傷は?」 「左足首の骨折と、両肘《りようひじ》の裂傷。これはたぶん、転落のときに負ったものだな。傷口にはコンクリートの破片がめりこんでいたから」  足先から転落して骨折し、舞はそのまま起き上がることができなかったのだ。深さ三メートル、幅一メートルの溝の底から、彼女は自力で脱出することができず、雨水のみで喉の渇きを癒《いや》し、それでも何日間かは生き延びたことになる。 「溝の底で、舞さんは何日ぐらい生きていたのかなあ……」  中山への問いかけというより、屋上の溝に一人取り残された者の不安と絶望を思い、安藤は独り言のように呟《つぶや》いた。 「おそらく十日前後だろうな」  胃と腸に内容物はなく、皮下脂肪もすっかりなくなっていたらしい。 「十日か……」  安藤は手帳を開いた。仮に転落後十日で死亡し、死後五日たって発見されたとすると、舞が失踪《しつそう》したのは十一月の十日前後という計算になる。安藤とデートの約束をしたのが十一月九日で、その日一日電話に出なかったことから、彼女の失踪はさらに以前に遡《さかのぼ》ると推定できる。舞のマンションの集合ポストには、八日からの新聞が入ったままになっていた。ということは、八日から九日の間に舞の身に何かが生じ、彼女は部屋を出たことになる。  十一月の八日、九日と安藤は手帳に印をつけた。  ……この三日間に、彼女の身になにかが起こったのだ。  安藤は舞の立場に立って、想像力を働かせてみる。発見されたときの舞は、トレーナーにジャンパースカート姿で、気紛れにふっと家を飛び出したという格好だ。しかも、奇妙なことに彼女は下着をつけてはいなかった。  安藤は、舞の部屋を訪れたときの印象を、生々しく脳裏に甦《よみがえ》らせていた。彼女の部屋を訪れたのは十一月十五日だった。解剖の結果を信じれば、その日既に、舞はビルの屋上に閉じ込められ、助けられるのを待つ身であった。数日間に及ぶ主人の不在は、はっきりと証明されている。にもかかわらず、安藤は、あの部屋に異物の存在を嗅ぎとっていた。だれもいないはずの部屋に、なにかが息づいているその気配を、安藤は確かに肌で感じたのだ。 「ああ、それと」  中山は、ひとつ大事なことを思いついたように、人差指を一本たてた。 「なにか?」 「安藤先生は、生前の彼女と親しかったんでしょ」 「いや、親しいというほどではなかった。会ったのは二回だけです」 「そうか。最後に会ったのはいつ?」 「先月の末だったかな」 「とすると、死亡する二十日ほど前ってことになる」  言わなければならない大事なことを言い淀《よど》んでいる……、中山の態度はそんなふうに見えた。安藤は真剣な眼差しを先輩に注ぎ、さあ、いいから言ってください、と促す。 「彼女、妊娠していたでしょう」  中山は早口でそう言った。安藤は、中山がだれのことを言っているのか、一瞬わからなくなった。 「彼女って?」 「もちろん、高野舞さんだよ」  中山は、安藤の狼狽《ろうばい》ぶりに目を瞠《みは》った。 「知らなかったの?」 「…………」 「臨月の女性の明らかな特徴を、先生は見逃していたの?」 「臨月……」  安藤は返す言葉もなく天井を見上げ、舞の身体の線を正確に思い出そうと努めた。喪服を着ているときも、原色のワンピースを着ているときも、腰のあたりは常にキュッと絞られていたような気がする。全体にスリムな印象を投げかける舞の、ウェストのくびれは特に魅力的なはずだった。安藤は舞の肉体に処女の匂いを嗅ぎ当てていた。にもかかわらず、彼女のお腹は大きかったというのか。  ……しかも臨月?  じっくりと注意して観察したことはない。考えれば考えるほどイメージはぼやけ、記憶は曖昧《あいまい》になってゆく。いや、やはり間違っている。臨月であるはずはない。第一、この目で舞の遺体を眺めているのだ。彼女のお腹はほとんど背中に張りつかんばかりにぺちゃんこだった。 「臨月のわけがない」  安藤は否定した。 「ときどきいるからね、そういう女性。臨月なのにあまりお腹の大きくならない女性が」 「程度の問題じゃない。ぼくだって彼女の遺体をこの目で見ているんですから」 「え?」  中山は安藤の誤解に気づき、「いや、そうじゃなくて」と手を横に振り、三つの事実をゆっくりと羅列していった。 「子宮は大きく膨らみ胎盤が剥《は》がれたことによる傷がついていた。膣《ちつ》内部は茶色っぽい分泌液で満たされていた。膣内部に、小さな肉片が残っていて、それはどうも臍《へそ》の緒と思われる」  ……そんなばかな。  安藤は胸の中でそう叫んだ。だが、中山ほどの法医学者が初歩的なミスを犯すとは考えられない。舞の体内にこの三つの証拠が刻印されていたとしたら、導く先はひとつだけだ。溝に転落する直前に、高野舞は子供を出産していたことになる。  仮に出産が事実だとすれば、舞の足取りはどうなるのか。今月の七日頃、舞は急に産気づき、取るものも取りあえず産婦人科に直行する。そうして出産。五、六日の入院の後、十二日か十三日頃に退院。ひょっとして赤ん坊は死産だったのかもしれない。彼女は悲しみのあまりふらふらとビルの屋上に上り、排気溝に転落した。十日ほど溝の底で生き、今日の朝、遺体で発見される……。  時間的にそう無理な点はない。出産を仮定すれば、失踪の謎《なぞ》も解ける。当然、郷里の母親にも内緒の行動だったのだろう。  しかし、釈然としなかった。舞のお腹が大きくなかったことは、個人差もあり、ここで問題にしないとしても、初対面の印象を忘れることができないからだ。  舞と初めて会ったのは、今いるこのオフィスだった。高山竜司を解剖する直前、遺体の発見者である舞から、現場の状況を詳しく話してもらおうと、担当の刑事に付き添われて、彼女はこの部屋に入ってきた。そのとき、舞は椅子に座ろうとしてよろけ、傍らの机に手をついた。見てすぐにわかる貧血の顔色だった。安藤は、舞の身体の奥に血の匂いを嗅ぎ、生理からくる貧血だろうと直感した。「すみません、ちょっと……」と恥ずかしそうに言う舞の顔つきからも、そのことは明らかだった。一瞬、安藤と舞は目を交わし合い、以心伝心で伝え合った。 (女性の、いつものアレですから、ご心配なく) (わかりました)  監察医務院という場所柄、オーバーに騒ぎ立てられまいとして、舞は目でそう訴えかけてきたのだ。言葉によらぬ意思の伝達が成された体験は、妙に記憶の底に残り、安藤は今でもはっきりと覚えている。竜司を解剖したのは、先月の二十日。とすると不思議なことに、今月子供を産んだ女性が、先月の下旬頃生理だったということになる。もちろん、そんなことは有り得ない。妊娠と同時に、女性の生理は止まるからだ。  ……おれは誤解していたのか。互いに意思を伝え合ったと思い込んだだけで、結局は単なる独りよがり、すれ違いだったのか。  考えれば考えるほど釈然としない。安藤はあのときの直感に強い自信があった。  だが、解剖結果から引き出された事実は、安藤の直感を否定している。  安藤は椅子から立ち上がり、解剖報告書を指差した。 「一応、こいつをコピーさせてもらえますか?」  家に帰って、じっくりと目を通してみたかった。 「どうぞ」  中山は書類の束を改めて差し出した。 「あ、それともうひとつ」  安藤は思い出したように付け加えた。 「血液のサンプル、取ってありますよね」 「ええ、もちろん」 「少し分けてもらえますか」 「少しなら構わんよ」  安藤は、舞の血液中に疑似|天然痘《てんねんとう》ウィルスが発見されるかどうか、すぐに調べなければならないと思いついたのだ。ウィルスが見つかれば、舞が例のビデオテープを見たという証拠になる。舞を襲った悲劇は、ビデオテープを見てしまったことに起因するのか、それともビデオテープとはまったく別の原因によるものなのか、はっきりとさせなければならない。今できることは確実なデータをひとつひとつ増やすことだけだ。ビデオテープとの関連が明らかになれば、『突然変異』の謎に一歩近付くことになりそうだ……。 4  昨日発見された高野舞の死体と相前後して、安藤は浅川和行の死を知らされた。病状の悪化に伴い、品川済生病院からS大医学部付属病院に転院してすぐのことである。安藤は、変化があり次第連絡を受ける手筈になっていたが、まさかこうもあっけなく死んでしまうとは思ってもいなかった。担当医の説明によれば、感染症により、浅川はまるで老衰で死ぬように安らかに息を引き取ったという。事故で失った意識は最後まで戻ることはなかった。  安藤はS大付属病院まで出向き、浅川を病理解剖する際の注意点をいくつか担当医に告げた。肉腫による冠動脈の閉塞があるかどうか、病変部から天然痘に似たウィルスが発見されるかどうか……、これからを予測する上で、その二点が重要なポイントとなる。安藤は担当医に念を押した上で、S大付属病院を後にした。  駅へ向かって歩くうち、今さらながら悔しさがこみ上げてくる。浅川の意識が回復しなかったのが残念でならないのだ。浅川は重要な情報を握ったまま、誰にも知らせることなく逝ってしまった。もし彼の口から情報を聞き出せたとしたら、先の見通しが立ったかもしれない。安藤にとって、未来はあまりに漠然とし過ぎている。予測すらつかない状態だった。  まず第一に、浅川の死が偶然なのか、必然なのかの判断に、安藤は頭を悩ませた。それは舞にも当てはまる。浅川の場合は交通事故が、舞の場合は転落事故が引き金となり、共に衰弱の果て、命を落とした。死に方には共通点があるように思える。そして、彼らふたりの死は、ビデオテープを見たことに起因するのかどうか、どうにも判断がつかないのだ。  歩きながら安藤はふと気付いた。S大付属病院からそう遠くない場所に、舞の死体が発見されたビルがあることを。舞がなぜ古ぼけた雑居ビルの屋上に上ったのか、ずっと気にかかっていた。現場を見れば、その理由がわかるかもしれない。しかも痕跡《こんせき》の消える前に、なるべく早く行ったほうがいいだろう。  安藤は、中原通りに戻ってタクシーを拾うことにした。ここから現場まで十分もあれば行ってしまう。  途中、花屋に寄って小さな花束を買い、T運送会社の倉庫前で、安藤はタクシーを降りた。監察医務院で聞いていたのは運送会社の名前だけで、ビルの正式名称は知らなかった。問題のビルは倉庫のすぐ南隣だという。  歩道に立って、南隣のビルを見上げた。間違いなさそうだ。階数を数えると十四階あり、剥《む》き出しの外階段は倉庫との間の狭い空間を螺旋《らせん》状に昇っている。  安藤は正面玄関から入ろうとして足をとめ、外階段の入口のところにまで戻った。果たして、高野舞は、どちらの方法で屋上まで上ったのか、その点を見極めるためだ。エレベーターで十四階まで上り、一旦外階段に出て、屋上に出る梯子《はしご》を上ったか、あるいは一階から外階段を使ったのか。夜になれば、正面玄関のシャッターは下ろされ、エレベーターに乗るためには守衛のいる通用門を通らなければならなくなる。深夜になれば、守衛はいなくなり、通用門も閉ざされるだろう。従って、上ったのが夜とすれば、外階段を使う他ない。  外階段の、二階踊り場の先に格子状の柵が見え、それより上には行かれそうもなかった。安藤は、とりあえず二階まで上ってみることにした。鉄製の柵にはノブがついている。回そうと試みたが、動かない。外部からの侵入を防ぐため、内側から鍵《かぎ》がかけられているらしい。だが、鉄製の柵は一・八メートルほどで、身の軽い人間なら簡単によじ登れる高さだ。中学高校を陸上部で過ごした高野舞なら、そう苦労もなく越えられたに違いない。  目を横に向けると、ビルの内部へ通じるドアがあった。ノブを回そうとしたが、やはりここのドアも閉ざされている。高野舞はいつこのビルに上ったのか。昼間なら十四階までエレベーターを使っただろうが、夜ならば鉄柵を越えて外階段を上る以外に道はない。  安藤は正面玄関に回ってビルに入り、エレベーターホールに立った。エレベーターは二基あったが、二基とも停止したままだ。雑居ビルらしく、階数ごとに入居している事務所の名前が記されている。ところが、その半分近くが消されていた。転居したまま新しく入居するあてもないのだろう。ビル全体が閑散とし、人の気配もあまりない。  十四階でエレベーターを降り、暗い廊下を歩きながら、屋上に出る階段を捜した。ひと通り歩いたが見当たらない。一旦外階段に出るほかなさそうだ。突き当たりのドアから外に出ると、海からの強い風に吹かれ、思わず安藤はコートの襟を立てた。ビルの最上階に出て初めて、東京湾がすぐ間近に迫っているのを知った。京浜運河の向こう、大井|埠頭《ふとう》の先で、東京湾トンネルが海の下に飲み込まれていた。トンネルの黒いふたつの穴は、この位置からだとなんとも不自然に見える。仰向けに浮いた溺死人の鼻の穴のようだ。  ビルの規模に比べ、十四階のフロアが狭かったのもうなずける。十四階の床面積だけ他の階の半分ほどしかなく、空いたスペースはバルコニーのような格好で四方に張り出し、外階段に出た所は広い踊り場であると同時にバルコニーの一角になっていた。だが、高野舞の遺体が発見されたのはこのさらに上だった。  ドアのすぐ横に、上に上るための梯子が壁に埋め込まれていた。垂直に三メートルほどの高さだ。  安藤はなるべく高野舞の気持ちに立って、梯子を上った。花束を口にくわえ、両手の力で身体を引き上げる。  ……なぜ、彼女は、こんなところに上らなければならなかったのか。  一段ごとに身体を上げてゆく作業のなか、安藤は意識を集中させた。飛び降り自殺のためではない。それはこのビルの構造が証明している。十四階のそのまた上の屋上から身を投げたとしても、身体は二、三メートルしか落下せず、一階下のバルコニー部分に受け止められるだけだ。十四階の外階段の踊り場から飛び降りなければ、身体は地面に到達しない。  そこは屋上といえるような場所ではなかった。防水用の塗料は剥《は》がれかけ、歩くたびにベコベコとへこみ、嫌な感触が足先に走った。回りに手摺《てす》りがないため、四方にバルコニーが張り出しているとわかっていても、端に寄る気にはならない。  テトラポッドに似たコンクリート製の突起物が等間隔に並んでいる。なんのためのものかは不明だが、腰を下ろすにちょうどいい高さだった。端に寄る代わりに、安藤はその突起のひとつに立ち、四方を見渡した。五時少し前、一年で最も早く日の沈むこの季節、ビルや商店街にはそろそろ明かりが灯《とも》り始めている。運河の反対側には、高架を走る京浜急行の赤い車両が見えた。宙に浮いた駅のホームを、急行電車が通過するところだった。舞のマンションを訪れたとき、何度か降り立った駅のホームは、ぼうっとした白い光に包まれている。この時間にしては、人影はまばらだ。  駅を起点にして道を辿《たど》り、舞の住んでいたマンションへと視線を動かしてみる。直線距離にして三、四百メートル、ほんの目と鼻の先に、舞のマンションは見つかった。さらに視線を移動させた。商店街を抜け、海岸通りを右に折れて百メートル。それが今立っているビルの位置だ。  ここでなくても、ビルの屋上ならほかにもたくさんある。上るなら、舞の住んでいたマンションの屋上でもいいはずではないか。もう一度目を戻し、舞のマンションの屋上を見る。天井の低いワンルームマンションのせいか、七階建てといっても高さはこのビルの半分以下だ。それでも屋上と呼べるスペースはちゃんとある。しかし、商店街の賑《にぎ》やかな場所に建つだけに、階数の高いビルやマンションに四方を取り巻かれ、西側にある九階建ての雑居ビルからは容易に屋上が見下ろされてしまう。そこがこのビルと異なる点だ。海岸通り沿いの倉庫街には、他にそう高いビルもなく、すぐ眼下に見下ろされる心配はまったくない。  安藤は、突起物の上から降り、ふたつ並んだ塔屋の間に立った。一方の塔屋はエレベーター関係のマシンルーム、もう一方は空調機器を備えたもののように思われる。南に位置する塔屋の上には、かなり大きめの貯水槽が据えられていた。  塔屋と塔屋の間の奥まったところに、排気溝の役割を果たす深い溝がある。安藤は一歩一歩足元を確かめながら先に進み、溝の手前で足を止めた。鉄製の網で覆われているが、ところどころに穴が開いている。ビルの関係者以外だれもこんなところに上らないだろうと、開いた穴は放置されていたのだ。暗い長方形の縁に足をかけただけで亀裂の底に飲み込まれそうな気がして、安藤はそれ以上近づくことができなかった。前傾姿勢をとり、恐る恐る、穴のひとつから手に持っていた花束を投げ入れ、舞の冥福《めいふく》を祈って手を合わせた。昨日、エレベーターを点検する技師がここに上らなければ、死体の発見はもっと遅れたに違いない。  暗くなるのは早かった。あたりはすっかり闇に包まれ、三方をコンクリートで囲まれた狭い空間に、海風が渦を巻いて吹き込んでくる。安藤は寒さに身体を震わせた。もっと早い時間、日の真上にある頃に来るべきだった。だが、日が高かったとしても、溝の底を見る勇気は出なかったに違いない。昨日まで死体が放置されていた溝。その先入観だけで全身がこうも鳥肌だつわけではない。狭い空間で死を待つというシチュエーションに恐怖心がかきたてられるのだ。転落のショックで足首を折り、立つこともままならず、三メートル上空の細長い空を見ながら、高野舞は死ぬまでに何日ここで過ごしたのか。空中に浮かぶ棺桶に生きたまま閉じ込められ、徐々に希望は失われてゆく……。安藤は息のつまりそうな圧迫感に襲われた。事故と呼ぶには状況はあまりに不自然だ。  塔屋の内部から、ギューンとワイヤーがウィンチで巻き取られるような音が聞こえてきた。エレベーターでも動き出したのだろうか。安藤は後ろ向きにそろそろと歩をずらせ、塔屋の間から出ようとした。塔屋のザラついた表面は黒みがかり、ところどころ剥げ落ちて、滅多に人の来ない場所であることを仄《ほの》めかせている。  安藤は足早にその場を去り、屋上から十四階のバルコニーに降りる梯子を降りた。最後の一段は床から一メートルの高さにあるため、飛び降りるほかなかった。着地に失敗して足の裏が痺《しび》れ、身を屈《かが》める。すぐ目の前に鉄錆《てつさび》の浮いた梯子があった。  安藤は外階段から十四階のフロアに入り、エレベーターホールまで歩いた。二基あるエレベーターのうち一基がのろのろと上昇中だった。安藤はそちらのボタンを押し、ドアの前で待った。  待ちながら、舞がなぜこのビルの屋上に上ったのか、理由をいろいろと想像してみる。まず何者かに追われていた可能性が浮かんだ。深夜の倉庫街には人通りがほとんどない。歩道を歩いていて何者かに追われ、鉄柵のついた外階段を発見したとする。自分は鉄柵を越えられるが、追っ手は越えられそうにないと判断した場合、身軽な舞ならば柵を越えたかもしれない。しかし、舞の予想を裏ぎり、追っ手もまた柵を越えたとする。舞は行き場を失い、階段をさらに上へと上がらざるを得なくなる。最初の判断ミスは彼女を袋小路に追い込むことになった。望みの綱は屋上に至る梯子だ。一段目は床から一メートルも離れている。今度こそ追っ手も諦《あきら》めると確信し、舞は上がった。果たして追っ手は上がることができたのかどうか……。そもそも、垂直に設置された梯子を苦手とする生物とは何だろう。安藤には、四本足の猛獣のイメージしか浮かばない。  そこまで考えたとき、エレベーターのドアが開いた。エレベーターは空ではなかった。足元に落としていた視線を上げると、安藤の目は若い女の目とぶつかった。女は、まるで待ち構えていたかのような眼差しを向けていた。見間違えようがない。かつて一度、これとそっくりな状況で出合ったことのある女。高野舞の部屋から現れ、エレベーターで一緒になった女……。手の爪《つめ》は割れ、これまでに嗅《か》いだことのない臭《にお》いを漂わせていた。あの異様な雰囲気は忘れたくても忘れられない。  女の正面に立ちはだかったまま、安藤は身動きが取れなくなった。頭が混乱して、うまく処理できない。身体の自由が失われたような状態だった。  ……なぜこんなところに?  安藤は必死で理由を捜したが、もとより見つかるはずもない。安藤にとって恐いのは、「理由がない」という事態であった。説明さえつけば、たいがいの恐怖は追いやることができる。  向かい合った両者の間でエレベーターのドアが閉じかけると、女は、手をすっと伸ばしてドアを押さえ、開いたままの状態に保った。女の動作はしなやかで手際がいい。青い水玉模様のスカートから、涼しげな足がのぞいていた。やはり足はストッキングなしの素肌だ。右手でドアを押さえ、左手には小さな花束を持っている。  ……花束!  安藤は、その花束に目をとめた。 「一度お目にかかりましたわね」  女のほうから先に口を開いた。魅力的な響きだった。すらりとしたプロポーションの割に声は低い。  口を半開きにしていた安藤は、渇いた喉の奥から、ようやく言葉を吐き出す。 「あ、舞さんの、お姉様ですか?」  そうあって欲しいという願望を込めて、安藤は尋ねた。眼前に立ちはだかる女が、舞の姉妹だとすればすべて辻褄《つじつま》は合う。舞の部屋から現れたこと、今日このビルの屋上に上ること、花束を手に持っていること……。全部説明できてしまうのだ。  そう尋ねられて、女は、微妙な首の動かし方をした。はっきり首を縦に振ったわけではなく、肯定、否定のどちらともとれる仕草だ。だが、安藤は肯定の意味に取ることに決めた。  ……姉が、舞が死んだビルの屋上に花を手向けるためにやって来た。  そう考えるのがもっとも自然であり、納得できるからである。人間は納得できることしか信じようとはしないものだ。  一旦そう思い込むと、安藤には、これまでの怯《おび》えが滑稽《こつけい》なものに思われてきた。何をそう恐がっていたのかと、自分の心理がうまく説明できない。初対面のときは、女の全身から強い妖気《ようき》を感じた。しかし、謎が解けた今、妖気は嘘《うそ》のように影をひそめ、逆に女の美貌《びぼう》のみがクローズアップされていく。細く長い鼻梁《びりよう》、穏やかな丸みを帯びた頬のライン、やや目尻の上がった大きな二重|瞼《まぶた》。きっと見据えるでもなく、わざと焦点をずらしているようでいて、しかも妖艶な光を宿している。  ……そう目だ。  先日、舞のマンションで会ったときには、サングラスをかけていて、目を見ることはできなかった。今初めて、安藤は彼女の目を見たことになる。引き込まれそうな視線を直《じか》に受けて、安藤は息苦しさを覚えた。胸が高鳴っている。 「失礼ですが?」  女は語尾を上げ、つんと顎《あご》の先を横に向けてきた。たぶん舞との関係を知りたいのだろう。 「K大学医学部の、安藤という者です」  安藤は自分の身分を告げた。舞との関係を正確に伝えたことにはならない。  女はエレベーターから外に出て、ドアを押さえて目でうながした。エレベーターに乗るように勧めているのだ。従わざるを得なかった。女の優雅な動きには有無を言わせない力がある。指図されたかのように、安藤は女と入れ替わって乗り込み、さっきとは逆の位置で向き合った。 「改めてお願いに伺います」  ドアが閉まる直前、女はそう言った。聞き間違いではなく、女は確かにそう言ったのだ。閉じていくドアはまるでカメラのシャッターだ。姿が視界から消えても、安藤の脳裏には女のポートレートが鮮明に残った。  緩やかな降下の中にあって、抑え切れないほどの欲情が安藤の身体を駆け巡っていた。家族が崩壊して以来、性の対象として夢想したのは舞が最初であったが、インパクトの点では今回のほうがより強烈である。ほんの十数秒の出合いにもかかわらず、素足のままつっかけたパンプスから足首のくびれ、目尻の特徴に至るまで、全体像が克明に記憶されてしまった。彼女の肖像は、いつまでたってもぼやけそうにない。不意に襲ってきた性衝動に耐え切れず、安藤はビルの外に出るとすぐタクシーを拾い、自宅へと急いだ。  タクシーの中で、安藤は女が最後に口にした言葉を思い出した。  ……改めてお願いに伺います。  お願いとは何のことなのか、伺うとはいったいどの場所を指すのか。単に社交辞令で言っただけのものなのか……。  女の視線に急《せ》かされるようにエレベーターに乗り、ビルを出てタクシーを拾ってしまった。せめて名前と電話番号ぐらい聞いておけばよかったと、安藤は後悔した。なぜそうしなかったのか、不思議でならない。彼女が屋上から戻るのを待ってもよかったのだ。だが、そうはしなかった。というより、できなかった。女の一挙一動に操られ、自分の意に反して動いてしまったと思えてならない。 5  舞の解剖から一週間が過ぎ、十二月に入ると気候は急に冬めいてきた。安藤は、もともと冬が嫌いで、春から夏にかけての季節が好きであったが、息子を亡くして以来、季節の変化には無関心になっている。しかし、今朝の急激な冷え込みに、安藤は嫌でも冬の到来を実感させられた。マンションを出て大学に向かう途中、セーターを取りに戻ろうかと何度も足を止めたぐらいだ。結局そうしなかったのは、面倒臭かったせいもあるが、歩いているうちに身体も暖まってきたからに過ぎない。  参宮橋のマンションから大学病院までは、歩こうと思えば歩ける距離にある。近いわりには電車の乗換えがうまくいかず、安藤は、運動不足解消のため、歩いたり走ったりしながら自宅と職場を行き来することが何度もあった。今朝もそうしようかと思いかけ、途中で気が変わり、代々木からJRに乗った。やはりなるべく早く大学に着きたかった。  ふたつ目の駅で降りなければならないため、安藤には電車に揺られながらゆっくり思考を巡らせる余裕はなかった。今日の午前、宮下と電子顕微鏡のエキスパートである根本と共に、舞と竜司の細胞を電子顕微鏡にかけることになっている。それを思うと、逸《はや》る気持ちを押さえ切れない。  これまでのところ、ビデオテープを見た人間以外から疑似天然痘ウィルスが発見された例はなく、肉体的な接触による感染はまだ報告されていない。しかも、舞の部屋には消去済みのビデオテープがあった。以上の二点から、もし舞の血液細胞から疑似天然痘ウィルスが発見されれば、舞がビデオの映像を見たと断定して構わないだろう。つまり、彼女の身に生じた異変は、ビデオテープに起因することになるのだ。  危うく乗り越してしまうところだったが、安藤はドアが閉まる直前、ホームに飛び出していた。そのまま人の流れに乗って改札を出る。駅のすぐ前には、偉容を誇る大学病院が迫っていた。  研究室に顔を出すと、宮下が上気した顔を向けてきた。 「やあ、待っていたぞ」  先週一週間かけて、宮下と根本は電子顕微鏡で覗《のぞ》く準備を進めていたのだ。ウィルスの場合、見たいからといって、すぐに電子顕微鏡で覗けるわけではない。遠心分離機にかけたり、細胞を切断したりと、細かな作業は山ほどある。専門外の安藤の手に負えることではなかった。宮下自身、この瞬間を待っていたらしく、今朝早くから作業を繰り返していたのだ。 「部屋の照明を落としてください」  という根本の指示に、 「オーケー」  と宮下は気軽に応じ、照明を消していった。その顔には恍惚《こうこつ》の表情が浮かんでいる。塩基配列の解析はすんでいても、直に目で見るのは初めてだった。これから、安藤と宮下は、竜司と舞の血液から発見されたウィルスを見ることになるのだ。  根本はひとりで暗室に行き、超薄切片をホールダーに固定した。その間、安藤と宮下は一言も口をきかないで、コンソールの前に腰をおろしてただひたすらスクリーンを見つめていた。スクリーンにはまだ何も映ってはいない。だが、ふたりの脳裏には予想される映像があれこれ閃《ひらめ》いているらしく、目は生き生きと輝いて動き回っていた。  しばらくすると、根本が戻ってきて、自らの手で最後の照明を落としていった。準備が完了したのだ。三人は息を止める思いでスクリーンを見つめた。やがて、細胞の超薄切片が電子ビームに照射され、ミクロの世界が眼前に現れた。 「どっちのだ?」  宮下が根本に尋ねた。 「高山竜司さんのほうです」  先にセットされたのは、竜司の細胞の切片である。  スクリーンに映し出された緑色の模様はそれ自体でひとつの宇宙をなしていた。コンソール上のダイアルを回すと、スクリーンには細胞の表面が流れてゆく。この中のどこかにウィルスが隠れているのだ。 「倍率を上げてみてくれ」  宮下が指示を出すと、根本がすぐに応え、9000倍にまで上げた。さらに表面を撫《な》でてゆくと、死にゆく細胞の様相がはっきりと確認できた。細胞質は明るく光り、小器官は黒い塊りとなって崩壊している。 「右上の細胞質に合わせ、もっと倍率を上げてくれ」  そう指示を出す宮下の顔は、死にゆく細胞のまだら模様を受け、ブロンズ像のように鈍く光っている。根本は、16000倍に倍率を上げた。 「もっと」  21000倍。 「そこだ、ストップ」  宮下は声を上げ、安藤のほうに顔をチラッと向けた。安藤は、上半身を乗り出し、顔をスクリーンに近づける。  ……いる、うようよといる!  死につつある細胞の中、それは無数の蛇のようにうじゃうじゃと動き回り、染色質の表面に食らいついていた。  安藤の背筋に悪寒《おかん》が走った。これまでに見たこともない種類のウィルスだ。天然痘ウィルスを、安藤は電子顕微鏡で直接覗いたことはなく、医学部の教科書で二つ三つ目にした程度だった。しかし、明らかに形状は異なっている。 「驚いた」  宮下は口を半開きのまま、しきりに溜《た》め息をついていた。  このウィルスが血管内部を流れて冠動脈に運ばれ、前下行枝《ぜんかこうし》の内膜に定着し、その部分の細胞に変異を起こさせ、腫瘤《しゆりゆう》を作り上げる……、とその仕組みが理解できたとしても、不思議でならないのは、今見ているウィルスが、『意識』の作用によって誕生させられたという点だ。外部から侵入したわけではなく、ビデオテープの映像を見ることによる意識作用が生み出したのだから、不思議を通り越してただただ驚愕《きようがく》する他ない。無から有への、観念から物質への、変化。地球誕生以来、こんなことがなされたのは、生命の生まれた瞬間だけだろう。  ……とすると、生命が生まれた瞬間にも、なんらかの意識作用があったのだろうか。  安藤の思考が逸《そ》れようとしたとき、宮下はつぶやいた。 「リング、なんてどうだ」  安藤はスクリーンに目を戻した。宮下が何を言いたいのか、すぐにピンときた。ウィルスの形状を何にたとえるべきか……、くねくねと曲がり、壺《つぼ》状になっているものもあるが、多くはいびつな指輪のような形をしている。そう確かに指輪というのが一番ぴたりとくる。台座や石に相当する、膨らんだ部分まであるのだ。全体としては、絡み合う指輪や蛇、床にばらまかれた輪ゴムといったところだろうか。  世にも奇妙なウィルスに、その発見者である安藤と宮下は、命名しようとしていた。 『リングウィルス』  と。 「どうだ?」  宮下は安藤の判断を仰いだ。まさにぴったりの名前だが、それが逆に安藤を不安にさせた。あまりにもぴたりと収まり過ぎていて、『神』のような存在が介在しているのではないかと疑いたくなってくる。そもそも事の発端はなんだろう。安藤は思い出した。竜司の腹からはみ出した新聞紙の数字、178、136。英語に直すとリング。さらに『リング』と題されたレポートの発見。そこに書かれた驚くべき事実。そして、今見ているこの映像だ。リング状のウィルスの群れ。輪廻《りんね》のたびに形を変え、より強大なものに生まれ変わろうとする意志が、形状に象徴されているようだ。  ミクロの世界には、周期的な繰り返し構造を持った美も存在するが、今見ているのは、それと対極にある醜悪さだ。人間に悪をなすと知っていて、醜悪と見えるのではない。蛇に似た生命体への本能的な嫌悪と似ている。ほとんどすべての人間は、なんの先入観なしにこの映像を見せられたとしても、怖気《おぞけ》をふるうだろう。  その証拠に、ウィルスの出所を詳しく知らないはずの根本でさえ、いつもと様相が異なり、撮影する手がかすかに震えていた。その間、マシンだけが、感情もなくネガを吐き出していった。七枚撮影したところで、根本はネガを暗室に運んだ。そうして、現像にかけながら、今度は高野舞の血液細胞の超薄切片をホールダーにセットする。コンソールの前に戻ると、彼は、おもむろにスイッチを入れた。 「今度は、高野舞さんの細胞です」  竜司の細胞の場合と同様に、徐々に倍率を上げていった。すると、難無く捜し出すことができた。間違いなく、同一のウィルスであった。やはりうじゃうじゃと群れている。 「同じだ」  安藤と宮下は同時に口を開いた。ふたりの目には、まったく同一なものとしか見えなかった。だが、電子顕微鏡のエキスパートである根本は、微妙な差異を感じ取ることができた。 「変だなあ」  顎《あご》に手を当てて根本が首をかしげると、宮下が聞いた。 「何が?」 「いや、まだなんともいえません。写真でじっくり比べなくては」  万事慎重な根本は、先に見た竜司のウィルスの印象だけから、結論を急ぐのを避けようとした。科学者たるもの、印象でものを語るべきではない、ちゃんとした根拠が必要だ。彼の持論だった。しかし、それはともかくとして、根本の目にはどうも数に差があるように見えてならないのだ。全体の数ではない。竜司のウィルスに比べて、舞のウィルスのほうが、リングがほどけている割合が多く感じられる。竜司のウィルスにも、輪の一部が切れ、壺《つぼ》のような形をしたもの、とぐろを巻いた蛇のようなものがあったが、大部分はしっかりとした輪を形作っていた。ところが、舞のウィルスは、リングの一部が切れ、紐《ひも》状に伸びたものが異様に多い。  根本は自分の得た印象を確認すべく、特徴のはっきりとした一匹に狙いを定め、焦点を合わせた。指輪に喩《たと》えれば、台座のすぐ横で途切れ、台座と石を頭にしてくねくねとうねるような一匹が、スクリーンに大きく映し出される。  あたかも、頭から伸びた鞭毛《べんもう》が波打つような形態だった。これにそっくりな形状をしたものを、安藤も宮下も根本もよく知っている。三人は同時に同じことを連想していたが、敢えて口には出さなかった。 6  根本が最初に抱いた印象は、リングウィルスを撮影した写真を比較することによって証明された。明らかに、どの限られた空間においても、竜司のよりも舞のほうが、輪の途切れたウィルス(紐状になったもの)が多い。統計を取ってみると、竜司のほうでは十分の一の割合でしか存在しない輪の途切れたウィルスが、舞の場合、約半分の割合で分布している。何らかの理由がなければこういった明確な差が現れるはずはなかった。安藤は、ビデオテープを見て死亡した人間の細胞をすべて、電子顕微鏡にかけるよう要請した。  データが出揃ったのは、年が明け、正月休みが終わった週の金曜日だった。  研究室の窓から覗《のぞ》くと、昨夜降った雪が冬枯れの神宮外苑にまだ少し残っているのが見えた。写真の分析に疲れると、安藤は窓辺に寄り、外の景色に目を休めた。その間も宮下は休むことなく、写真を一枚一枚デスクに並べて慎重に比較していた。  浅川と舞を含め、ビデオテープに関連して死んだ人間は十一人に上る。全員の細胞から同じウィルスが発見され、死の原因がこのウィルスであるのはもはや疑いようのない事実となった。ところが、輪の途切れたウィルスの割合となると、はっきりとふたつのグループに分かれるのだ。舞と浅川の細胞だけは、輪の途切れたウィルスを半分の割合で有し、それ以外の人間はすべて一割以下の分布しか持たない。辻褄《つじつま》は合っている。生と死の分かれ目はそのあたりにあるようだ。  輪の途切れたウィルスがある一定の割合より増えれば、心筋|梗塞《こうそく》による死から免れることができると、統計は語っている。ある一定の割合がどこにあるのかは今のところ不明だ。  舞と浅川は、ビデオテープの映像を見た。そうして、体内にリングウィルスを誕生させた。そこまでは、他の九人と全く同じだ。ところが、なんらかの事情で、ウィルスの輪に切れ目が入って紐状に伸び始め、その数がある割合を越えた。ビデオテープを見たにもかかわらず、舞と浅川が心筋梗塞で死ななかったのはそのためだ。問題は、なぜ舞と浅川の体内でだけウィルスの輪が切れていったのかということである。他の九人と比較して、ふたりはどこかが違っていたのだ。 「免疫系の違いかな」  安藤が疑問を口にすると、宮下は首をかしげた。 「免疫系ねえ」 「それとも……」  安藤は言い淀《よど》んだ。 「それとも、何だ」 「もっとウィルス自体の性質に関する要因なのか」 「おれもそっちのほうだと思うね」  宮下は、相づちをうちながら大きな腹を突き出し、前の椅子《いす》に両足を乗せた。 「そもそも最初に見た四人の若者のイタズラによって、ビデオテープは遠からず消滅する運命を背負ってしまった。出口を見つけるため、ウィルスは突然変異を余儀なくされる。ここまでは、竜司のDNAからのメッセージで教えられたとおりだ。では、どのような突然変異を起こし、どんなものに進化したのか。それを解くカギを握るのが、高野舞と浅川和行のリングウィルス……、特にその特徴ある形状じゃないのか」 「ウィルスの特徴は、宿主の細胞を借りて増殖することにある」 「もちろんだ」 「その増殖は時として爆発的なものになる」  当たり前のことだった。中世に大流行した黒死病、あるいは近代のスペイン風邪の例を出すまでもなく、ウィルスは時に爆発的に流行することがある。 「だから?」  宮下は、安藤に先を促した。 「考えてもみてくれ、『一週間以内にダビングしないと死ぬ』というメッセージに従い、一本のテープを二本に増やしたとしても、その増え方は実に緩慢だ。命令に忠実に従ったとしても、一ケ月でたった四本に増えるだけじゃないか」 「まあ、そうだな」 「そんなんじゃ、恐くない」 「ウィルスらしくないって、言いたいのか」 「ああ、ネズミ算式に増えるのでなければ、増殖とは呼べない」 「一体、おまえ、何が言いたいのだ?」  宮下は、安藤の目を見つめた。 「いや、ただ……」  ……ただ、何なのだ?  安藤は自分でも何が言いたいのかわからなかった。物事をより悪く悪くとらえようとしているのか。たった一個のウィルスが、あっという間に数千万個に増殖する場合だってあるのだ。ウィルスの存在理由はそこにある。自己の複製を同時に大量に作ることだ。しかし、ビデオテープを一本一本ダビングするのは、あまりに効率が悪すぎる。現に、誕生してわずか三ケ月もしないうちに、ビデオテープはすべて消滅してしまったではないか。もし、突然変異によって新しく生まれ変わるとしたら……。 「なんだかいやな予感がするんだ」  安藤はリングウィルスの写真に目をやった。膨大な数のウィルス粒子が幾重にも重なり合っている。数個重なり合う様子は、解きほぐされたビデオテープのようにも見える。山村貞子という超能力者は、死を目前にしてなんらかの情報を映像に変え、井戸の底にある種のエネルギーを残した。そのエネルギーに触発されて誕生したビデオテープ。さらにビデオの映像を見ることによって誕生したリングウィルス。増えていくのは、物質ではない。テープやDNAに刻まれた情報なのだ。  自分の知らないところで、なにかとんでもない変異が起こりつつあると思えてならなかった。安藤は、舞の部屋も訪れたし、彼女が転落した屋上の排気溝も自分の目で確かめていた。部屋の雰囲気や、屋上のぶよぶよとした足元の感触に、直《じか》に触れている。そのせいか、身に迫る危機感は宮下よりずっと強い。大地の下で蠢《うごめ》く胎動が聞こえるような気がする。 「カタストロフィの予感か?」  宮下はのんびりとした表情で、大破局を口にした。 「グロテスクなんだ、すごく。他になんとも言いようがない」  竜司の遺体を解剖して以来、安藤は無理やりグロテスクな世界に放り込まれてしまった。堅いはずのコンクリートまで柔らかく足に絡みつき、だれもいないはずの部屋で生命の匂いを嗅《か》ぎ取ってしまう。説明のできないものばかりだ。特に、舞が産んだモノのことを思うと、おぞましくなる。舞が死んでから一ケ月半たっていたが、産み出したモノに関してはまったく何も手がかりがない状態だった。よもや安藤は、舞がかわいい赤ちゃんを産んだとは思っていない。 「そんなに深刻になるなって。突然変異を遂げたとしても、そいつが環境に適応できたとは限らんさ」 「つまり、変異体もまた消滅したと」 「可能性は捨て切れない」 「楽天的だな、おまえは」 「一九一八年に大流行したスペイン風邪と同じウィルスが、一九七七年、アメリカで見つかったが、このときはだれも死ななかった。世界中で二千万から四千万の人間を殺戮《さつりく》したウィルスが、六十年後に、ほとんど無害のウィルスになって発見されたというわけだ」 「突然変異によって、力を失う可能性もないことはない」  確かに、舞の死体が発見されて以来、不審な死に方をした事件には全くお目にかかっていなかった。新聞だけでなく、警察関係のコネを活用しての情報収集に怠りなかったが、今までのところ網にかかるような事件は何もない。宮下の言う通り、生まれ変わった変種が、ごく短期間のうちに、環境に適応できず感染力を失い、消滅した可能性もあるのだ。 「これから何かあてはあるのか?」  宮下は足で蹴《け》って回転椅子を回した。 「ひとつやり忘れていたことがある」 「なんだ」 「高野舞が、いつどこでビデオテープを手に入れたのかってことだ」 「大事なことなのか」 「ああ、気になるね。日時だけははっきりさせておきたい」  ほんとうはもっと早く確認すべきであったが、ウィルスの分析に忙しく、安藤は忘れていたのだ。今、とりあえず他にできることもなさそうだ。舞が見たビデオテープが竜司のものであることはほぼ間違いないとして、問題は、彼女がいつどこでそれを手に入れたかだ。 7  思いのほか簡単に、安藤は、舞がいつどこでビデオテープを手に入れたのか知ることができた。  死後二、三日のうちに竜司の家財道具が、ビデオテープを含めすべて実家に運ばれたとすれば、ビデオテープの受け渡しがされた場所が他にあるとは思えず、安藤はまず竜司の実家に電話を入れたのだった。  竜司の母は、息子と安藤が大学の同窓生と知ると、急に親しみをあらわにしてきた。以前高野舞という女性が訪ねて来たことはなかったかと安藤が聞くと、母は、 「ええ、確かに」  と答え、家計簿に貼《は》りつけたショートケーキのレシートから、正確な日付を調べ出してくれたのだ。昨年の十一月一日。舞が竜司の実家を訪れた日である。安藤は手帳にその日をメモした。 「ところで、舞さんは、どういったご用件で御宅にお伺いしたのでしょうか」  安藤が訪ねると、母親は、竜司が連載していた論文の清書を舞が手伝っていたことや、その原稿に落丁があったらしいことを告げた。 「とすると、舞さんは、落丁した原稿を捜すためにやって来たわけですね」  確認しながら、安藤は、竜司が連載していた月刊誌と出版社の名をメモした。  それだけの情報を得ると、安藤はすぐに電話を切った。高野舞の近況を聞かれると困るからだ。彼女の死を知らせれば、間違いなく質問攻めにあう。だが、相手を納得させるだけの答えを用意して電話をかけたわけではなかった。  電話を切っても、安藤は受話器の上にしばらくの間、手を載せていた。  ……十一月一日に、舞は竜司の実家を訪れ、紛失した原稿を捜しているうち、例のビデオテープを発見し、自宅に持ち帰った。たぶんその日のうちに映像を見てしまったに違いない。  安藤は、十一月一日を出発点にして、仮定を積み重ねていった。ウィルスの効果は一週間で最大に達する。つまり、十一月八日に彼女の肉体になんらかの変化が生じたと考えるべきだ。舞とデートの約束をしたのは、十一月九日だった。この日は何度電話しても彼女は出なかった。辻褄《つじつま》は合う。部屋にいて電話に出られない状態だったか、あるいはこの時既にビルの排気溝に転落していたかだ。  安藤は逆算によって日時を確認することができた。舞の死体を解剖することによって、彼女がどのくらいの時間排気溝の底で生き、死後何時間後に発見されたか、おおよそのところはわかっている。解剖結果によれば、死亡したのが十一月二十日前後、転落したのはそれより十日ほど前ということになる。つまり、十一月の八日か九日に異変が生じ、排気溝に転落したと仮定して、計算上何の不都合も生じない。舞がビデオテープを見た日を十一月一日として間違いなさそうだ。  次に、安藤は図書館に出向き、雑誌コーナーで竜司の論文の掲載された月刊誌を捜した。昨年十一月二十日に発行された号に、『知識の構造』と題された竜司の論文の最終回が掲載されている。そのことから、安藤はひとつの情報を得た。  ……舞は、竜司の原稿を清書して、担当編集者に渡すことができたのだ。  ビデオテープを見てしまってから、死ぬまでの間に、舞は明らかにひとりの人間と接触を持ったことになる。  安藤は、月刊誌の編集部に電話を入れ、担当編集者にアポイントメントを取った上で、出版社を訪ねることにした。電話ではなく、直に会って話を聞きたい衝動に駆られたからだ。  水道橋でJRを降り、住所を頼りに五分ほど歩くと、総合出版社S書房の十一階建てビルが見えてきた。受付で、月刊誌『潮流』の編集者である木村を呼んでもらうと、安藤はロビーを見回しながら待った。木村は、すぐに受付に降りて来るという。見ず知らずの人間との面会に気軽に応じてくれるのが、安藤にはうれしかった。電話の声から判断するとまだ二十代の青年と思われるが、応対に如才はなく、しっかりとした印象を受ける。安藤は、銀縁メガネをかけたハンサムな青年を思い浮かべていた。  しかし現れたのは、チェックのパンツに吊りバンド姿の、真冬だというのに後退した額に汗を光らせる小肥りの男だった。どこから見ても、一流出版社の、しかも現代思想を扱う月刊誌の編集者らしくない。男は、 「いや、お待たせしました」  と満面の笑みを浮かべ、ポケットから名刺を出してきた。木村智という名前の上には、副編集長の肩書きがあった。声から想像したよりもずっと歳は上のようだ。もうすぐ四十歳といったところか。  安藤も名刺を差し出し、 「お忙しいところを申し訳ありません。どこかそのへんでお茶でも」  と外に誘い出そうとした。 「いやあ、この辺にはいい店がないのですよ。よかったらうちのラウンジにいらっしゃいませんか」 「そうですか」  安藤は素直に木村の申し出を受けることにし、案内されるままエレベーターに乗った。  最上階のラウンジは中庭に面していて、なかなか贅沢《ぜいたく》な作りだった。ソファに腰を沈め、回りを見回すと、雑誌や新聞で見知った顔がちらほらと見受けられた。作家と担当編集者の打ち合せ場所として使われているらしく、原稿を手にした者も何人かいる。 「実に惜しい人を亡くしました」  その言葉で、安藤は、散漫になっていた集中力を取り戻し、正面に座る木村の脂ぎった顔に視線を戻した。 「実は、わたしと高山竜司君は大学時代の同級生でした」  たぶん効果を発揮するだろうと、安藤は見越していた。このセリフでこれまで何人、竜司と関係のあった人間の心を引きつけたことか。 「え、そうなんですか、高山先生と……」  木村は、手にしていた安藤の名刺にチラッと目をやり、納得してうなずいた。そこには安藤の所属する大学名が記されている。竜司が同じ大学の医学部出身であることを思い出したに違いない。 「しかも、彼の遺体を解剖したのは、このわたしです」  木村は目を丸くし、顎《あご》を突き出して、なんとも形容のできぬ呻《うめ》き声を発した。 「そりゃ、また……」  木村は、コーヒーカップを持つ安藤の手先をじっと眺めている。竜司の肉体を切り開いたその指に、興味が引かれたのだろうか。 「でも、今日、お伺いしたのは、竜司君の話を聞くためではありません」  安藤はカップから手を離し、両手を組んでテーブルの上に置いた。 「なんでしょうか」 「彼の教え子の、高野舞さんのことで、ちょっとお伺いしたいと思いまして」  舞の名前が出ると、木村は表情をかすかに緩め、身体を前に乗り出してきた。 「舞さんの、何を?」  ……この男はまだ舞の死を知らない。  安藤はそう直感した。しかし、遅かれ早かれ知らねばならないのだ。 「舞さんが亡くなられたこと、ご存じないのですか」  木村は、さっきよりももっと奇妙な呻き声を出し、腰を半分浮かせかけた。彼の顔は豊かに変化する。喜怒哀楽に応じて百面相のように変わる様は、コミカルでさえあった。お笑いタレントとしても充分にやっていけそうなほどだ。 「そんなあ、舞さんが、死んだなんて」  木村は悲嘆の声を上げた。 「去年の十一月、高野舞さんは、ビルの排気溝に転落して死亡しました」 「ああ、道理で、いくら連絡しても通じないわけだ」  ここにも自分の仲間がいたと、安藤は親近感が湧《わ》いた。この男が結婚しているのかどうかは知らないが、たぶん木村も舞に対してほのかな恋心を抱いていたに違いない。 「最後に舞さんにお会いした日のことを覚えていますか」  感傷に浸る間も与えず、安藤は質問を出した。 「あれは、新年号の校了間近の頃だったから、十一月初めの頃でした」 「正確な日時がわかりますか」  木村は去年の手帳を取り出し、ページをめくった。 「十一月二日ですね」  十一月二日。舞が竜司の実家を訪れ、ビデオテープを持ち帰った日の翌日だ。そのときはもう、舞は、ビデオテープの映像を見終わっていたはずだ。 「失礼ですが、どこでお会いしたのですか」 「舞さんから、原稿の清書が終わったという電話を受けるとすぐ、こちらから取りに伺いました」 「彼女のマンションにですか」 「いいえ、駅前の喫茶店で落ち合いました。いつもそうしてましたから」  木村は、独り暮らしの舞の部屋に上がったことはないと強調するかのようだった。 「舞さんと会って、なにか普段の彼女と違っているようなところはなかったですか?」  木村は怪訝《けげん》な表情をする。質問の意味がうまく飲み込めないのだ。 「それが、何か?」 「実は、彼女の死因に関して不審な点があるものですから」 「不審な点……」  木村は腕を組んで考え込んでしまった。自分のしゃべることが高野舞の解剖結果に影響を与えるのではないかと、慎重に構えてしまったようだ。 「いえ、なんでもいいんです。なにか、気付いたことがあれば」  安藤は、リラックスさせようとしてわざとらしい笑顔を向けた。 「確かに、あの日の舞さんは、いつもと違っていたね」 「具体的に言いますと?」 「顔色も悪かったし、吐き気を感じるのか、ハンカチで口もとを押さえたりしてました」  安藤は、吐き気というのが気になった。高野舞の部屋を探ったとき、バスルームの床に吐瀉物《としやぶつ》のような褐色の固まりがあったことを思い出したからだ。 「吐き気の理由を尋ねましたか?」 「いえ、別に。というのも、会うそうそう、徹夜で高山先生の原稿を清書したから、体調がすぐれないと、自分から申し出たものですから」 「なるほど、寝不足のせいだと」 「そうです」 「他になにかお話をしませんでしたか」 「こっちも急いでましたからねえ。原稿のお礼と、単行本に関する計画を話したぐらいで失礼しました」 「単行本と言いますと、竜司君の?」 「ええ、もともと単行本で出版するという前提のもとに始めた連載でしたから」 「出版はいつなんですか」 「来月、書店に並ぶ予定です」 「売れるといいですね」 「堅い内容の本ですから、そう期待はできないでしょう。出来は素晴らしいんですが」  そこから話は逸《そ》れ、生前の竜司のエピソード等に及んで会話がはずむと、なかなか抜け出せなくなってしまった。高野舞を含め、二人の関係のあれこれを話題に上げるうちに時間は過ぎ、約束の一時間はあっという間に過ぎてゆく。今回は目ぼしい情報は得られなかったが、また会う機会もあるだろうし、好印象を与えるためにもそうそう粘るわけにもいかなかった。安藤は礼を述べて、暇《いとま》を告げることにした。  ちょうど立ち上がろうとしたとき、安藤はラウンジに入ってくる三人の男女に目をとめた。男性ふたりに女性がひとり、三人ともに見覚えのある顔だった。女性のほうは、作品の映画化によって一気に流行作家の地位に上り詰めたノンフィクションライターで、その顔はテレビや週刊誌で幾度となく目にしていた。男性のひとりは、彼女の作品を映画化した監督だった。安藤がおやっと思ったのは、映画監督の横にいる四十代の男性だった。顔は覚えているのに、名前が浮かばない。やはり作家かなにかだろうかと頭を悩ませていると、すれ違いざまに、木村が声をかけた。 「浅川さん、よかったねえ、企画が通って」  ……浅川。  安藤は思い出した。浅川和行の兄、浅川順一郎じゃないかと。 『リング』が保存されたフロッピーを受け取るために、神田の彼のマンションを訪れたのは昨年の十一月中旬のことだ。目当てのものが手に入ったうれしさから、あたふたと辞去してしまったが、後日フロッピーを送り返すときには一緒に丁寧なお礼の言葉を差し挟んだ。  さらに思い出したのは、浅川順一郎から渡された名刺に、ここS書房書籍部の肩書きがあったことである。偶然なのか、あるいは浅川兄弟のコネでそうなったのか、竜司は、親友である浅川の兄、順一郎の勤める出版社から本を出すことになるのだ。  順一郎も安藤に気付いたらしく、驚いた表情でほんのわずか後じさった。 「いや、その節はどうも……」  安藤も頭を下げ、フロッピーを借りたお礼と新年の挨拶《あいさつ》を口にしようとしたが、順一郎はさっと目を逸《そ》らせ、相手が口を開くよりも早く、 「じゃ、失礼」  と身をかわし、女流作家と映画監督を急《せ》かして空いたテーブルについてしまった。安藤は、避けられていると感じた。もう一度、テーブルに座る順一郎に目をやったが、彼は映画監督と話し込み、顔を向けようとしない。明確な意思を持って顔を背けているといったふうだ。  なぜ順一郎から避けられねばならないのかと、安藤は記憶を探ってみる。フロッピーを借りたお礼は丁寧にしたためたはずだし、失礼な振舞いをした覚えもない。解せなかった。不自然な態度に首をひねりながら、安藤は、木村と並んでラウンジを出た。 8  同じ日の夜、安藤は自宅マンションに帰ると、久しぶりでバスタブに湯をはった。息子が生きていたときは、毎晩一緒に風呂に入ったものだ。ひとりになってからは、湯を張るのが面倒なので、シャワーだけですますことが多い。  風呂から出ると、安藤は、電子顕微鏡で撮影した写真のコピーを壁に貼《は》り、少し距離をおいて眺めてみることにした。  一方の壁は本棚で埋まっていたが、ベッドの置かれたほうの壁には何もなく、白いスクリーンのようになっている。X線写真にバックライトを当てる要領で、安藤は、壁に写真を貼っていった。  17000倍、21000倍、100000倍と倍率の順に、舞の血液から分離されたウィルスの写真を貼り、対象から視線を逸らさずに数歩後退した。リング状のウィルスが重なる様は、螺旋《らせん》階段のようにも見える。何か気付くことはないかと、安藤は精神を集中させた。以前は見落としていた何か……。  部屋の照明を落とし、スポットライトを当ててみる。光に照らされて、白い壁の上を実際に巨大なウィルスが這《は》っているようだ。42000倍に拡大された、輪が途切れて紐《ひも》状に延びたウィルスの写真にスポットを合わせた。舞と浅川の血液にのみ多く見られ、竜司を始め、他の九人にはほとんど見られなかったタイプだ。舞の場合、冠動脈の内腔が狭まるという兆候は全くなかったが、浅川の場合、血管の内膜にちいさなコブのようなものが出来かかっていた。舞と浅川ですら微妙に症状が異なっている。  ……なぜ舞の血管は無傷だったのだろう。  安藤の疑問はその一点に向けられた。今見ている紐状のウィルスは、舞の冠動脈の内膜を攻撃しなかった。他の人間は皆そこがターゲットになっているのに、なぜ彼女だけが例外なのだ。  安藤は心に引っ掛かりを覚えた。十月の終わりから十一月にかけての、舞の行動を記録した手帳を開き、光にかざしてみる。初めて会ったのは、十月二十日、高山竜司を解剖する直前の監察医務院。あのとき、舞の顔色はすぐれなかった。なぜ、すぐれなかったのか、安藤はその理由を自分なりに推測している。生理だったに違いないと。彼は直感に自信があった。  壁に貼られた写真に目を戻す。100000倍に拡大された、紐状のウィルス。大学で最初これを見たとき、どんな印象を抱いた?  何かに似ているとは思わなかったか? 楕円形《だえんけい》の頭を持ち、鞭毛《べんもう》をくねらせるような姿。こいつらは舞の血管内をうようよと泳ぎながらも、冠動脈の内膜を攻撃しなかった。  ……では、どこを攻撃したのだ?  安藤は、頭が熱くなるのを感じた。ほんの小さな穴がじわじわと広がり、その隙間《すきま》から光が差してくる。これまで見えなかったものが見え出してくる瞬間だった。安藤は再び手帳に目を戻した。舞が、ビデオテープを見たと思われる日付。十一月一日の夜。舞が生理だった日から数えて十二、三日目にあたる。  安藤は壁に一歩、二歩と近づいた。鞭毛を波打たせて泳ぐリングウィルス。  ……そっくりじゃないか、こいつは子宮口に向かって泳ぐ精子の姿に瓜《うり》二つだ。 「精子?」  安藤は敢えてその言葉を口にしてみる。  ……排卵日だ。  個人差はあるが、普通、女性は月経から二週間たった頃、卵子を放出する。卵子が卵管に留《とど》まるのは、長くて二十四時間だ。もし、舞がビデオテープを見た夜、彼女の卵管に卵子が留まっていたとすれば……。  リングウィルスは突如出口を見つけ、冠動脈から卵子へと攻撃の対象を変更したのだ。安藤は、呼吸も荒く、ベッドに腰を下ろした。もはや、手帳も写真も見る必要はなかった。ビデオテープを見たとき、舞は排卵日だった可能性がある。運がよかったのか悪かったのか、一ケ月に一度しかない排卵日に、偶然映像を見てしまったとすれば。だから、彼女だけが例外になった。ビデオテープを見た女性の中で、ちょうど排卵日に当たったのは舞だけだった。  ……そして。  以後のことを考えると、安藤の背筋に悪寒が走った。だが、思考を停止するわけにはいかない。  無数のリングウィルスは舞の卵子に侵入してDNAに組み込まれ……。  ……受精した。  進化を遂げても、リングウィルスの基本性質は残っている。ちょうど一週間後、受精卵は最大に成長し、体外に排出された。解剖の結果、舞の肉体に出産直後の痕跡《こんせき》が残っていたのはそのためだ。  ……しかし、舞は一体、何を産んだのだ?  安藤の震えはより激しくなった。足先の感触を生々しく思い出したからだ。  ……おれは間違いなく、そのモノに触れた!  舞のマンションを訪れたとき、だれもいないはずの部屋で、生命の息づく気配を感じた。バスルームの便器を覗き込み、無理な姿勢で前屈《まえかが》みになると、ソックスの垂れ下がったアキレス腱《けん》のあたりを、柔らかなものが撫《な》でていった。たぶんあれがそうだったに違いない。普通に部屋を見回しただけでは気付かないほど小さなモノ。それともまだ成長段階にあっただけなのか、ワードローブに簡単に隠れられるサイズの生命体が、確かな感触を残して皮膚の表面をのたくっていった。  身体の震えは収まらず、安藤はもう一度風呂に浸《つ》かるべくパジャマを脱いだ。栓を抜いてなかったため、まだ湯は残っている。蛇口をひねって八十度の熱湯を注ぎ、前よりも熱くすると、安藤は身を沈めた。湯の線よりも上に足を出し、無理にひねってアキレス腱のあたりを観察し、さすってみる。もちろん表面上はなんの変化も生じてはいない。だからといって不安が消えたわけではなかった。  安藤は足を湯に沈め、膝《ひざ》を抱くような姿勢をしばらく保ち続けた。そうしているうちにさらなる疑問が頭をもたげてくる。舞が例外なのはわかった。だが、浅川はなぜ、という疑問だ。 「浅川は男じゃないか」  それとも、彼もやはり何かを産み出したというのか?  湯が熱過ぎるのか、安藤は喉《のど》の渇きを覚えた。 第五章 予 兆 1  成人の日を含む連休の初日、安藤は宮下からの電話で、ドライブに付き合ってくれないかと誘われた。連休の過ごしかたに頭を悩ませていた安藤にとってはまさに渡りに舟、断るべき理由はどこにもない。なにかしら隠しているような宮下の態度が少々気になったが、とりあえず行くと承諾の返事をしてから、 「どこに行くつもりだ?」  と尋ねた。 「ちょっと、おまえに確認してもらいたいことがある」  そう言うだけで、宮下はどこに行くのか教えようとしなかった。安藤は、なにか理由でもあるのだろうと察して、深く追及するのは避けた。本人に会って直接聞けばすむことである。  マンションまで迎えにきてくれた宮下の車に乗り込むと、安藤はさっそく目的地を尋ねた。 「ところで、どこに行くの?」 「ちょっと理由があってな。まあ、黙ってついて来てくれ」  出発する段になっても、宮下は教えようとしなかった。結局安藤は、目的地も知らされぬままドライブに出ることになった。  第三京浜を抜けると、車は横浜新道へと入った。藤沢方面に向かうつもりらしい。日帰りできる範囲だとすると、そう遠くまでは行かれそうもない。小田原、箱根。伊豆としても、せいぜい熱海や伊東あたりまでだ。安藤は行き先をあれこれ予想し、ミステリーツアーを楽しむことにした。  合流する手前で、車はぴたりと動かなくなってしまった。横浜新道の入口付近、常に渋滞している場所だ。連休の初日とあって、交通量はかなり多い。ハンドルを握る宮下を退屈させまいとして、安藤はほんの数日前に思いついた仮説を宮下に話してみることにした。ビデオテープを見たにもかかわらず、高野舞だけがなぜ心臓の血管に異常を起こさなかったのか。映像を見た日がちょうど彼女の排卵日であり、リングウィルスは心臓の冠動脈から卵子へと攻撃目標を変更したためではないか。そうして、屋上の排気溝に転落する直前、舞は未知の生命体を出産することになった。ほんの一週間胎内に宿しただけの生命体。出産直後であったことを考えれば、舞が下着を着けていなかったことの説明もつく……。  一通り聞き終わっても、宮下はしばらく黙っていた。愛嬌《あいきよう》のある丸い目で前方を見つめていたかと思うと、その表情とは裏腹の素早い動きで車線変更し、追い越し車線の列に割り込んでいった。 「電顕で高野舞のリングウィルスを覗《のぞ》いたとき、実は、おれもそんなふうに感じたよ」  後続車のクラクションに顔色ひとつ変えず、宮下は言った。 「そんなふう?」 「どこかで見たことがある、そうだ、こいつは精虫に似てるって、な」 「同感だ」 「根本も同じようなことを言っていた」 「三人が三人、同じ着想を得たってことか」 「そう、直感は大事にしなくっちゃ」  宮下は、助手席に座る安藤に顔を向けてニッと笑った。前方への注意が疎《おろそ》かになる。 「おい、しっかり前を見ててくれ」  赤いブレーキランプが接近してくると、安藤は無意識のうちに両足に力を込めていた。 「だいじょうぶ、浅川の二の舞にはならないさ」  ブレーキを踏みながら、宮下は余裕を見せたつもりだった。だが、フロントバンパーはもう少しで前車に接触しそうなほど近づいている。安藤は冷や汗を流し、宮下には距離感が欠如しているのではないかと疑った。こんな運転ではいつか事故を起こすに違いない。 「浅川といえば……、彼がなぜ心筋|梗塞《こうそく》で死ななかったのか、不思議だ」 「男に排卵日はないからな」 「高野舞と同じように、身体になんらかの異変が生じていたのかもしれない」 「たぶん、ウィルスは出口を見つけたんだ」 「出口?」 「そう、より繁栄するための出口」  保土ケ谷バイパスへの出口を過ぎると、渋滞は解消され、車の流れは幾分スムーズになった。道路標識を見て、宮下は「出口」などという言葉を使ったのだろう。  宮下は続けた。 「なあ、おれたちは答えを捜さなければならない」  宮下の口調からは、これまでの呑気《のんき》さが消えている。 「もちろん、そのつもりだ」 「今年の正月休み、おまえ何してた?」  宮下は唐突に話題を変えた。 「ふん、ただごろごろしてただけさ」 「そうか。おれは家族そろって南伊豆の漁村で過ごした。泊まったのは、旅行案内にも載ってないような小さな民宿だ。なぜ、そんな鄙《ひな》びた場所を選んだか。おれの好きな小説で、その漁村を舞台にしているのがあって、前から一度訪れてみたいと思っていたからなんだ。小説には、漁村から水平線を望むと蜃気楼《しんきろう》が見られる、と書いてあった。おれはその言葉を信じたのさ」  安藤には、話の先がどこに向かうのか、まるで見当がつかなかった。ただ、彼は相づちも打たず、静かに耳を傾けていた。 「おまえにこんな話をするのは酷かもしれないが、家族って本当にいいものだ。民宿からは波の音が聞こえた。夜中にふと目覚め、妻と娘の顔を眺めていると、身に染みてその大切さがわかる」  その大切さは、安藤にはわかり過ぎるほどだ。蜃気楼が見られるという南伊豆の漁村で家族と共に過ごす正月……、ひとりでは侘《わ》びしさが勝つだろう漁村への滞在も、愛する家族と一緒ならきっと温かなものになるに違いない。意識の鉾先《ほこさき》は、崩壊した家族のほうに向かいかけた。だが、宮下はその隙《すき》を与えず、安藤に問いかけてくる。 「なあ、おれの女房、美人だと思わないか」  安藤は、宮下の妻ではなく、離婚した妻の顔を思い浮かべながら、 「まったくだ」  とうなずく。目に浮かぶのは、出合った頃の初々しい表情。 「おれはチビでデブでおまけにこんなご面相だが、あいつは違う。美人の上、性格も申し分ない。おれは実にラッキーな人間だと思う」  宮下の妻は、宮下よりも背が高く、ある人気女優と瓜ふたつの顔立ちをしていた。それに比べれば、宮下の外見はかなり見劣りがする。だが、彼は順調に進めば医学部教授の地位を手に入れられる器だ。それほど卑下することもあるまいと、安藤は苦笑いを漏らした。 「だから、死にたくはねえよなあ。少し楽観的過ぎたかもしれない。なあ、おれはずっと、今回の事件では、傍観者を決め込んでいたんだ。いや、むしろ、事の成り行きを面白がってさえいた」  安藤はもう少し深刻に事態を受け止めていたが、傍観者という点では宮下とそれほど変わらなかった。浅川や竜司の立場とは根本的に異なり、事件を解決しないからといって、直接の被害が身に降り掛かることはないと考えていたのだ。 「それは、おれも同じだ」  安藤は宮下に同意した。 「だが、甘い考えかもしれないと、あるときふと気付いたんだ」 「いつ?」 「正月休みが明け、南伊豆の漁村から帰ってから」 「漁村で、何かあったのか」 「蜃気楼が見られなかった」  安藤は顔をしかめた。話がちぐはぐに思えてくる。 「蜃気楼?」 「なあ、小説の舞台を実際に訪れたことはあるか?」 「ああ、ある」  好きな小説の舞台を訪れたいという欲求なら、だれでも一度は抱くはずだ。 「で、どう感じた?」 「まあ、こんなものかと……」 「印象と違っていたのか?」 「裏切られる場合のほうが多いだろうな」 「つまり、小説を読んでイメージしていた風景と、現実の風景は異なる、と」 「ぴったり一致するなんてことは、まずないと思う」 「おれもそうだった。南伊豆で過ごしながら、ああ、これがあの小説の舞台なのかと、違和感を持ったものだ。イメージとずいぶんズレていたし、蜃気楼も見られなかった」  口には出さなかったが、安藤には宮下の言うことが幼稚に思われてならない。作家は自分のフィルターを通して風景を見、表現する。そのフィルターが作家独自のものである以上、読者が勝手にイメージする風景と現実の風景がズレるのは当然ではないか。写真、あるいはビデオカメラでの撮影等の手段によらなければ、第三者に風景を正確に伝えることはできない。文章という媒体では限界があるのだ。 「逆にだ。もし、仮に……」  宮下は顔を安藤のほうにグイッと近づけてきた。 「おい、前を見ながらだって話ぐらいできる」  きつい顔で安藤が前方を指差すと、宮下は速度を緩め、走行車線のほうに車を戻した。 「『リング』をいつ読んだか、覚えているか?」  安藤は日付まで正確に覚えている。浅川の兄、順一郎からフロッピーを借りた日の翌日である。ワープロがプリントアウトするのももどかしく読み進めていった。 「ああ、日付まではっきり覚えている。去年の十一月十九日だ」 「おれはあのレポートを一回通し読みしただけだ」  安藤も同じだった。一回読んだだけで、読み返してはいない。 「それがどうした?」 「にもかかわらず、シーンが鮮明に残っている。今でもときどき思い出すんだ」  やはり安藤にもいえることだった。『リング』に描かれた世界は、映像的であり、頭の襞《ひだ》にこびりつくように、ワンシーンワンシーンが残っている。思い浮かべろと言われれば、今でも明瞭《めいりよう》にイメージすることができる。確かに映像的な文章だ。  ……しかし、だからなんだというのだ?  宮下の意図が読み取れず、安藤は返事をすることができない。 「だから、もし仮に、『リング』というレポートが風景を正確に伝えていたら、と、おれは、ふとそんな疑問を感じた」  発した言葉の重大性に比べて、宮下の横顔は妙に穏やかだった。  安藤は宮下の抱いた疑問を吟味してみる。仮に、『リング』を読むことによって思い浮かべる風景が、現実の風景と寸分たがわず重なった場合、それは何を意味するのだろうか。第一そんなことが可能なのだろうか。 「仮にそうだとしたら?」  安藤の声はかすれた。ヒーターのせいで車内は適温に調整されているが、少し乾燥気味のようだ。 「とにかく、まず、確認しようと思ってな」 「なるほど、そのためにおれを連れ出したってわけか」  安藤はここに至ってようやく、今回のドライブの目的地を悟った。『リング』の主な舞台である南箱根から熱海にかけての一帯である。現実の風景をこの目で見て、確認するのだ。そのためには、ひとりよりもふたりのほうが好ましい。安藤と宮下の目によって認識し、得られた情報を交換し合い、正確に判断する。 「本当は、現地につくまで黙っていようと思ってた。変な先入観を持たれたら困るからな」 「だいじょうぶだ」 「聞き忘れたが、おまえは南箱根パシフィックランドは初めてなんだろう」  宮下が尋ねた。南箱根パシフィックランド。魔のビデオテープが発祥したレジャーランドの名称である。 「もちろん。おまえは?」 「名前さえ知らなかった。あれを読むまでは」  両者とも行ったことのない場所である。しかし、目を閉じると、安藤の脳裏には、なだらかな斜面に建つ貸し別荘、ビラ・ログキャビンの一棟一棟がありありと浮かぶ。その中の一棟、B‐4号棟で、この驚嘆すべき事件が幕を開けた。縁の下に口を開け、地下五、六メートルにまで延びた古井戸。二十五年前、強姦《ごうかん》された上に井戸に投げ込まれた山村貞子なる女性の怨念が、天然痘《てんねんとう》ウィルスの増殖願望と混じり合ってしまった地下の穴蔵である。そんな場所を宮下はこれから訪れようというのだ。  雲のかかった箱根山を右手に見ながら、宮下の運転する車は真鶴《まなづる》を経て熱海に向かった。『リング』には、熱海から熱函道路に入るとすぐ、南箱根パシフィックランドへの道案内が出てくると書かれている。安藤と宮下は、その通りの道順を取ることにした。  熱函道路を通るのは、安藤も宮下も初めてであった。にもかかわらず、安藤はかつて一度ここを通ったような錯覚を覚えた。浅川和行が車でこの道を通ったのは、昨年の十月十一日の夜のことだ。彼は、南箱根パシフィックランドのビラ・ログキャビン、B‐4号棟で待ち構えるモノを知ることなく、しかしなにかしらの胸騒ぎを覚えつつ、今|辿《たど》っているこの同じ道を上った。今、時間は正午に近く、しかも天気はよく晴れている。昨年の十月十一日は、雨が降ったり止んだりの天気だったらしく、浅川の運転する車のフロントガラスにはワイパーがかかっていた。安藤が覚えている限り、『リング』にはそういった記述がある。浅川は不安げな面持ちで、ワイパーが擦《こす》るフロントガラスを見ていたのだ。時間も天候も異なるとはいえ、安藤の脳裏には、暗い雨模様の風景がフラッシュバックのように閃《ひらめ》き始めた。山の斜面に立つ、南箱根パシフィックランドの案内が目についた。白地のパネル板に黒いペンキで書かれた独特の文字にも、見覚えがある。宮下もまた、まるで知った道を走っているかのように、躊躇《ためら》わずに細い坂道を左に折れていった。  段々畑の中をくねって道はさらに細くなり、上りはきつくなっていった。リゾートクラブに至るとは思えない程、整備不良の悪路だ。伸び放題の枝や枯れ草が、道の両側から車の腹を撫で、耳障りな音をたてる。上るほどに、安藤の既視感は強くなった。初めて通る道にもかかわらず、以前に一度この道を通ったと強く感じる。 「既視感を覚えないか?」  安藤は声を低めて、宮下に尋ねた。 「おれも、おまえに同じことを聞こうと思っていた」  宮下も同じ感覚を抱いていたのだ。既視感の経験は何度かあるが、安藤はこれほど長く感覚を持続させたことはない。しかも、道を上るほどにますますそれは強くなっていく。安藤には、道を上った先に建つインフォメーションセンターの外観をはっきりとイメージすることができる。前面を黒いガラスで被われた、三階建ての洒落《しやれ》たビルだ。  駐車場のロータリーに出ると、正面に安藤のイメージした通りのビルが姿を現し始めた。インフォメーションセンターだ。ロビーの奥にあるレストランさえ、安藤は思い浮かべることができる。これ以上確認する必要はないように思われた。安藤と宮下は、『リング』を読むことによって、この場所の正確な風景を手に入れていたのだ。他に考えようがない。 2  山から降り、熱海を抜けて、宮下の運転する車は、海沿いの真鶴道路を小田原方面へと走っていた。今見たばかりの光景、会ったばかりの人間の顔を、脳裏に反芻《はんすう》しているせいか、ふたりの会話は途切れがちだった。きれいに澄んだ冬の海を眺める余裕もなく、安藤は今日のドライブがもたらした事実に、頭を悩ませていた。今しがた訪れたばかりの南箱根パシフィックランド、ビラ・ログキャビンや、縁の下に口を開ける古井戸の光景が、土の臭《にお》いをともなって、蜃気楼のように海の上に浮かんでは消える。そして、見覚えのある男の顔がしきりに甦《よみがえ》るのだった。  南箱根パシフィックランドの各施設は、インフォメーションセンターからホテルへ至る道の両側に点在していた。テニスコート、プール、アスレチックジム、個人の別荘など、ほとんどが山側にしろ谷側にしろ、斜面に建っているのだ。その中にあって、ビラ・ログキャビンの建つ斜面はむしろ緩やかなほうであった。道路側からキャビンの建つ谷側を見下ろすと、遥か下方、函南《かんなみ》から韮山《にらやま》にかけての一帯に無数の温室が建ち並ぶのが見えた。温室の白い屋根が、冬の午後の日差しをきらきらと反射させている。どのひとつをとっても安藤と宮下には見知った風景であった。  ふたりはB‐4号棟へと降りていった。ドアノブを回しても、鍵《かぎ》がかかっていてドアは開かず、バルコニーの下へと回り込むことにした。腰を折って覗《のぞ》いただけで、柱と柱の間の壁板が剥《は》がれ、大きな穴が開いているのがわかった。故意に剥がし取ったものらしい。だれがやったのかは明らかだ。身体を通すために、高山竜司が開けたものだ。昨年の十月十八日、竜司と浅川はこの穴をくぐって縁の下を這《は》い進み、井戸の中にロープを伝って降りて山村貞子の遺骨を拾い出すという、想像するだけで身の毛もよだつ離れ業をやってのけたのだ。  宮下は、備え付けの懐中電灯を車から持ち出してきて、隙間に差し入れて縁の下を照らした。ほぼ中央に位置する黒い出っ張りが、すぐに目についた。古井戸の上部である。その横にはコンクリート製の蓋《ふた》が転がっていた。『リング』の記述通りである。  安藤は、縁の下を這い進んで、井戸の縁から中を覗いて見る気にはならなかった。それはちょうど、高野舞の遺体が発見された屋上の排気溝を覗く気になれなかったのと同じである。近づくのが精一杯で、とてもではないが底を見る勇気は湧《わ》かなかった。山村貞子という女性は、井戸に投げ込まれ、丸く縁取られた空を見ながら短い命を終えた。一方、高野舞は、長方形に縁取られたコンクリートの箱の底で命を引き取った。山間のサナトリウムのはずれに掘られた古井戸と、ウォーターフロントに位置するビルの屋上。かたや深閑とした森にあって井戸の上方は四方からの梢に遮られ、かたや海の匂いの漂う海岸通りにあって上空に遮るものは何ひとつない。一方は地中深く沈められた樽形《たるがた》の棺桶であり、一方は空に浮く直方体の棺桶であった。山村貞子と高野舞が息を引き取った場所には、奇妙なコントラストがあり、逆に、その鮮やかなコントラストが、両者間の類似性を強く浮き彫りにする。  安藤の胸の鼓動は突然に早くなり出した。縁の下の湿った空気や、手と膝《ひざ》をつく地面の感触がたまらなく嫌だった。土の臭いが鼻につき、知らぬ間に呼吸さえ止めている。窒息しそうだった。  しかし、宮下は、戻ろうとする安藤をよそに、太った身体を縁の下に潜らせようとしていた。井戸のところまで進むつもりなのかと安藤は呆《あき》れ、強い口調で彼を制した。 「よそう、もうたくさんだ」  宮下は無理な姿勢のまま動きを止め、少しためらったが、 「それもそうだな」  と素直に安藤の忠告に従い、後退を始めた。確かにもう充分であった。これ以上何を確認する必要があるというのだ?  ふたりはバルコニーの下から這い出ると、外の空気をおもいっきり吸い込んだ。言葉を交わす必要はなかった。『リング』に書かれた内容は、細部に至るまで事実に即していることがはっきりしたのだ。そして、文章によって喚起される風景が、現実の風景とそっくりそのまま重なるのではという仮説は、ここに証明された。あるべきものが、すべてあるべき場所に存在していた。『リング』を読むことによって、安藤と宮下はこのあたり一帯の風景を、既に一度「見て」いたことになる。湿った縁の下の臭いから足先の感触に至るまで、浅川和行が経験したと同じ感覚を再体験してしまったのだ。  宮下はそれでもまだ満足せず、 「せっかくここまで来たんだから、長尾城太郎の顔も拝んでいこうぜ」  と安藤に誘いかけた。  ……長尾城太郎。  安藤は彼の名前を忘れかけていた。だが、『リング』で読んだだけの、会ったことのない人物にもかかわらず、顔をはっきりと思い浮かべることができる。禿《は》げ上がった頭、五十七歳という年齢にしては色艶のいい整った顔、表面から受ける印象はツルンとして、喋《しやべ》りかたにもそれに近いものがある。話すときの彼の癖までなぜか知っているのだ。  二十年前まで、現在の南箱根パシフィックランドの場所には結核療養所があった。熱海で開業医を営む長尾は、かつてそこの医師を務め、父の見舞いに来た山村貞子を強姦して井戸に投げ込んだ。彼はまた、日本で最後の天然痘患者であるという。 『リング』には、 「来宮《きのみや》駅前の路地を入ったところに小さな平屋の家があり、玄関口には『長尾医院、内科、小児科』という看板がある」  との記述がある。竜司は、そこで長尾城太郎を締め上げ、彼の口から二十五年前に犯した罪を白状させた。同じ場所を訪れ、長尾城太郎の顔を拝見しようと、宮下は言うのだ。  だが、行ってみると、医院の玄関にはカーテンが引かれてあった。休日のため診療を休んでいるというふうではない。長期間ドアの開閉がなされてないらしく下の隙間には砂埃《すなぼこり》がたまり、上の庇《ひさし》にはところどころクモの巣がはられていた。長期にわたる休業、あるいは廃業の気配が、玄関付近だけでなく建物全体に色濃く漂っている。  安藤と宮下は、ここで長尾医師に会うことは無理だろうと諦《あきら》め、路上駐車しておいた車に戻りかけた。しかし、その矢先、熱海国立病院からの細い坂道を降りてくる車椅子が目についた。車椅子には、頭の禿《は》げ上がった老人が小さく座っていて、押しているのは三十歳前後とみられる上品な女性だった。うつろに開かれた老人の両目は、なにを見るでもない無気力に被われ、精神障害に陥っているのは一目瞭然であった。  安藤と宮下は、老人の顔を見て同時に声を上げ、顔を見合わせた。老け込んではいたが、瞬時に、ふたりは彼が長尾城太郎であることを知ったのだ。ここ三ケ月で、長尾は急に老け込み、二十も年を取ってしまったように見えた。安藤と宮下は、老ける前の彼の顔をしっかり思い起こすことができたし、現在の顔にかつての面影を重ね合わせることもできたのだ。  宮下は、老人のほうに近づきながら、 「長尾先生」  と声をかけてみた。老人は何の反応も返さなかったが、長尾の娘であるらしい付き添いの女性は、足を止めて、声のほうに顔を向けてきた。宮下と女性は目と目を合わせ、宮下が軽く会釈をすると女性も軽く会釈した。 「お身体の具合、いかがでしょうか」  宮下は、以前からの知り合いを装い、咄嗟《とつさ》に長尾の容態を尋ねた。女性は、 「ええ、おかげさまで」  とだけ挨拶を返し、迷惑そうにそそくさと立ち去っていった。しかし、収穫は充分だった。昨年の十月、浅川と竜司の訪問を受け、二十五年前の罪を白状させられたショックが引き金となり、長尾は精神に異常をきたしたに違いない。今の長尾には、外界を知覚する力はほとんど失われている。  長尾と娘は、医院の横を抜け、さらに奥の路地に入っていった。安藤と宮下は、長尾の後ろ姿を見守りながら、同じことを考えていた。彼のことではない。車椅子に乗った老人を一目見た瞬間、長尾であると認識してしまった驚きを今更のように噛《か》み締めているのだ。『リング』は風景だけでなく、人間の顔までも正確に「記録」していたことになる。 『小田原厚木道路入口』の標識を見て、安藤は宮下の横顔をそっとうかがった。疲れがにじみ出ていた。朝早くからハンドルを握り放しだったのだから無理もない。 「小田原で降ろしてくれ」  安藤はそう申し出た。宮下は、眉根《まゆね》を寄せ、「なぜだ?」というふうに、顔をちょっと横に向けてくる。 「遠慮しなくてもいい、おまえのマンションまで送り届けてやらあ」 「それじゃ、遠回りになる。小田原からなら小田急で一本だ」  安藤の提案は、宮下の身体を慮《おもんぱか》ってのことだ。鶴見に住む宮下に、代々木まで送ってもらったのでは、数十キロも余分に走らせることになる。肉体的にも精神的にも疲労の色濃い宮下の身体を思えばこそ、早く帰って休んでもらいたいと願うのだった。 「ま、そんなに言うんなら、小田原で降ろしてやるか」  本心では都心部を往復する手間が省けてほっとしてるのだろうが、宮下はそんなことはおくびにも出さず、おまえの我《わ》が儘《まま》を聞いてやるという態度を取る。いつものことだった。宮下は滅多なことでは「ありがとう」というお礼の言葉を口にしない。ありがたく思っていても、率直に表現するのが苦手なのだ。  小田原の市街地を抜け、もうすぐ駅というところで、宮下はぽつりと呟《つぶや》いた。 「連休が明けたら、おれたちも血液検査を受けたほうがいいかもしれないな」  意味を聞く必要はなかった。安藤も同じことを考えていたのだ。嫌な予感があった。傍観者であった者が、当事者の立場へと追いやられてしまった。魔のビデオテープは全てこの世から姿を消し、自分たちはその映像を見なかったのだから、災厄に見舞われることはないはずだった。ところが、『リング』と題されたレポートは、風景と人物を正確かつ客観的に描写している。エイズ患者を診察する医師の立場で接していたにもかかわらず、エイズウィルスがこれまでに判明していない経路で侵入してきたようなものだ。まだはっきりと証明されたわけではなく、ちょっとした疑いが浮上したというに過ぎない。だが、安藤は身体の内側に異物が入り込んだ気配に怯《おび》えた。電子顕微鏡で覗いたリングウィルスと同様の異物が、皮膚の内側、血管の内部を流れ、細胞を侵しながら身体中を巡っているのではという妄想にさっきからずっと縛られている。宮下も同じ思いを味わっているに違いない。  安藤は、著者である浅川和行を除き、最初に『リング』を読んだ人間である。そうして、『リング』には、ビデオテープの映像が克明に描写されている。描写は正確無比で、一目見ただけで長尾城太郎という人物を判別できるほどだ。当然のごとく、ビデオテープを見ると同様の効果が、『リング』を読むことによってもたらされるのではないかと疑問が湧く。  しかし、『リング』を読んだのは、昨年の十一月十九日。すでに二ケ月が経過している。にもかかわらず、明らかな変化は何も生じていない。ビデオテープを見た人間はちょうど一週間で、冠動脈の閉塞《へいそく》を起こして死亡している。突然変異により、潜伏期間が長くなったのだろうか。それとも、ウィルスのキャリアになっただけで発症しないだけなのだろうか。  宮下の言う通り、連休が明け、大学に戻ったらすぐにでも血液検査を受ける必要がある。もし体内からリングウィルスが発見されたら、早目に手を打たなければならない。しかし、どんな手があるというのだ? 「仮に陽性だったとしたら、おまえ、どうする?」  安藤は絶望的な気分で聞いた。 「とにかく、手をこまねいて眺めているわけにはいかない。なにか、方策を捜すさ」  宮下はきっぱりと言い切った。死を恐れる気持ちは、安藤よりもずっと強いはずだ。宮下には、妻と幼い娘がいる。その思いが言葉の端々から感じられた。  車は小田原駅のロータリーに入り、一般車両のレーンをぐるりと一周したところで止まった。助手席から降りると、安藤は軽く手を上げて、走り去る宮下の車を見送った。  ……巻き込まれてしまったかもしれない。  安藤には、初めて浅川の気持ちが理解できた。ふと自分と宮下の姿を、浅川と竜司の姿に重ねた。ふたりの肉体的な特徴や性格を思い浮かべると、なんとまあ似たもの同士かと、おかしくなってしまう。この場合、安藤に対応するのは浅川で、宮下に対応するのは竜司だ。そうして、ふたりとも……、安藤の中途半端な笑いは引きつっていった。ふたりとも死んだのだ。しかもこの手で竜司を解剖した。  小田原駅の改札を通り、ホームのベンチに腰かけたとき、背もたれの冷やっとした感触を背中に受け、解剖台の上に横たわったときもこんなふうに感じるのだろうかと、安藤は死人のような心で思った。疑心暗鬼の状態はより多くの苦しみを生む。例えば、自分は癌《がん》ではないかと疑っている状態のほうが、はっきり癌と告げられるよりもよほど中途半端でつらいものなのだ。現実に直面した災厄にはある程度平気で我慢できるのに、宙ぶらりんの状態には我慢できないという、奇妙な特質を人間は備えている。既にリングウィルスに感染しているのか、いないのか。安藤にとって、苦しさを克服する方法はただひとつ、自分の命が用済みであると納得させることだ。不注意で幼い息子を死なせたという悔恨の情を強くすれば、その分、生命への執着は軽くなるに違いない。  だが、いくらそうしても、寒いホームでロマンスカーを待つ間、安藤の震えは止まらなかった。 3  ロマンスカーのシートに落ち着いても、安藤には窓外の景色を眺める他にすることがなかった。普段なら、本に目を落とすところだが、取るものも取り合えず宮下の車に乗り込んだ安藤は、まさか帰りが電車になるとは夢にも思わず、本の準備を怠っていた。郊外の風景を眺めるうちに覚えた眠気に逆らわず、彼は目を閉じることにした。  目覚めたとき、安藤は自分がどこにいるのかわからなくなってしまった。眠ったまま遠くに連れ去られたような不安に、胸の鼓動が早くなる。心臓の音が聞こえるようだ。足を伸ばそうとして、シートの背にぶつかり、上半身をびくんとさせた。電車特有の振動に下からつき上げられ、遠くからは踏切の音が近づいてきた。  ……電車の中か。  ほっとすると同時に、安藤は、つい二時間ばかり前、小田原で宮下と別れ、運よくロマンスカーに乗ることができたことを思い出した。もう何日も前のような気がする。宮下と一緒に南箱根パシフィックランドを訪れたのが、ずっと昔のように感じられるのだ。場所もまたはるか遠い感じがするのに、高原の風景と長尾城太郎の顔だけは強く瞼《まぶた》の裏に残っている。  安藤は手の甲で両目をこすってから、窓の外に目をやった。夜の街並みがゆっくりと流れていた。終点の新宿に近づいたせいで、電車は速度をゆるめている。カンカンと踏切の警報機が鳴り、赤いランプが点滅していた。安藤は目を凝らして、通り過ぎる駅の名前を読んだ。  ……代々木八幡。  自宅マンションのある参宮橋のひとつ手前の駅だった。参宮橋で降りられれば楽なのに、ロマンスカーは新宿までノンストップで行ってしまう。終点で一旦降り、二つ戻らねばならないのが面倒だ。  代々木八幡で小田急線はほぼ直角にカーブし、代々木公園の暗い緑と並行して走り始めた。見慣れた街並みだった。安藤の席からでは無理だが、右手には帰るべきマンションが見えるはずだった。毎日乗り降りする駅を通過する際、安藤は、左側の窓ガラスに頬をつけてホームを見やった。  弾《はじ》かれたように、安藤は身体の向きを変え、顔をさらに近づけようとして額をガラスに打ちつけた。ホームに佇《たたず》む若い女に見覚えがあったからだ。女は、冬の夜だというのにブレザーをはおっただけの軽装だった。電車とすれすれのところにつんと澄ました顔で立ち、ロマンスカーに視線を投げている。速度を落としているとはいえ、車内から見れば、ホームに立つ人間などまたたくまに視野の外に流れていく。だが、その一瞬、安藤は女と目を合わせた。錯覚ではなく、目と目が合ったときの手応えをはっきりと感じたのだ。  女と出合うのはこれで三度目だった。一度目は、舞の部屋から現れてエレベーターに乗り合わせた。二度目は、舞の死体が発見されたビルの最上階で、エレベーターのドアが開くと同時に鉢合わせした。姿を見たのはたった二回だけ。それでも、安藤は、今もって女の顔を記憶に留《とど》めている。  十分後、新宿でUターンして参宮橋に降り立ったとき、ホームとホームの間には上下の電車が同時に入って視界を塞《ふさ》いでいた。安藤は、改札へ向かう乗客の流れに抗《あら》がってホームの中央で立ち止まり、電車が発車するのを待った。反対側のホームに、女がいないかどうか確認するためである。安藤には、十分を経過した今でも、女が同じ場所に立ち続けているような気がしてならなかった。たぶん、もう一度会いたいという願望が、そんな気にさせるのだろう。  ベルが鳴り、上下線が同時に発車すると、まるで扉が開くように上りホームが見渡せた。電車が行き過ぎた後の余韻が漂う中で、安藤は女の瞳《ひとみ》に再度出合った。勘は当たったのだ。女はさっきと同じ場所に立ち、狙い澄ましたような視線を投げてよこす。その視線を受けて、安藤はうなずいた。女から出された指示に、わかったと意思表示をしたのだ。  安藤は、ゆっくりと改札へ向かった。女は、安藤の動きに合わせるかのようにホームの階段を降りてゆく。ふたりは改札の手前で出合った。 「またお会いしましたわね」  女は、偶然であるかのような言い方をした。しかし、安藤には出合いが偶然であるとは思えなかった。ロマンスカーに乗って参宮橋の駅を通過するのを事前に知っていて、待ち伏せされた……、そんなふうに思われてならない。だが、目の前に立つ女の魅力には、抵抗するだけ無駄というものだ。ふたりは、揃って改札を通り、商店街の小路へと折れていった。 4  朝起きるとすぐ、安藤は隣に寝ていた女に頼まれて、先週封切られたばかりのロードショーに連れてきていた。休日ではあったが、朝一番の回とあって、映画館はそう混んではいなかった。  女は、シートひとつあけて安藤の隣の隣の席に腰をおろしている。映画館に入るまでは腕に腕を絡ませ、ぶら下がるようにして歩いていたくせに、館内に入ると急によそよそしく席をひとつあけて座った。余裕充分な豪華なシートで、決して窮屈なわけではない。女の行動は解せなかった。しかし、彼女の不自然な行動をひとつひとつ上げていたらきりがない。安藤が知り得たのは、彼女が高野舞の姉で、名前を真砂子ということぐらいである。  映画館のスクリーンを見ていても、ストーリーが頭に入ってこなかった。眠かったせいもあるが、それ以上に、隣に座る真砂子の存在が気になっていた。昨夜、参宮橋の駅で出合い、どういう経緯で部屋に連れ込むことになったのか、安藤はうまく記憶を辿《たど》ることができない。駅前のスナックに誘ったのは安藤のほうだった。そこでビールを飲みながら、安藤は彼女の名前を聞いた。  ……高野真砂子、舞の姉です。  安藤が推測した通りの結末。舞より二歳年上の姉は、東京の女子大を出て証券会社に就職したという。だが、それから先があやふやだった。泥酔するほど酒を飲んだわけでもないのに、記憶は断片的だ。どちらから誘ったのか、とにかく真砂子は安藤の部屋に来ることになった。  次のシーンで聞こえるのは水の音だった。覚えている断片において、情景は鮮やかに浮かび上がる。真砂子はシャワーを浴び、安藤はベッドに腰をおろして彼女が来るのを待ったのだ。  水の音がやみ、真砂子は廊下の陰から姿を見せ、なんの断りもなく部屋の明かりを消してしまった。明かりが消えて真っ暗になる一瞬は強く印象に残っている。直後に、真砂子は裸の上半身を押しつけてきた。濡れた髪をタオルで束ね、落ちそうになるのを左手で支えながら、真砂子は、右手で安藤の顔を抱き締めた。きめ細かな肌に吸いつかれ、鼻と口が塞がって窒息しそうになり、肉を押し戻して息を吸い込むのがやっとだ。初々しい肌の匂いを嗅ぎ、安藤は真砂子の背中に両手を回した……。  映画もそっちのけで、安藤は、昨夜、真砂子と繰り広げた痴態の切れ切れのシーンを、思い出していた。女性と肌を合わせたのは一年半ぶりのことである。覚えている限り、安藤は三度射精した。かといって精の強さを単純に誇る気にはならない。もうすぐ三十五歳になろうとする男が一晩で三回できたのは、本人の体力というより、対象に魅力があったからだ。しかし、考えてみれば、昨夜のベッドでの行為は真っ暗闇の中でなされた。いくら真砂子が美しく、行為が挑発的でも、安藤はその肉体を目で楽しむことはできなかった。照明を落としただけではなく、真砂子は、枕元の置き時計をタオルですっぽりと被い、真の闇へと部屋を作り変えた。時計の文字盤の内側から漏れるわずかな光さえ、彼女には我慢ならなかったに違いない。仕草のひとつひとつに、暗黒への執拗《しつよう》なこだわりが感じられた。  安藤はスクリーンを見るふりをして、さっきからずっと隣席にばかり目をやっている。暗闇の中で、真砂子の美しさはより引き立っていた。闇が似合う……、そうこの女は実に暗闇が似合っている。  映画を見ながら、真砂子はしばしば目を閉じた。眠っているのではない。その証拠に、目を閉じながら、唇をもぐもぐと動かしている。何か喋っているふうだったが、聞き取れず、安藤は左肘《ひだりひじ》に体重をかけ、左に上半身を傾けた。  スクリーンと見比べることによって、ようやくわかった。真砂子は、映画の登場人物のセリフを、口の中で小さく繰り返していたのだ。  スクリーンには、札付きのワルだった少女が国家組織の手によって殺人マシーンに鍛え上げられ、初めての仕事に赴く場面が映し出されていた。黒のドレスに身を包んだ女主人公が、ハンドバッグに大型拳銃を忍ばせ、高級レストランに入って行くという緊張感|溢《あふ》れるシーンで、短いセリフがテンポよく繰り出されている。  安藤は、映画などそっちのけで、主人公のセリフをリピートする真砂子を観察していた。すると一瞬、真砂子の声と、映画の主人公の声が重なった。映画のセリフはフランス語であったが、ほぼ同時に真砂子は日本語で合わせている。きれいなユニゾンだった。ときには、字幕よりも早く真砂子の口が開くことがあり、安藤はびっくりさせられた。既に何度か見て、セリフを覚えていなければできない芸当である。  真砂子は、恍惚とした幸せそうな表情で映画の主人公になりきっていたが、自分の横顔に注がれる安藤の視線に気付いたらしく、はっとして口を閉ざした。以後二度と真砂子は口を開かず、無言でスクリーンを眺めるだけだった。  映画館を出ると、真砂子は目を細め、あくびを噛み殺しながら安藤の腕を取ってきた。冬の休日の日差しは穏やかで、安藤は腕を組むよりも真砂子の皮膚に直《じか》に触れたくなり、組んだ腕を一旦ほどいて手を握った。一瞬、ひやっとした感触を得たが、手と手の体温はすぐに均一化され、安藤の長い指の中に女の手は柔らかく溶け込んでいった。  成人の日のため、振り袖姿の若い女性が多い。有楽町から銀座方面へと、安藤と真砂子は人の流れに逆らわず歩いた。どこかで昼食をとるつもりだったが、別にあてがあるわけでもなく、ただぶらぶらと歩きながら手頃なレストランを見つけるつもりだった。  真砂子は、左右に顔を巡らせ、好奇心もあらわに銀座の街角にきょろきょろと目を向け、ときどき溜《た》め息を漏らしたりする。会話らしい会話はなかったが、気詰まりに感じることもなく、安藤は妙に満足した気分で晴れた休日の銀ブラを楽しんだ。  真砂子は角のハンバーガーショップの前で足を止め、立て看板のポスターを真剣な顔で眺めた。ハンバーガーのポスターにじっと見入る表情には、十代のあどけなさが垣間見える。 「ここで食べたいの?」  安藤が尋ねると、真砂子は、 「うん」  と、強くうなずいた。安上がりで結構と、安藤はハンバーガーショップに入った。  真砂子の食欲には驚嘆すべきものがあった。またたく間にハンバーガー二個とフライドポテトをたいらげ、物欲しそうな視線をなおもカウンターの上に注いでいる。  聞いてみれば、欲しいのはアイスクリームということで、追加注文して手渡すと、今度は食べ終わるのを惜しむような手つきで、ゆっくりとたいらげてゆく。丁寧に口に運んでいたつもりでも、溶けかかったアイスクリームを、スプーン一杯分、膝の上に落としてしまった。ストッキングの上を、イチゴ粒の混じった乳白色の滴が転がる。真砂子は人差指で掬《すく》い上げては舐《な》めていたが、じれったくなったのだろう、むこう脛《ずね》を両手で抱え込むようにして、がぶりと膝頭に直接口をつけ、舌の先で舐め回した。その姿勢のまま、上目遣いに安藤の顔色をうかがい、意味ありげな視線を投げかけた。挑発するような目であったが、安藤は、真砂子の目から視線をはずそうとはしなかった。舐め終わって、膝をもとに戻すと、買ったばかりのストッキングには伝線が走っていた。犬歯で引っ掛けてしまったに違いない。  今朝、出掛けに、駅前のコンビニエンスストアで、安藤が買ってあげたストッキングだった。真砂子はストッキングを持ってないらしく、真冬にもかかわらず素足をさらしていた。見ているほうが寒けを覚えてしまい、本人の意向を確かめもせず買い与えたのだが、手渡すとすぐ真砂子はトイレに駆け込んで身に着け、そのまま脱ぐことはなかった。  真砂子は、伝線が気になるらしく、しきりに膝のあたりに指を這わせている。  安藤は、真砂子の一挙一動を眺めているだけで飽くことがなかった。  ……どこからともなく現れたこの女に、おれは溺《おぼ》れているのだろうか。  安藤はそう自問してみる。溺れているというより、自暴自棄になっているのかもしれなかった。『リング』という奇妙なストーリーを読むことによってリングウィルスのキャリアとなり、徐々に身体が蝕《むしば》まれていくとしたら、手に入れたばかりの快楽の種をそう早く放すわけにはいかないのだ。  学生時代に、山間の村を舞台にした小説を読んだことがあった。物語の中には、安藤が今向かい合っている女と同タイプの女が出てくるのだ。人並みはずれた器量の持ち主にもかかわらず、常人と掛けはなれた言動のせいで「気がふれている」と村人たちからレッテルを貼られ、女は、決まった相手のいない男たちの慰み者になる。住む家もなく、着流しで樹林をさまよい、だれかれの見さかいなく村の男を受け入れる姿は、人里離れた山間というシチュエーションも手伝って、幽遠なエロティシズムを漂わせていた。山間の村が舞台ならではの、人物と風景との見事な調和があった。現代の大都会にそんな女を配しても、たちまち雰囲気は崩れるに違いない……、本を読んだとき、安藤はそんな感想を持った。  ここは東京のど真ん中、銀座であり、山間の村ではない。小説の主人公の持つ雰囲気は、真砂子と似ている。しかし、現代的な美人である真砂子は、ハンバーガーショップの丸椅子に腰かけ、何の違和感もない。  安藤は、ふと小説のラストを思い出した。女は、だれが父親とも知れぬ子を、ひとり山の中で生むのだ。産声が、樹林を抜け、遠くの山肌に谺《こだま》するところで、物語は終わっていた。  ……そうなってはならない。  振り返って、安藤は自分を戒めた。真砂子の身体を傷つけないよう、細心の注意を払わねばならない。安藤は、昨夜のことを思い出していた。交わることによって得た喜びと興奮は大きく、その中で我を忘れ、避妊をおろそかにしていた。  真砂子は、膝頭を指でさすり、円を描きながらストッキングの穴をだんだんと広げている。破れ目からのぞく足は、その個所だけが白く際立っていた。ストッキングで被うのが惜しまれるほどの白さだ。  穴はどんどん大きくなっていく。安藤は、真砂子の手に手を載せ、動きを止めてから、言った。 「さっき、映画館で、なに喋ってたの?」  映画の登場人物のあとからセリフを繰り返すことに、どんな意味があるのかと、安藤は聞いたつもりだった。だが、それに対する真砂子の答えは、 「本屋さんに連れてって」  である。いつもこのようにして、質問ははぐらかされていた。質問に答えるよりも、して欲しいことを安藤に頼み込む回数のほうがずっと多いのだ。そして、安藤はといえば、もちろんいやとは言えない。  銀座で一番大きな書店に連れてゆくと、真砂子は棚から棚を飛び回り、一時間以上も立ち読みに耽《ふけ》った。立ち読みにそれだけの情熱をかけきれない安藤は、所在なさげにあちこちをうろついていて、レジ横のカウンターにS書房の発行する小冊子が置いてあるのを発見した。つい先日訪れたばかりのS書房だけに、安藤は無料で配布されているその小冊子を手に取ってみた。  小冊子には、エッセイ程度の短い文章も載っていたが、おおかたはS書房から出版予定の本の宣伝に当てられている。  ……ひょっとしたら、高山竜司の名前が載っているかもしれない。  安藤はその期待で、ページをめくった。竜司の遺作である哲学論文集が来月発売予定であることを、つい先日、担当編集者の木村から知らされたばかりだ。友人の名前を活字で見るのは楽しいものである。  だが、名前を見つけるより先に、安藤は、真砂子に引っ張られて書店の外に連れ出された。 「よかったら、もう一本、映画を見ない?」  やんわりとしたねだりかただったが、うむを言わさず、腕を取って引いていく行為は強引きわまりない。たぶん、雑誌かなにかで情報を得て、急にまた見たくなったのだろう。安藤は、小冊子をコートのポケットに入れ、真砂子に尋ねた。 「何が見たいの?」  真砂子は答えず、安藤の手を握ってぐいぐいと引っ張って行く。 「強引だなあ」  とのけぞりながら、安藤は、真砂子の片手に情報誌が握られているのを見て、足を止めた。昨晩から真砂子は一円の金も使ってなかった。払おうという意思を微塵《みじん》も見せず、すべて安藤の払いに任せてきたのだ。にもかかわらず、彼女の手には、情報誌がある。お金を出して購入したとは思えない。その証拠に、書店の袋もなく裸のまま、情報誌は彼女の手に丸められていた。  ……こいつ、万引きしやがったな。  安藤は、書店を振り返った。追ってくる者はだれもいない。うまく店員の目をかすめたのだ。たかが三百円程度の雑誌である。バレたとしてもたいしたことはないだろう。真砂子に手を引かれて歩くうち、安藤は、これまでになく大胆になっていくのを感じた。 5  鍵穴にルームキィを差し込んだとき、部屋の中から電話のベルが聞こえた。安藤は、たぶん間に合わないだろうと諦め、慌てることなくノブを回した。部屋の狭さを知っている友人の場合、五、六回鳴らしただけで切ってしまうことが多く、その切り方で、安藤はだれからの電話なのかおおよそ察することができた。思ったとおり、ドアを開け放つと同時に、電話のベルは鳴りやんだ。間違いなく、部屋の狭さを知っている人間の切り方と思われた。安藤の部屋に来たことのある人間はそう多くない。たぶん、宮下だろうと見当をつけ、安藤は時計を見た。夜の八時を少し過ぎたところだ。  ドアを広く開けて真砂子を招じ入れると、安藤は部屋の明かりをつけ、エアコンのスイッチを入れた。今朝部屋を出たときのままに、服が脱ぎ散らかしてある。真砂子は、今晩も安藤の部屋に泊まると決めていたのか、荷物を放置していったのだ。  午前と午後、二回続けて映画を見たせいで、肩から背中にかけて凝りのようなものを感じる。湯に浸《ひた》りたかった。  安藤は、コートを脱ごうとして、ポケットにS書房の小冊子が入っているのに気付き、取り出してベッド横のテーブルに載せた。風呂を出てから、ゆっくり目を通すつもりだった。購入すると決めていたので、竜司の書いた本のタイトルと発売日を、もう一度確認しなければならない。  シャツ一枚になって腕まくりすると、安藤はバスタブをさっと洗い、温度を調節して湯を注ぎ入れた。狭いバスタブはすぐに湯で溢《あふ》れ、バスルーム全体が湯気で煙っていった。換気扇を回してもあまり効果がない。真砂子から先に風呂に入ってもらうつもりで部屋を覗くと、真砂子は、ベッドの端に腰をかけて、ストッキングを脱ごうとしていた。 「先に風呂に入るかい?」  安藤がそう言うと真砂子は立ち上がった。と同時に電話のベルが鳴った。  電話に歩み寄る安藤と入れ替わるように、真砂子はバスルームへと姿を消し、アコーディオンカーテンを閉めた。  思った通り、電話の主は宮下だった。受話器を耳に当てるなり、宮下は、 「一日中、どこほっつき歩いてやがったんだ」  と怒鳴り声を上げた。 「映画だ」  およそ予期せぬ答えが返ったためだろう、宮下はすっ頓狂《とんきよう》な声を上げた。 「なにい、映画?」 「二本、はしごした」 「なんと、まあ、呑気な」  心底呆れたようにそう言ってから、宮下は文句をぶつけてくる。 「何度も電話したんだぞ」 「いつも家にいるってわけでもないさ」 「まあいい、ところで、おれ、今どこにいるかわかるか?」  宮下が電話をかけている場所……。自宅からではなかった。道路沿いの電話ボックスかららしく、車の流れる音が受話器から漏れている。 「まさか、近くに来てるから、部屋に上げろっていうんじゃないだろうな」  今はマズイ。真砂子が入浴中だ。そう頼まれても、安藤は断るつもりでいた。 「ばか、そんなんじゃない。劇団だよ、劇団」 「なに、劇団?」  今度は安藤が呆れる番だった。映画を見てきた人間を呑気と笑った奴が芝居見物とはなに寝惚《ねぼ》けてやがると。だが、宮下は別に芝居見物をしたわけではなかった。 「劇団飛翔の事務所前だ」  劇団飛翔という名前を、安藤はどこかで見た記憶があった。どこだろう? そう、思い出した。その名前は『リング』に記載されている。山村貞子が死ぬ直前に属していた劇団が、確か劇団飛翔という名前だった。 「そんなところで、おまえ、なにしてる?」 「昨日、『リング』に書かれた描写が、まるでビデオカメラのファインダーから覗いたように客観的で正確だってことを発見した」 「それはおれも確認した」  なぜまた同じことを繰り返すのだろうと訝《いぶか》りながら、安藤は、ふと目についたS書房の小冊子を手元に引き寄せ、その余白にボールペンでメモを始めた。安藤には、メモを取りながら電話をする癖があった。そうすると妙に落ち着くのだ。左肩で受話器を挟み、右手にボールペンを握るのが、彼特有のスタイルである。 「もうひとつ確認すべきだと、今日、気付いたんだ。やはり人の顔なんだが……、わざわざ熱海まで出向かなくても確認できる人間の顔が近くにあった」  安藤は、じれったく感じた。宮下が何を言いたいのか皆目見当がつかないからだ。 「じらすな、はっきり言ってくれ」 「山村貞子だよ」  宮下は吐き捨てるようにその名前を口にした。 「おいおい、山村貞子は、一九六六年に死んだ……」  安藤はそこで一旦言葉を止めた。なぜ宮下が劇団飛翔を訪れたのか、その関連がふとひらめいたからだ。 「そうか、写真か」 『リング』の中には、M新聞横須賀支局の吉野記者が、劇団飛翔の稽古場を尋ね、過去に在籍した山村貞子の履歴書を見せてもらったという件《くだり》があった。入団時に提出する履歴書には、胸から上のものと、身体全体のものと、二枚の写真が貼られていて、吉野記者は、その場で写真をコピーさせてもらったのだった。 「やっと気付いたか。おれたちは、山村貞子の顔を簡単に拝むことができたんだ」  安藤は山村貞子の人物像を思い浮かべてみた。『リング』を読んだことにより、山村貞子の顔は強烈なイメージとなって頭に残っていた。すらりと背は高く、胸の膨らみはさほどではないが、身体の均整はすばらしくとれている。どちらかといえば顔は中性的で、目鼻立ちは完璧《かんぺき》で非の打ち所がない。近づきがたい美人といったイメージだ。 「で、どうだった。おまえ、写真を見せてもらったんだろ」  安藤は勢い込んで尋ねた。宮下は写真を見たのだ。そして、思った通り、山村貞子の顔は、彼の抱いていたイメージとぴったり重なった。それを報告するためにわざわざ電話をかけてきたのだ。安藤は、宮下が電話した理由をそう考えた。  だが、受話器の向こうから聞こえたのは、深い溜め息だった。 「違うんだよ」 「違うって、何が?」 「だから、顔が違うんだ」 「…………」  安藤は二の句が継げなかった。 「うーん、なんと言ったらいいのか、写真で見た山村貞子は、おれがイメージしていた山村貞子とは違う。美人には違いないんだが。なんていったらいいのか……」 「どういうことだ?」 「どういうことなんだか……、混乱してきたよ。ただふと思いついたんだ。おれの友人に、人の似顔絵がうまい奴がいて、あるときそいつに聞いたことがあるんだ。どんなタイプの顔が苦手なのかと。すると、そいつは、苦手な顔などないと言った。どんな顔でもそれなりの特徴があって、絵と実物を似させるのは簡単だってな。でも、どうしてもひとつ上げろと言われれば、描き辛《づら》いのは自分の顔だろうって。特に描く人間の自意識が強い場合、自分の顔と絵はどんどん離れ、別人のようになってしまうってな」 「だから?」  ……それが今度の場合にどうあてはまるというのだ? 「いや、なんでもない。ただちょっと思い出しただけだ。魔のビデオテープにしてもそうだろう。あれは、ビデオカメラで撮影した映像ではなく、山村貞子の目と心で作られたものだ。にもかかわらず……」 「にもかかわらず?」 「風景も人物も忠実に再現されている」 「実際に映像を見たわけではない」 「ああ、だが、『リング』にはそう書かれている」  安藤は少し苛々《いらいら》してきた。宮下の話しっぷりに、どこか躊躇《ちゆうちよ》する気配が見られる。踏み出したいのに、怖くて一歩が踏み出せない子供のようだ。 「なあ、宮下。おまえの思っていることをずばり言ってくれないか」  受話器の向こうで、宮下は息を吸い込んで止めた。 「『リング』を書いたのは本当に浅川和行なのだろうか?」  ……じゃ、だれなんだ。  そう言いかけたところで、度数切れを知らせるブザーが鳴った。 「あ、だめだ、カードが切れる。おい、おまえのファックス、写真を送っても大丈夫か」  宮下は早口でそう尋ねた。 「大丈夫だ。その宣伝文句に釣られて買ったやつだから」 「じゃ、今から送る。おまえにもすぐ確認してもらいたい。イメージと写真の顔が違うかどうか。おれだけの勝手な……」  そこで電話は切れた。  受話器を肩に挟んだまま、安藤はしばらくぼうっとしていた。バスルームから聞こえていたシャワーの音が途切れ、部屋は静寂に包まれている。やけにすーすーと風の通りがいいので、窓のほうを見ると、サッシが少しだけ開き、その隙間から、冬の夜気が部屋に流れ込んでいた。遠くの路上でクラクションが鳴っている。殺伐《さつばつ》とした渇いた響きだ。外の空気が乾燥していることを、音は端的に伝えている。それに比べ、部屋の空気は湿り気を帯びていた。バスルームから漏れてくる蒸気で部屋の空気は濡れてしまったのだ。真砂子はやけに長湯だった。  安藤は、宮下から言われたことを頭の中で反芻《はんすう》してみた。彼の心理はよく理解できる。たぶん今日一日、いてもたってもいられなかったのだろう。『リング』を読むことによって、自分の肉体にリングウィルスが入ってしまったのかどうか、あれこれ考えるよりもまず彼は動いた。そして、劇団飛翔の事務所に山村貞子の写真が保管されていることを思い付き、確認するぐらいのつもりで訪れたのだ。ところが、あにはからんやイメージと写真は違っていた。彼は、自分だけの問題かどうかの判断に苦しみ、安藤の判断も仰ごうと、写真をコピーした。そうして、今まさにファックスで送ろうとしているのだ。  安藤は、ファックスマシンにチラッと目をやった。まだ動き出す気配はない。  マシンから顔を戻すと、S書房の小冊子が目に入った。時間つぶしに、安藤は、手にとってペラペラとめくってみる。近刊案内は最後のページに載っていた。『二月に出る本』というタイトルの下、十数冊の本の名前と著者名が列記され、十文字程度で本の内容を紹介してある。順に眺めていくと、ちょうど真ん中あたりに高山竜司の名前を発見した。タイトルは『知識の構造』で、内容説明には『現代思想の最前線』とある。恋愛小説とテレビの舞台裏を綴《つづ》ったエッセイ集に挟まれ、竜司の作品はひときわ堅い印象を受ける。友人の遺作なのだ。たとえ難しかろうと、読まないわけにはいかない。安藤は、竜司の本にボールペンで印をつけようとした。  頭の中でなにかが弾ける手応えがあった。なんだろう。安藤は、ペンを握った手を止め、考えた。小冊子の、同じページに、慣れ親しんだ単語を見たような気がしたのだ。視線を下にずらせた。下の段には、三月出版予定の本のタイトルが、上の段よりも一回り小さな活字で列記されている。そのラストから三番目のタイトル……。  安藤は驚きのあまり、目をみはった。単なる偶然かとも思われたが、著者の欄に記された名前からみて間違いはない。  そこにはこうあった。 『三月に出る本』  …………  …………  リング 浅川順一郎 戦慄のカルトホラー …………  安藤は思わず小冊子を手から落としていた。  ……出版する気なのか!  S書房のラウンジで浅川順一郎に出会ったとき、彼は、やけによそよそしく、安藤を避けるような態度をとった。その理由が今ようやくわかったのだ。  順一郎は、弟の和行が書いた『リング』というルポルタージュに手を加え、小説としての体裁を整え、発表しようとしている。弟の作品の無断借用であると知っているのは、安藤だけだ。だから、順一郎は、安藤に冷淡な態度をとり、挨拶《あいさつ》もそこそこに逃げ去った。長々と話し込めば、話題がそこに及び、同僚の編集者に知られないとも限らない。彼は、いかにも自分の書いた小説として、本を出したかったのだ。 「出版させるわけにはいかない!」  安藤は短く叫んだ。少なくとも、『リング』が人体に無害であると証明されるまで、出版を延期させねばならない。それが医師としての務めだった。明日、安藤と宮下は、血液検査を受ける。結果が出るまで数日かかるだろうが、もし仮に、陽性……、つまりリングウィルスのキャリアであると判明した場合、本の出版はたいへんなカタストロフィをもたらすことになる。最初に誕生した魔のビデオテープは一本だけだ。ダビングしたとしても、一本ずつ増えてゆくに過ぎない。ところが、出版となると数字は桁違《けたちが》いに大きい。最低でも一万、へたをすれば数十万数百万単位にまで膨れ上がる。同時多発的にそれだけのものが全国にばらまかれるのだ。  安藤の奥歯がカチカチと音をたてた。彼がイメージしたのは巨大な津波だった。そびえる海の壁は黒く、しかし、音もなくやってくる津波。波の圧力で巻き起る風を、安藤は、身体に感じたような気がした。窓辺に寄り、開いていたサッシ窓をきっちりと閉め直す。その位置から廊下に目をやると、バスタオルを腰に巻き、バッグに手を入れている真砂子の横顔が見えた。下着でも捜しているのか、真砂子はバッグに手を入れてガサガサとかき回している。  電話が鳴った。安藤は受話器を耳に当て、ファックスであることを確かめてから、受信モードを切り替えた。宮下が、写真を送ろうとしているのだ。  数秒後、ファックスはジジジジと音をたてて、プリントを排出し始めた。安藤は、直立不動の姿勢で、真っ黒なボディからプリントアウトされる白い紙を見下ろしている。背後に人が忍び寄る気配を感じて、振り返った。真砂子は、ショーツをはいただけの格好で、それまで腰に巻いていたバスタオルを肩にかけ、すぐ後ろに立っていた。上気した顔の中、目だけがこれまでにない光を宿している。抱き寄せ、瞼《まぶた》にキスしたくなるほどに、潤いのある目。どこか覚悟を決めた表情とも見える。  ピーという音で、ファックスマシンは排出を終えたことを知らせた。安藤は、プリントをひきちぎり、ベッドに腰を下ろして、それを見た。プリントには二枚の写真が並んでいた。写真と同じとはいえないが、画質はそこそこに鮮明だった。そこに写っている山村貞子の顔と全身。  安藤は悲鳴を上げた。確かに、彼がイメージした山村貞子とは別の人間が写っている。しかし、彼が悲鳴を上げたのはそのためではない。ファックスに印刷された二枚の写真は、まごうかたなく、今、目の前に立っている女を写したものであった。  女は、安藤の前に立ち、彼の手からファックスを取り上げ、写真に見入った。安藤は、力なく、母親に叱《しか》られた少年のような面持ちで、女を見上げていたが、喉の奥からようやく声を絞り出した。舞の姉というのも、真砂子という名前も嘘《うそ》だ。 「山村貞子……、だったのか」  女の口もとが緩んだ。安藤の狼狽《ろうばい》がおかしく、笑っているように見える。  安藤の頭の中は真っ白になっていた。もうすぐ三十五年になろうという人生で、意識を失うのはこれが初めてであった。 6  安藤が意識を喪失していた時間は、一分にも満たなかったが、それで充分であった。つきつけられた現実に対処する術がなく、一旦は思考を停止せざるを得なかったのだ。もう少し余裕があれば、彼の意識は持ちこたえたかもしれない。「あるいは……」という可能性を事前に思い浮かべていれば、気を失うまでには至らなかったかもしれない。  だが、全てはあまりに突然過ぎた。二十五年前に死んだはずの女が眼前に立ち、しかも、昨夜、その女と数度にわたって肌を合わせたことが脳裏に甦《よみがえ》ったのだ。そのとたん、発狂しそうになり、思考回路は一旦停止を余儀なくされた。夜中にトイレに立ち、振り返ったとき、死んだはずの人間が立っていたりすれば、たいがいの人は腰を抜かして意識を失う。そうやって、人間は眼前に提示された恐怖から逃れることができる。意識を失えば、もはや耐え難い恐怖を耐える必要はない。ワンクッションを置いてから、現実を受け入れる態勢を整える他ないのだ。  意識が戻ったとき、安藤は、鼻の奥のほうで皮膚の焦げる臭いを嗅《か》いだような気がした。ベッドにうつ伏せに倒れたはずが、いつの間にか仰向けになっている。自分で寝返りを打ったか、あるいはだれかにひっくり返されたかだ。上半身はベッドに乗っていたが、足は床に投げ出され、両足をきれいに揃えていた。身じろぎもせず、安藤は鼻をクンクンさせ、耳を澄ませた。目はほとんど閉じたままだった。感覚を一気に甦らせるつもりはない。徐々に慣らしながら、受け入れていくつもりだった。でなければまた同じ反応を繰り返してしまう。  水道の蛇口から水の迸《ほとばし》る音がする。バスルームからだろうが、遠くのせせらぎのように聞こえた。水音のせいで、夜の都会の音が消されていた。普段なら、首都高速を走る車の流れが、もう少し間近に感じられるはずだった。薄く目を開けると、天井の真ん中で二十ワットの蛍光灯が二本|灯《とも》されているのがわかった。部屋は煌々《こうこう》と明るい。  安藤は、仰向けのまま、目だけを動かして部屋の様子を確かめると、恐る恐る上半身を持ち上げた。目の届く範囲にはだれもいない。狐につままれたような気分、と思う間もなく水音がやんだ。彼は、無意識のうちに息をつめていた。  廊下の角から女が顔を出した。さっきと同じく、下着をつけただけの格好で、手に絞ったタオルを持っている。  叫ぼうとして、安藤の喉《のど》からは声が出なかった。濡れタオルを差し出そうとする手を払いのけ、よろよろと立ち上がると、一方の壁に背中を張りつかせた。安藤は、女の名前を叫ぼうとしたが、声にならない。  ……山村貞子。  そうして、彼女の素姓を思いつく限り列挙する。二十五年前、古井戸に投げ込まれて殺された女。魔のビデオテープを念写した張本人。稀代《きたい》の超能力者にして、睾丸《こうがん》性女性化症候群……、いわゆる半陰陽の女。安藤は、女の下半身に目を凝らした。白いショーツに被われた股間に、目立った膨らみは見られない。睾丸を有するといっても、外部に目立つかたちで存在するわけではないのだ。なによりも、安藤は昨夜何度もそこに触れ、愛撫を繰り返した。妙な違和感を覚えることもなく、彼女の女性は完璧と思われた。だが、はっきり目で見たわけではない。昨夜の行為はすべて闇《やみ》の中でなされた。安藤はふと思い至った。見られたくなかったから、女は執拗《しつよう》に闇にこだわったのかもしれないと。  この女と初めて会ったときに感じた妖気は、やはり正しかった。高野舞のマンションのエレベーターで、一緒に乗り合わせた安藤は、ちょうど今と同じ格好をして、女から一センチでも遠ざかろうとした。女は、高野舞の部屋から湧《わ》き出たような現れ方をした。一体、どこからやって来たのだ?  質問したいことは山ほどある。だが、安藤は呼吸するのがやっとで、まだ口をきける状態ではなかった。  ちょっと油断すれば、その場にへたり込みそうになる。そうして、一旦へたり込めば、貞子の術中にはまるような気がした。貞子よりも高い位置に視線を置いて見下ろすのが、威厳を保つための精一杯の反抗であった。  安藤は、女からけっして視線をはずそうとはしなかった。  下着をつけただけの肌の色が、蛍光灯の下でほの白く浮き立っていた。きめ細かな肉の存在感はリアルで、幽霊でないことを強くアピールするかのようだ。昨夜、幾度となくお互いの手と手、足と足を絡ませた肉体が、生々しく圧倒してくる。呪縛《じゆばく》から逃れるために、安藤は何をすべきか。答えはひとつ。逃げるのだ。まずこの場から逃げる。他の方法は思いつかない。目の前にいるのは化け物なのだ。二十五年間の死から甦った女……。  安藤は、背中を壁に押しつけたまま、横に移動して玄関へと向かった。貞子は、安藤の動きを目で追うだけで、行く手に立ちふさがろうとはせず、視線だけを絡ませてくる。安藤はドアのほうに目をやった。部屋に入ったとき、鍵をかけただろうか。かけた覚えはない。ノブを回せばすぐに開くはずだ。安藤は油断なく、そろそろと移動した。コートを取っている余裕はなかった。  女との距離が二メートル以上に開くと、安藤はドアに突進して部屋の外に転がり出た。スラックスにセーターという冬の夜には寒すぎる格好だったが、気にも留めずマンションの階段を駆け降りる。ロビーを抜け、歩道に出てようやく、安藤は背後を窺《うかが》った。追ってくる気配はない。見上げると、自分の部屋から明かりが煌々と漏れている。人のいるところに行きたかった。とりあえず駅の方角を目指して、安藤は走った。 7  夜風が冷たく、身体の芯《しん》まで冷えてくる。どこに行くというあてがあるわけではなかった。代々木公園の鬱蒼《うつそう》たる森に背を向け、安藤の目は自然と明るいほうへ向けられた。新宿副都心の摩天楼は、幾重にも重なる黒い影となってそびえていたが、その手前の、参宮橋の駅のほうにわずかばかり喧噪《けんそう》の立ち上る気配がある。細い路地が商店街となって住宅地の中に延びていて、休日の夜であっても、開いている店の一軒や二軒はありそうな雰囲気だ。安藤の足は自然と、人のいるほう人のいるほうへと向かった。  駅の券売機の前に立って初めて、安藤は財布を忘れてきたことに気付いた。部屋に取りに戻るわけにもいかず、彼は反対側のポケットを探ってみる。手に触れたのは免許証だった。昨日、宮下と出かけたドライブで、ハンドルを握るかもしれないとポケットに入れ、そのまま抜き忘れていたらしい。免許証には予備の紙幣が挟んである。  五千円札が一枚。部屋から持ち出せた財産はたったそれだけだ。寒さよりも、心細さが身に染みてくる。今晩どこに泊まれというのか。五千円ではカプセルホテルにも泊まれそうにない。  頼れるのは宮下だけだ。先に電車の切符を買ってから、安藤は電話ボックスに入った。まだ帰ってはいないだろうと、あまり期待しないで番号をプッシュする。予想通り、宮下はまだ帰ってなかった。無理もない。さっき四ツ谷から電話をもらったばかりなのだ。今頃、彼は家路を急いでいるだろうと見当をつけ、安藤は、鶴見にある宮下のマンションに向かうことにした。  夜の九時過ぎ、安藤は電車のシートに深く身を沈めた。目を閉じると、条件反射のように山村貞子の顔が浮かぶ。ひとりの女への感情が、短期間のうちに、これほど目まぐるしく移り変わったことはない。初対面で感じた凍りつくほどの妖気は二度目の出合いで薄れ、代わって浮上したのは彼女に対する欲望だった。三度目の出合いでその願望を果たすと、ほのかな恋心を抱くまでに膨れ上がった。そして、いきなり突き落とされた。高みに上らされ、さんざん弄《もてあそ》ばれ、挙句の果てに奈落の闇に突き落とされたのだ。二十五年前に死んだはずの女と交わったという現実に我慢がならない。屍姦《しかん》という言葉を思い浮かべてしまう。彼女は一体どこからやってきた? 二十五年前に死んだという記述が誤りなのか、それとも本当に冥界《めいかい》から甦ったのか。  休日の夜とあって、立っている乗客は数人だけだ。安藤のすぐ前のシートには、三人分の席を占領して労務者風の男が寝そべり、両目を固く閉じている。眠っているわけではなかった。それが証拠に、車両を行き来して乗客が通るたびに、薄く目をあけてあたりの気配をうかがうような顔付きをする。生きているのか死んでいるのかわからないどんよりとした目の色。安藤は男から目を背けた。男だけではない。車内にいる乗客は皆、死人のように青ざめた顔をしていた。  安藤は両手を肩に回し、震える自分の身体を押さえ続けた。そうしていないと、人目もはばからず叫び出しそうになる。  宮下からブランデーグラスを受け取り、一筋のアルコールが喉を伝う感覚を確かめてから、安藤は残りを一気に飲み干していった。ようやく人心地がついたが、まだ身体は小刻みに震えている。 「どうだ、気分は?」  宮下は尋ねた。 「どうにか生きてるってところだ」 「よほど寒かったとみえる」  宮下はまだ知らない。冬の夜にコートも羽織らずやって来た理由……。 「寒いからじゃない」  安藤が通されたのは、宮下が書斎として使っている個室だった。部屋の隅に置かれた予備のパイプベッドに腰かけ、今晩の夜具となるはずのそのベッドを、彼はまだ揺らせていた。二杯目のブランデーを飲み終わる頃になってようやく、震えは引きかけた。 「何があったんだ?」  宮下はやさしく尋ねた。  安藤は語った。昨晩から今日にかけての出来事を子細に……。  喋《しやべ》り終わると、安藤はベッドに仰向けに倒れ、蚊の鳴くような声を上げた。 「お手上げだ。なあ、おまえ説明してくれないか、一体どういうことなのか」 「なんとまあ……」  話の内容に、宮下は心底呆れたようだった。こんなとき人間はつい苦笑いを漏らしてしまうらしい。宮下は力なく笑い続けた。笑いやむと、熱いコーヒーにブランデーを注ぎ、ちびちびと舐《な》め出す。そうしながら、じっと考え込んでいるのだ。合理的な回答、辻褄《つじつま》の合う答えを捜すために。 「問題は、山村貞子がどこからやって来たのか、だ」  その口調から、宮下がある結論に達したらしいとわかる。 「教えてくれ、あの女はどこから来た?」 「わかってるんだろ?」  宮下は安藤に問う。 「いや」  安藤は寝転んだまま、首を横に振る。今にも泣き出しそうな表情だった。 「本当にわからないのか」 「言えよ、あの女はどこから来た?」 「高野舞が産んだんだ」  安藤は一瞬呼吸を止めた。そうして、別の解釈があり得るかどうか、吟味しようとした。だが頭が働かない。思考能力が失われている。できるのは、同じセリフを繰り返すことだけだ。 「高野舞が産んだ?」 「魔のビデオテープは山村貞子の念によって誕生したものだ。高野舞は、ちょうど排卵日に映像を見て、体内に誕生したリングウィルスの侵入を受けて受精した。いや、受精というより、舞の卵子は、核の部分が山村貞子の遺伝子とそっくり入れ替わってしまったのだ」 「おまえに、そのメカニズムが説明できるとでもいうのか」 「思い出してほしい。おれたちはリングウィルスを塩基自動解析装置にかけて分析した。その結果、天然痘の遺伝子と人間の遺伝子が一定の割合で混合していることを発見した」  安藤はベッドから起き上がって、グラスに手を伸ばした。グラスは空になっている。 「その、人間の遺伝子とは……」 「そうだ。数十万個のパーツにバラされた山村貞子の遺伝子」 「数十万のリングウィルスが、細切れにされた山村貞子の遺伝子を運んだというのか」 「DNAウィルスにもかかわらず、リングウィルスは逆転写酵素をもっている。運んだ切片を一個一個、別の細胞核に填《は》め込むこともできるはずだ」  一個のウィルスでは、DNAに書き込まれた人間の全遺伝情報を一度に運ぶことはできない。人間のDNAのほうが桁違いに大きいからだ。しかし、人間のDNAを数十万のパーツに切断し、ひとつのパーツを一個のウィルスが担うとしたら……。電子顕微鏡写真には、うようよと群れた無数のリングウィルスが写っていた。バラバラにされた山村貞子の遺伝子を抱え、そいつらは舞の卵子に群がったのだ。  安藤は一旦立ち上がりかけたが、思い直して腰を元に戻した。反論しようとすると、彼の動きは落ち着きのないものになる。 「しかし、山村貞子は二十五年前に死んだ。今になって、彼女の遺伝情報が発現するはずはない」 「そこなんだ。なあ、山村貞子は、なぜ、ビデオテープにあんな映像を念写したと思う?」  死ぬ間際、井戸の底で、山村貞子は何を念じたのだろうか。大衆への怨念を映像に込め、映像を見た人間ひとりひとりに恐怖をもたらそうとしたのか。実際問題として、そんなことをして何になる? 映像にはもっと重大な意味が込められた……。宮下が何を言おうとしているのか、安藤には想像がつかない。彼が言いたいこと……。 「彼女はまだ十九歳だった」  宮下は答えを誘導する。 「だから?」 「死にたくはなかったはずだ」 「ああ、若すぎる」 「山村貞子は、自分の遺伝情報を暗号化し、エネルギーとしてその場に残したとは考えられないか」 「…………」  何も答えないで、安藤はただ溜め息をついた。  ……自己の遺伝情報を、映像に翻訳して念写する?  確かに、高山竜司は、DNAの塩基配列を「MUTATION」という英単語に暗号化し、メッセージとして伝えるのに成功した。だが、人間の遺伝情報は膨大だ。一本のビデオテープに翻訳できるような量ではない。 「無理だ。人間の遺伝子は巨大すぎる」  安藤はようやくそう反論した。  宮下は両手を広げ、部屋の隅から隅を指し示す。 「例えば、この部屋にあるすべての情報を文字で表現すると仮定してみろ」  書斎は八畳ほどの広さで、パイプベッドの横にはデスクが並んでいた。デスクの上にはパソコンが置かれ、傍らには数冊の辞書が積み上げられている。しかし、なによりたいへんなのは、壁一面を埋め尽くす本棚であった。文学書から医学関係の専門書に及ぶまで、数千冊とみられる本が隙間なく詰め込まれているのだ。そのタイトルと著者名を列記するだけで、優に一日を要するだろう。 「かなりの情報量だ」  安藤は認めた。 「だが、カシャリ」  宮下はカメラのシャッターを押すポーズを取った。 「写真で写せば一瞬で終わる。たった一枚の写真で、この部屋の情報はあらかた表現できてしまう。連続した映像となれば、許容量は膨大だ。山村貞子の全遺伝子の暗号化だって不可能じゃない」  言わんとするところは理解できても、やはり安藤はついていけない。 「ちょっと考えさせてくれ」  安藤は頭を振った。これまでのところを、自分なりにもう一度筋道をたてて考えてみたかった。 「考えていろ、おれは小便してくる」  宮下はドアを開けたまま、廊下の奥に消えた。  宮下の言うことはもちろん仮説に過ぎない。彼の説くメカニズムの真偽はともかく、高野舞は、受精後一週間で、山村貞子を産むことになった。それだけはまず間違いない。受精から出産まで一週間という短さだ。細胞分裂を促進させる何らかの作用が働いたことになる。細胞の核には核酸と呼ばれる化合物が多く含まれていて、核酸の量が一定以上に増えなければ、細胞分裂は行われない。したがって、分裂の回数を飛躍的に増やすためには、核酸を余分に供給する必要が出てくる。リングウィルスは何らかの方法でこの点をクリアし、胎児の恐るべき促成栽培を可能にしたのかもしれない。  初めて高野舞の部屋を訪れたとき、だれもいないにもかかわらず、何者かが潜んでいる気配を感じた。気配は確かに間違っていなかった。あのとき、舞の部屋には、生まれたばかりの山村貞子が隠れていた。まだ小さかったのだろう。隠れようと思えば場所はすぐに見つけることができる。ワードローブもあれば、流しの下の戸棚もある。そんなところまで安藤は調べはしなかった。しかし、彼女はその幼さ故、バスルームで無様な格好をさらした安藤を見て、思わず笑ってしまった。安藤のアキレス腱《けん》に触れたもの……、それはたぶん山村貞子の手だ。  彼女は、主人のいなくなった部屋を乗っ取り、人目に触れることなく成長を遂げた。成人の女に達するまで、一週間もあれば充分だったのだろう。そうして、二度目に高野舞のマンションを訪れたとき、山村貞子は成熟した女となってドアから姿を現した。  そこまでのところを、安藤は何度も頭の中で反芻した。山村貞子の誕生と成長はどうにか理解できたつもりだった。自分の体験と重ね合わせても、矛盾するところはない。  しかし、この先のことはどうだろうか。一週間で大人に成長し、その後も同速度で成長を続けるとすれば、彼女の寿命は数週間ということになってしまう。山村貞子が甦ったのは、昨年十一月の初旬だ。既に十週間が経過している。にもかかわらず、彼女の肌は十九歳の若さを保っていた。成人するというのは、死んだ時点の年齢に達すると取って構わないのか?  宮下は濡れた手を振りながらトイレから戻ると、さっそく口を開いた。 「もうひとつ忘れてはならないのは、天然痘ウィルスが重要な役割を果たしているということだ」 「確かに、天然痘ウィルスと山村貞子は、強い協力関係にある」  死ぬ直前に、長尾城太郎から天然痘ウィルスを移され、井戸の底でゆっくりと時間をかけてブレンドされ、熟成されていったかのようである。不本意な滅亡に追い込まれてしまった両者は、いつの日にか甦ろうという共通の思いを募らせた。 「そこで、だ。浅川順一郎が『リング』を出版するというのは、本当なのかい?」 「間違いない。S書房の小冊子に予告が載っていた」 「なるほど。山村貞子と天然痘……、二本の紐《ひも》が一本に編み込まれたのが魔のビデオテープだとすれば、今、編み込まれた紐は解《ほど》け、進化を遂げ、二本の紐に戻ろうとしている。一本はもちろん山村貞子。もう一本は『リング』ってわけだ」  この点に関して、安藤は異存がなかった。生命と非生命の境界線をさまようウィルスとは、ほとんどが遺伝情報だけの、環境に左右されながら、ダイナミックに自身を変えてゆく存在である。「ビデオテープ」という形態が、「本」という形態に変わったとしてもそう驚くにはあたらない。 「だから、浅川和行は生きていたのか」  謎は解けた。つまり、出口はふたつあったのだ。ひとつは山村貞子、もうひとつは『リング』というレポート。だから、高野舞と浅川和行は、冠動脈の閉塞《へいそく》による死を免れた。「生み出す」という行為の担い手である以上、そう簡単に命を奪うわけにはいかない。当然のことだ。高野舞の身体に侵入したリングウィルスが子宮に向かったとすれば、浅川和行の身体に侵入したリングウィルスは脳に向かった。『リング』を書いたのは浅川和行ではない。彼は書かせられたに過ぎない。彼の脳に入り、書くように仕向けたのは、山村貞子のDNAだ。だから、あたかもビデオカメラで撮影したような正確さで、描写することができた。しかし、主体である山村貞子の人物描写だけが、正確さを欠いてしまった。カメラのファインダーを覗《のぞ》く人間が、決してフィルムに写らないのと同じ理屈である。  安藤と宮下はしばらく黙って、この後の展開を予想した。  山村貞子と『リング』は人類にどんな影響を与えようとしているのか。明日以降の血液検査の結果を待つまでもなく、しかるべき手段を用いて、『リング』の出版を差し止めなければならない。浅川順一郎は、自分の名前で出版する本が、どれほどの災厄を人類にもたらすか全く理解していないのだ。まずそこからアタックすべきだろう。著者本人を説得し、出版の意志を翻させる。果たして彼が申し出に応じるかどうか。第一、こんな荒唐無稽な話をそう簡単に信じるとも思えない。 「さ、行こう」  膝を思いっきり強く打って、宮下が立ち上がった。 「行こうって、どこへ?」 「決まってるじゃないか、おまえの部屋だ」 「言っただろ。おれの部屋には山村貞子がいる」 「だから、行く。対決するんだ」  安藤は躊躇《ちゆうちよ》した。 「ちょ、ちょっと待ってくれ」  山村貞子から逃れてここに来たのだ。そう簡単に戻る気にはならなかった。 「ぐずぐずしてる暇はない。なあ、わからないのか。おれたちは完全に巻き込まれてしまったんだ」  疑う余地はない。『リング』を読んだ以上、何らかの影響が現れるのは目に見えている。だが、安藤にはもうどうでもよかった。死それ自体はそれほど恐くはない。息子が健在で、妻に愛されていた頃、安藤は死ぬことを異常に恐れていた。だが今は……。  宮下は、安藤の脇の下に手を入れ、強引に立ち上がらせようとした。 「早くしろ。今が最後のチャンスかもしれない」 「チャンス?」 「山村貞子は、自分から、おまえの部屋にやってきたんだろ」 「ああ、そうだ」 「じゃ、何か理由があってやって来たんだ」 「どんな?」 「知るか、そんなこと。たぶん、おまえに用があるんだ」  安藤は思い出した。二度目に会った別れ際、彼女はこんなふうに言った。  ……今度改めて、お願いに上がりますわ。  宮下に引きずられて書斎を出ながら、安藤は考えた。どんな頼みかは知らないが、あまり聞きたくはない、と。 8  代々木公園に沿った道路に車を停めて歩道に降り立ち、安藤と宮下はマンションを見上げた。安藤の部屋の明かりは消えている。ほうほうの体で逃げ出してから優に三時間が経過し、時刻は午前一時に近い。 「おい、本当に奴はいるのか」  宮下は声を低めて、安藤に聞いた。山村貞子を「奴」と呼んだのは、これからのご対面に備え、勇気を奮い起こすためだろう。 「寝てるのかもしれない」  部屋はしんと静まり返っている。外から眺めただけでは、彼女がいるかいないか判断のしようがなかった。 「死から甦《よみがえ》った化け物にも睡眠が必要ってわけか」  宮下の言い方には皮肉が込められている。こんなところで寝るぐらいなら、わざわざ長い眠りから覚めなくてもよかったのにと。  人通りの絶えた歩道に立ち、安藤と宮下はしばらく四階の窓を見上げていた。 「さ、行こうか」  宮下は士気を鼓舞して歩きかけた。安藤は黙って後に従う他なかった。しんしんと夜気が迫り、身体の芯《しん》まで凍えて、これ以上歩道に立ち続けられそうにない。もっと暖かければ、安藤は自分の部屋に戻るのを躊躇《ちゆうちよ》し続けただろう。  宮下に促され、安藤は覚悟を決めてドアノブを回した。内側から鍵は掛けられてなく、あっけなくドアは開いた。人のいる気配はない。玄関の三和土《たたき》からはパンプスが消え、山村貞子の唯一の持ち物である小さめのボストンバッグもなくなっている。部屋を飛び出すとき、安藤は確かに、ボストンバッグが玄関先に無造作に置かれているのを見たのだ。  安藤は先にたって部屋に進み、明かりのスイッチを入れた。予想通り、部屋はもぬけのからだ。  緊張の糸が切れ、安藤はへなへなとベッドに腰を沈めたが、宮下のほうは五感を充分に研ぎ澄まして、バスルームやバルコニーを覗《のぞ》いたりしている。 「いないようだ」  自分の目で確かめて、宮下はようやく納得した。 「どこに行っちまったんだろう」  安藤はそう呟《つぶや》いてみる。本当は、貞子がどこに行こうがどうでもよかった。正直なところ、これ以上関わり合いたくはない。 「心当たりはないか」 「ない」  安藤は即座に首を横に振った。そうして、ふと気付いた。窓際のデスクの上に、ノートが開かれたまま置かれているのを。安藤は、ここしばらくノートなど開いたこともなかった。  安藤は立ち上がってノートを手に取った。数ページにわたって、文字が乱雑に書き連ねてある。宛名は「安藤様」で、文末には山村貞子の署名。山村貞子から安藤に宛てられた置き手紙である。  最初の一行を黙読してから、安藤は宮下のほうにノートを差し出した。 「なんだ」 「山村貞子からの伝言だ」 「ほう」  宮下はノートを受け取ると、頼まれてもいないのに声を出して読み始めた。 (安藤様。これ以上あなたを驚かすわけにもいかず、置き手紙などという古風な手段を取ることにしました。どうか冷静な頭で読んで下さい。  わたしがどこから現れたのか、たぶんあなたはもうお気付きのことと思います。高野舞という女性の腹を借り、この世への再生を果たしたのです。どんな仕組みで生き返ることができたのか、わたし自身面喰らっている次第です。  南箱根療養所に入院していた父を見舞った折り、医学部の助教授であった父から、遺伝の話はよく聞かされてはいました。ですから、遺伝に関する知識なら少しはあります。突飛な空想かもしれませんが、わたしの念写能力によって、遺伝子の全情報が他のなにかに焼きつけられてしまった、とは考えられないでしょうか。今になって思い起こせば、死の間際、確かに、自分の遺伝情報がなんらかの形で残ることを念じました。再生を願うというより、山村貞子という生命情報がだれにも知られず井戸の底で朽ちてゆくのが、たまらなく嫌だったのです。その結果どうなったのか……、たぶん専門家であるあなたのほうが、わたしの身に起こったことをじょうずに説明できるのではないかと思います。  古井戸の底で死んだわたしの心は、ある女性の中で徐々に形をなしていきました。自分を意識できるようになったとき、鏡の中に見たのはわたしの顔ではありませんでした。最初のうち、何が起こったのかまったくわかりませんでした。顔も身体つきもわたしでない他の女の人のもの。しかし、そう思っているのは確かにわたし自身。おまけに見慣れない街並み。近代的な車の列。コンクリート製の小さな部屋。電気器具。部屋のカレンダーを見れば、あっという間に二十五年近く流れている。どうもわたしの魂は死体から抜け出して、二十五年後にほかの人の肉体へ潜り込んでしまったらしい。肉体を奪われた哀れな人が、高野舞という女性でした。  高野舞がわたしを産んでから、わたしの意識が誕生したのではないのです。彼女の子宮の奥で山村貞子という種が芽吹き、成長するにつれ、わたしの意識は徐々に大きくなり、高野舞という肉体の主人におさまりました。出産する直前、わたしは高野舞の子宮に陣取って、彼女を完全に支配したのです。  わたしは母体と胎児と両方の視点に立ち、ものに触れ、感じることができました。小さな手で、わたしは波のようにうねる卵管のひだに触れ、やわらかな感触を確かめたりもしました。  さて出産が迫ってくると、わたしはひとつのことが気にかかり始めました。生まれたのち、高野舞の身体はどうなるのかという疑問です。高野舞の魂が舞い戻り、再び高野舞という人格が完成するのでしょうか……、どうもそうは思われません。どことなく、今借りている肉体が、蝶にとってのさなぎのように思われてならなかったのです。蝶に成長したのち、さなぎだけで生きられないのと同様、役目を終えた肉体はただの抜け殻になるような気がしました。自分勝手な、都合のいい解釈かもしれませんが、高野舞という人間は、魂を奪われて死んでしまったと判断したのです。  それはつまり、自分がどこで産まれるべきかという問題でした。高野舞の部屋で産まれれば、やがて朽ち果てることになる肉体の処理に困ります。胎児の成長の速さから想像して、成人するまでにそれほどの期間が必要とは思わなかったけれど、生活する場は確保しなければなりません。その場所としてもっとも相応《ふさわ》しかったのが高野舞の部屋でした。  となれば、近所の人目につかないところでこっそりと産まれ、抜け殻をそこに残し、自分だけ部屋に戻る以外に、方法があるとは思われません。まさにあのビルの屋上はうってつけでした。屋上の排気溝ならしばらく抜け殻は発見されないだろうし、しかもその間、高野舞の部屋を自由に使うことができます。  臨月が近づくと、わたしは準備万端整え、深夜にビルの屋上に上り、紐を鉄製の網に結んで排気溝の中に降りました。途中足を滑らせてくじいてしまったけれど、母体に影響はなく、予定通りわたしはこの世への再生を果たしたのです。子宮から這《は》い出すと、わたしは口と手で臍《へそ》の緒を切り、用意しておいた濡《ぬ》れタオルで身体を拭《ぬぐ》いました。産まれたのはまだ日が昇らない早朝。上を見上げて初めて、自分が死んだ井戸の底と、ビルの排気溝がそっくりなのに気づき、驚いてしまいました。  それは神が用意した通過儀礼のようでした。自力で穴の底から這い出せ、そうしなければ新しく生まれ変わったこの世界に適応できない……、神が与えた一種の試練のように思いました。でも難しくはない。排気溝の縁からは紐が垂れ下がっています。わたしは紐を伝わって難なく、穴の外に出ることができたのです。東の空は徐々に明るくなり、街も一緒に目覚めつつあった。空気をおもいっきり吸い込んだわ。文字通り、生き返った気分。  それからの一週間で、わたしは死んだときと同じ年齢に成長しました。不思議なことに、わたしには再生する前の記憶が全部残っていました。伊豆大島|差木地《さしきじ》で生まれたこと、超心理学の被験者である母に連れられて各地を転々とする生活、晩年の父の療養所暮らし……、全部覚えていました。どういうことなのでしょう。記憶というのは脳のひだに刻まれるのではなく、遺伝子の中に蓄積されていくものなのでしょうか。  もうひとつ、以前のわたしと異なっている点を、わたしは肉体の奥に感じることができました。自分の身体の変化に関しては、ただ直感でしか理解することができません。でも、間違いない。以前の自分とは違っている。どうも子宮と睾丸の両方を持っているようなのです。以前のわたしには子宮がなかった。しかし、生まれ変わったわたしは両方とも持っている。完全な両性具有。おまけにわたしの中の男性は、射精することができる。この点はあなたとの行為によって確かめさせてもらいました)  宮下はそこでノートから顔を上げ、安藤の顔色をちらっとうかがった。安藤は、山村貞子と交わったことを冷やかすつもりなのだろうと邪推し、 「いいから続けろ」  と先を促す。  だが、宮下はほかのところに興味を引かれたようだ。 「完全なる両性具有……、もしあの女、いや、もう女とは呼べない。あいつが、生殖行為なしで子供を生めるとしたら、えらいことになる」  雌雄の結合なしで生殖できる生命は下等なものに多く、たとえばミミズはひとつの身体の中に雌雄を同時に持ち、卵を産む。単細胞生物が細胞分裂するのも無性生殖のうちである。男女の営みなく子供を産めるとすれば、産まれてくる子供は、親と同じ遺伝子を持つことになってしまう。つまり山村貞子が山村貞子を産むのだ。果たしてそんなことがあり得るというのか。 「そんなことになれば……」  安藤は不安げな視線を宙にさまよわせた。 「もはや、山村貞子を人類と呼ぶことはできない。新種だ。新しい種は突然変異によって産まれる。おれたちは進化をこの目で見ていることになる」  安藤はその先を考えようとした。問題は、山村貞子という新種がどうやって定着するかだ。突然変異によって新しい種が登場した場合、ある個体を選んで繁殖しなければならなくなる。  例えば、数千頭の白い羊の群れに、一頭だけ黒い羊が産まれたとする。その黒い羊は白い羊と生殖する他ないのだが、産まれてくるのが白や灰色の羊だとすれば、生殖を繰り返すうちに「黒」という特色は薄まり、やがては消えてしまうことになる。同時に、雌雄二頭以上の黒い羊が産まれなければ、「黒」という特色は次代に引き継がれないのだ。  山村貞子の場合、この難関は既にクリアしている。彼女が無性生殖できるとすれば、特定の個体を選んで生殖する必要はない。単独で勝手に増えていけば、「山村貞子」という特色をそのまま次代に伝えることができる。  しかし、山村貞子がひとりの山村貞子を産んでいくとしても、その増え方は緩慢だ。ビデオテープを一本一本ダビングするのとそう変わらない。もたもたしているうちに、人類に追いつめられ殲滅《せんめつ》されてしまう恐れがある。現に、魔のビデオテープは消滅してしまった。定着するためには、同時多発的かつ飛躍的な増殖が不可欠だろう。人類の住んでいる場所を奪い、その隙間《すきま》に一気に流れ込むような方法で、山村貞子は生存の場を確保しなければならないのだ。爆発的に繁殖する方策を、山村貞子は持っているのだろうか。  安藤の思考を妨げるように、宮下は、手紙の先を読み始めた。 (長々と書いてきましたが、これまでのところに嘘《うそ》偽りはありません。わたしはただ、自分の身に生じた異変を、正直にあなたに語ったまでです。なぜ、そうしなければならなかったか……、あなたに理解してもらいたいからです。理解してもらった上で、実は、おりいってあなたにお願いしたいことがあります。なぜ、あなたでなければならないのか。あなたが専門の知識を持ったエキスパートだと信じるからです)  ……そらおいでなすった。  安藤は本能的に身構えた。もし、自分の手にあまる「お願い」であったらと、それを思うと不安は高まる。 (まず第一に、『リング』の出版を差し止める要求をしないでください)  ……別に不可能なことではない。何もしなければいいってだけだ。 (それ以外にも、わたしがやろうとすることを邪魔しないで、協力してほしいのです。  聞いていただけるでしょうか。脅迫するつもりはありませんが、わたしの邪魔をするとあなたにはよくないことが起こります。なにしろ、あなたはもう『リング』なるものを読んでしまったのです。手遅れと思ってください。逆らえば、あなたの身体にちょっとした異変が起こります。でも、勇敢なあなたは、死を覚悟してわたしに反抗しないとも限りません。ですから、願いを聞き届けてくれた場合には、わたしはあなたにご褒美を出さなくてはならないと思います。ただってわけにはいかないもの。いかがでしょうか、わたしがあなたのためにできること、たぶんあなたが一番欲しがっているもの、それは……)  宮下はそこで言葉を止め、安藤のほうにノートを差し出した。この後の内容は自分の目で読んでほしかったのだろう。  書かれた文章を目にするや、安藤はノートを手から落とした。一瞬で思考力は奪われ、身体からすべての力が抜けてしまった。まさかこんな条件を提示されるとは思ってもいなかった。宮下は、安藤の心中を察してか、言葉をかけようとしない。  安藤はいつの間にか目を閉じていた。山村貞子は人類を裏切れと甘く囁《ささや》きかけてくる。山村貞子という新しい種の側に立ち、味方となって動けと言うのだ。人類の側に何人かの協力者がいなければ、「山村貞子」という種が生き残れないことを、彼女は正確に理解している。たとえば、『リング』を出版しようとしている浅川順一郎は、既に彼女の手足となって働いている。彼自身まだ意識してないだろうが、彼を動かしているのは、間違いなく山村貞子だ。  しかし、魂を売り渡すことへの見返りはあまりに甘美だった。何度同じ夢を神に祈ったことか。けっしてかなえられない夢。  ……可能なのだろうか。  彼は自問する。目を開けて正面の本棚を見た。本と本の間に挟まれた封筒には、それが入っている。医学的には可能だ。山村貞子の力を借りれば、本当に手に入るかもしれない。  ……しかし、だからといって。  安藤は苦悶の声を漏らした。今、山村貞子を阻止しなければ、人類にどれほどの災厄が降りかかるかわかったものではない。人類の一員であるはずの自分に、そんな裏切りが許されるとでもいうのか。山村貞子を阻止する方法……、最終的には抹殺する以外にないだろう。しかし、彼女の肉体が滅んでしまったら、夢は永遠にかなわない。彼女の肉体を健康に保たなければ、夢は絶対に実現しないのだ。  安藤の苦悶は嗚咽《おえつ》へと変わっていった。ベッドに伏せ、胴を震わせる彼の瞼《まぶた》にはひとつの面影が浮かび、拭っても拭っても消えることはない。 「おい、宮下。おれはどうすればいい?」  ひとりで決定を下すのは無理だった。彼は涙声で宮下にすがった。 「おまえの問題だろ」  冷たい言い方ではなかったが、宮下の声は沈着冷静だった。 「わからないんだよ、どうしたらいいのか」 「考えてみろ。山村貞子の邪魔立てをすれば、おれとおまえはたちどころに抹殺され、あの女は別の協力者を捜す。ただそれだけのことだ」  確かに宮下のいう通りかもしれない。冷静に考えれば明らかだ。安藤と山村貞子とのこれまでの出合いは、別に偶然でも何でもなかった。常に見張られていたのだ。高野舞のマンションでの出合いも、ビルの屋上での出合いも、参宮橋の駅での出合いも、すべて偶然ではなかった。彼女は、安藤が嗅ぎつけ、真相に近づくのを予期し、先手を打ってきた。山村貞子を出し抜くことなど絶対に不可能と思われた。妙な素振りを見せただけで、体内に潜入したリングウィルスが暴れ出すに決まっている。  宮下はこの点をふまえ、とっくに結論を出していたが、安藤はまだ決心をつけかねている。 「彼女に協力しろっていうのか」 「他に方法はない」 「じゃあ、人類はどうなる?」 「おいおい、人類の使者のような顔をするな。第一、おまえはもう決めているんだろう。あれだけのご褒美が手に入るんだぜ。チャンスを逃すっていうのか」 「不公平だな。おまえは何ももらえない」 「保険にはなるさ。いざというときのな。しかるべき準備さえ怠らなければ」  安藤は、自分が抜きさしならない立場に追い込まれたことを実感した。何年何十年か先になって、自分の名前が歴史に刻まれるかもしれないのだ。ヒーローとしてではない。人類を滅亡の淵《ふち》に追い込んだ裏切り者というレッテルを貼られ……。しかし、それもこの先人類が存続すると仮定しての話だ。絶滅すれば、歴史自体が消えてしまう。  ……そもそもなぜこんなことに足を踏み込んでしまったのだ。  後悔の念と共に、安藤は事の発端が何だったのかと、思い返してみる。幕開けは、忘れもしない。解剖直後に、竜司の腹から飛び出した『リング』という暗号だ。その暗号によって、安藤は『リング』という文書が存在することを知らされ、読んでしまうはめになる。読みさえしなければ、巻き込まれることはなかった。読みさえしなければ……。  安藤の思考は一旦途切れた。待てよ。何かが変だ。 「竜司……」  口に出してつぶやくと、宮下が怪訝《けげん》な顔で覗き込んでくる。構わず安藤は、思考を押し進めた。偶然と思われていたものの背後に、ひとつの意思が見え隠れする。竜司は、好意で『RING』や『MUTATION』という暗号を送ってよこしたのだろうか。「気づけ」という注意をうながすためにか? なんだか違うような気がする。脇道に逸《そ》れようとしたとたん、軌道修正を促すようにメッセージをよこしたとしか思えない。なぜ、あいつはそんなことをしたのだ。  もうひとつ。そもそも高野舞が魔のビデオテープを見ることになった原因は何だ。排卵日にビデオテープを見るという偶然が重ならなければ、山村貞子は生まれてこなかった。高野舞はどこでテープを手に入れた?  ……竜司の部屋だ。  高野舞はなぜ竜司の部屋に行った?  ……竜司の原稿が落丁していたためだ。  本当に落丁していたのだろうか?  ……竜司だけが知っている。  全てに竜司が関わっている。  ……竜司、竜司、竜司。  高野舞と親しく交際していた竜司なら、彼女の生理の周期を知っていたとしてもおかしくない。高野舞は、まさにその日に、竜司によって導かれた。  ……なんてこった。  怪訝《けげん》そうに目を細める宮下に顔を向け、安藤は押し潰《つぶ》した声でその名前を口にした。 「おい、竜司だ」  宮下は意味がわからず、さらに目を細める。 「わからないのか。竜司だ。山村貞子の裏で糸を引いているのは、竜司だ」  繰り返し同じ名前を口にするうち、安藤は、自分の仮説が真実であると確信するに至った。みんな竜司に躍らされていたのだ。シナリオを書いたのは、あいつだ。  窓の外では、都会の夜の音が低く渦を巻いている。首都高速を流れる車が、なにか重い物を引きずる、耳障りな音をたてた。ガラスを爪で引っ掻《か》くようないやな響きだ。その音が、男の高笑いに変わったように思える。はるか遠くで湧き上がる不気味な声。竜司の声に似ている。安藤は虚空を見つめた。 「竜司、そこにいるのか」  もちろん返事はない。だが、安藤ははっきりと気配を感じることができる。山村貞子とぐるになり、人類を狩る遊びに熱中する男は、今この部屋に潜み、動向をうかがっている。今頃気付いてももう遅いと、嘲《あざけ》り笑いながら……。  安藤は悟った。差し当たっての竜司の望みが何なのか。自分が手を貸さなければ、竜司はそれを手に入れることができない。安藤は、竜司の魂胆をようやく理解した。しかし、だからといってどうにもならない。もはや手遅れ、先手を打つことはできない。安藤は、闇に身を潜めて含み笑いを漏らす竜司に、声を合わせる他、術がないのだ。 エピローグ  梅雨とは思えないほどよく晴れた日に、安藤は海を訪れていた。二年前のこの日、この浜で、息子は溺《おぼ》れた。息子を溺死《できし》させた唾棄《だき》すべき海。去年も来たわけではない。だが、今年の命日には、どうしてもここに来なければならない理由があった。  二年前とは打って変わって、波は静かに寄せている。白い砂の広がる浜辺では、数人の釣り人が釣り糸を垂らしていた。夏にはまだ早く泳ぐ者はだれもいない。二、三組の家族がシートをひろげ、ピクニックを楽しんでいるだけだ。  安藤は、二年前のあの日に戻ったような感慨にとらわれた。波の大きさは違うし、いつ作られたものか、防波堤が沖のほうに伸び、そのせいで砂浜の形状も変わっている。だが、安藤には、何もかもが同じに見えた。この二年間、悪夢を見ていたのだ。そうとしか思えない。  浜を見下ろすように堤防に腰をかけ、安藤は、真夏を思わせる日差しを正面から受けていた。手で庇《ひさし》を作り、波打ち際で遊ぶ小さな影に目を凝らす。波打ち際といっても、小さな影は決して水に近づこうとせず、裸足で乾いた砂の上にしゃがみこみ、穴を掘ったり砂を積み上げたりして遊んでいる。安藤はそこから目が離せなかった。  ふと名前が呼ばれたような気がした。空耳かとも思ったが、安藤は顔を上げて、前後左右を見回した。堤防の上を一直線に近づいてくるずんぐりとした男が目に入った。  男は、ストライプの入った長袖シャツを着て、一番上のボタンまでしっかりはめていた。胸から二の腕にかけての筋肉の盛り上がりはすばらしく、はち切れんばかりだ。短い首には二重三重に皺《しわ》がより、見ているだけで息苦しさを覚える。四角ばった顔に汗を浮かべ、息を切らしながら、男は、コンビニのビニール袋を前後に揺らしていた。  見覚えのある顔だった。この顔を最後に見たのは、去年の十月、監察医務院でのことだった。  男は、安藤の横に腰をおろし、肩を触れ合わせてきた。 「よお、久しぶりだな」 「…………」  安藤は、男と目を合わせようとせず、波打ち際で遊ぶ小さな影だけを目で追っていた。 「行き先も告げずに消えちまうたあ、水臭いじゃねえか」  男はそう言って、ビニール袋から冷えたウーロン茶を取り出し、喉《のど》を鳴らして飲み干していく。あっという間に飲み終えると、もう一本袋から取り出し、安藤のほうに差し出した。 「飲むか」  安藤は黙って受け取ると、男の顔も見ずにプルリングを引き上げた。 「なぜここがわかった」  安藤は落ち着いた口調で尋ねた。 「宮下から聞いたのさ、今日がおまえの息子の命日だってな。ま、だいたい想像がつくってもんだ、おまえの考えていることぐらい」  男はそう言って笑った。 「ところで、何か用でもあるのか」  押し殺した声で、安藤が聞《き》く。 「電車とバスを乗り継いでここまで来たんだ。もうちょっと歓迎してくれてもよさそうなもんじゃねえか」 「無理だ」  安藤は容赦なく言い捨てる。 「け、薄情な奴」  薄笑いを浮かべたまま、男は口をとがらせた。 「薄情だと。よくそんなことが言えるな。だれのおかげで、こうしていられると思う?」 「おまえには、感謝してるさ。おれの期待通りに動いてくれたんだから」  安藤は、この男に弄《もてあそ》ばれてきたことを、今更ながら思い知らされた。学生時代、暗号遊びに凝っていた頃、出題された暗号がどうしても解けず、逆にひねりにひねって作り上げた暗号をあっさりと解読されたとき、悔しくもあったが、その手際のよさにすがすがしさを感じたものだ。だが、今は違う。いいように利用され侮辱されたという思いのみが強く、賞賛の気持ちなど一向に湧かない。  安藤は、自分たちの手で産み出した男……、高山竜司の横顔を見つめた。見られるものなら、竜司の頭の中を覗き見たかった。そして、この男が何を考えているのか知りたかった。安藤は、去年の十月、実際に竜司の大脳に指で触れていることを思い出した。指で触れ、この男の思考の一部でもわかったかといえば、そんなことはない。わからないまま、暗号をつきつけられ、今回の事件に巻き込まれてしまった。もし、あの日、監察医務院で、高山竜司の遺体を解剖しなければ、関わり合いにならずに済んだのだ。 「おまえにとっても、これでよかっただろ」  恩着せがましく、竜司は言う。 「わからない」  本当に、彼にはわからないのだ。これでよかったのかどうか。  波打ち際で、小さな影が立ち上がり、安藤のほうに手を振ってよこす。それに対して首を伸ばすような仕草をすると、砂を蹴り上げながら、小さな影が近づいてきた。  安藤の正面で、影は立ち止まり、言った。 「パパ、喉が乾いた」  安藤は、竜司からもらったウーロン茶を、息子のほうに差し出した。受け取るとすぐ、息子は缶に口をつけた。  すぐ目の前で、息子の白い喉が伸びている。冷えた液体が喉を通る様が見えるようだ。確かな肉の動きがあった。  竜司の顔に浮かぶ脂汗に比べれば、三歳半の息子の首筋を伝う汗の滴は、まるで水晶のようだ。安藤には、これが同じ汗とは思われない。 「よお、同類。もう一本飲むか」  竜司は息子に声をかけ、ビニール袋に手を差し入れてごそごそと探った。  同類、という言葉が、安藤には引っ掛かった。確かに、ふたりは同じ子宮から誕生した。それだけが、安藤にはおぞましい。  息子は、竜司に向かって首を横に振り、飲みかけのウーロン茶を頭の位置に持ってきた。 「これ、飲んじゃっていい?」 「ああ、いいよ」  安藤が言うと、息子は、缶を振りながら波打ち際に戻っていく。空き缶に砂を詰めて遊ぼうという心積もりなのだろう。その背中に向けて、安藤は叫んだ。 「孝則!」  息子は、立ち止まって振り返る。 「なに?」 「まだ海に入るなよ」  わかった、というようにニコッと笑みを浮かべ、息子は再び背を向けた。  わざわざ念を押す必要もなかった。溺れた瞬間のことが甦るのか、息子はまだ水を恐《こわ》がっている。自ら海に入るはずはないのだ。わかってはいても、安藤はつい余計なおせっかいを焼いてしまう。 「かわいい子じゃないか」  竜司に言われるまでもなかった。かわいいに決まっている。宝物だ。一度失ったかけがえのない宝物。そして、この存在を取り戻すために、安藤は人類を裏切ることになったのだ。それでよかったのかどうか、安藤の心は今でも揺れていた。  山村貞子の協力者となる見返りとして、彼女が提示した褒賞とは、二年前に溺死した息子の復活であった。  半年前、自宅マンションに置かれた山村貞子の手紙を、宮下と一緒に読んだ直後、安藤は、こんなばかげたことを信じる気にはならなかった。しかし、それも一瞬のことで、次の瞬間にはもう復活を信じる側に回っていた。第一、山村貞子という証拠を目の当たりにしている。しかも、息子のDNAを内包した髪の毛は、書棚に大切に保管されていた。息子の細胞が全く残っていなければ、復活は不可能だった。海の中で頭に触れ、指に絡みついてきた髪の毛がなければ、息子の遺伝情報は永久に失われていたに違いない。  科学的に見て、それほど難しいことではなかった。ただ必要なのは、山村貞子という特異な機能を備えた母体であり、それさえあれば、現代医学で充分に処理できる作業だった。  まず、雌雄両方の機能を兼ね備えた山村貞子の子宮で、精子と卵子を受精させる。男女の交わりなく、彼女はたったひとりで受精卵を子宮に着床させることができるのだ。次にこの受精卵を取り出し、受精卵のDNAと再生させようとする個体のDNAとを入れ替える。マニュピュレーターを使い、孝則の毛髪の細胞から核だけを取り出し、山村貞子の受精卵の核とそっくり入れ替えるという作業は、繊細なテクニックを要する。だが、専門家の手にかかればそう難しくもない。理論的には、DNAさえ残っていればはるか昔に滅んだ恐竜でさえ復活させることが可能なのだ。  核を交換し終えた受精卵は、元どおり山村貞子の子宮に戻され、あとは出産を待てばいい。胎児はほぼ一週間で山村貞子の子宮から這い出し、次の一週間で、DNAが最後に個体から分離した時点の年齢にまで成長する。孝則の場合、海で溺れかかったときに髪の毛が抜け、安藤の指に絡みついてきた。その髪の細胞からDNAを抜き出した以上、再生した孝則は、溺れた瞬間までの年齢に成長することになる。そして、記憶はDNA上のイントロン(遺伝情報をコードしていない部分)にも蓄積されるらしく、溺れるまでの記憶を完璧に取り戻していく。  安藤が今見ている息子は、かつての息子とまったく同一とみて間違いなかった。言葉遣いから癖まで、何から何まで昔のままだ。両親との思い出も、しっかりと彼の胸にしまわれているらしく、喋《しやべ》っていて違和感はない。  息子を安藤に与えるや、山村貞子はすぐ、見返りとして次の要求を提示してきた。安藤にとっては、予期した通りの展開だった。彼女が望んだのは、同じ方法で、高山竜司を復活させることである。孝則を再生させたのは、褒美というより、本番に備えての小手調べでもあったのだ。そもそも、解剖後に腹から数字を飛び出させたのも、リングウィルスのDNAに無理やり暗号を挿入させたのも、再生を果たそうという願望が竜司にあったればこそだ。そうして、思惑通り、彼は望みを果たし、現実の肉体を手に入れ、今、安藤の横に腰かけている。竜司こそ、山村貞子の強力なパートナーだ。  再生してからの竜司を見るのは、これが初めてだった。安藤は、竜司のDNAと受精卵のDNAを交換し終えるのを確認するや、後を宮下たちに任せ、行き先も告げず、息子だけを連れて彼らの前から姿を消した。竜司を誕生させた時点で、自分の役目は終わったと判断したのだ。竜司さえいればもはや自分の出る幕はない。山村貞子にとって最大の望みは、竜司という頼りになるパートナーを手に入れることであった。  一体いつ、山村貞子と高山竜司は結託したのだろうか。たぶん、DNAレベルでの交信がなされ、彼らはパートナーとして相手の価値を認め合い、協力し合えば互いの利益になると踏んだのだろう。  どっちにしろ、安藤にはさほど興味のない問題だった。彼が今、最も関心を寄せるのは、これからどうやって息子を育てるかということだ。考える時間を得るため、安藤は二ケ月前に大学を辞め、居所も定めず、日本の風景を見て回った。これというあてがあるわけではない。竜司と山村貞子からなるべく離れて暮らしたかっただけだ。  竜司は、ポケットを探って、アンプルをひとつ取り出し、 「ほらよ」  と安藤の前に差し出した。 「なんだ」 「リングウィルスからつくったワクチンだ」 「ワクチン……」  安藤は、硝子《ガラス》製の小さなアンプルを受け取ると、ためつすがめつ眺めた。  安藤と宮下は、血液検査の結果、陽性と診断されていた。予想通り、『リング』というレポートを読むことにより、リングウィルスのキャリアとなっていたのだ。いつ暴れ出すかわからないウィルスを体内に抱え込み、気掛かりな状態が続いていた。 「そいつを摂取すれば、ウィルスは抑えられるだろう。もう、心配することはない」 「おまえ、こいつを渡すためにわざわざやって来たのか?」 「なに、たまに海を見るのもいいさ」  竜司はそう言って、照れ臭そうに笑う。安藤は少し打ち解けた気分になってきた。家族と共にどこかに移住するとしても、リングウィルスのキャリアであっては安心できない。 「教えてくれないか、これから先、世界がどうなるのか」  胸ポケットにアンプルをしまうと、安藤はボタンをかけた。 「わからんな」  竜司はぶっきらぼうに答えた。 「わからんことはないだろう、おまえは、山村貞子と組んで、生物界をデザインするつもりなんだから」 「近い将来のことなら、わかる。だが、それから先となると……、このおれにもわかりゃしない」 「じゃ、近い将来でいい、聞かせてくれないか」 「『リング』が百万部を越えたよ」 「百万部か」  新聞広告等により、安藤はその事実を既に知っていた。新聞に印刷された「増刷出来」という文字が目に入るたび、彼の脳裏には「増殖」という言葉が浮かんだものだ。あっという間に『リング』は増殖を遂げ、ウィルスのキャリアは百万人を越えたのだ。 「しかも、映画化されるんだ」 「映画化? 『リング』がか?」 「ああ、主人公の山村貞子役は一般公募のオーデションで決まった」 「一般公募……」  安藤は、さっきから竜司の言った言葉を繰り返している。  竜司は突如笑い崩れた。 「一般公募だとよ。だれが山村貞子役を射止めたか、おまえ、知ってるか」  安藤は芸能界の事情に詳しくなかった。だれがオーデションを通ったかなど、知るはずもない。 「だれだ?」  竜司は身体を折って、笑い転げた。 「鈍い野郎だな。おまえもよくご存じの……」 「山村貞子、か」  その名前を口に出すや、安藤は事の重大性に気付いた。山村貞子はもともと女優志望で、高校を卒業すると同時に商業劇団に入団している。素人ではない。演技の素養を積んでいるのだ。オーデションを受けたとしても別段不思議はない。彼女の特異な能力を使えば、審査員の心を掴むなど手もないことだ。しかも山村貞子役。自分の役を自分自身で演ずる……。何のためか。安藤にはその魂胆がすぐに読めた。ビデオの映像に念を送るためだ。魔のビデオの映像シーンに、彼女は再度自分の遺伝情報を念写するつもりなのだ。一旦滅んだ魔のビデオテープもまた大量に復活することになる。  その結果どういうことになるか。映画がどれほどヒットするかわからないが、かなりの数の女性客が劇場に足を運ぶことになるだろう。映画を見たとき、ちょうど排卵期にあたる女性は、高野舞を襲ったと同じ悲劇に見舞われることになる。一週間後に、彼女たちは皆、山村貞子を産み、それぞれの身はさなぎとなって朽ちてゆく。  しかも、これがビデオ化されてレンタルビデオ店に置かれたり、テレビで放映されたりすれば、ビデオテープをダビングするのとは桁違いの速さで、映像は浸透することになる。同時多発的な、爆発的な増殖。しかも、増殖した山村貞子は、独自に子供を産むこともできる。またたく間に世界を席巻する方法を、山村貞子はたやすく手に入れてしまったのだ。 「マスメディアと山村貞子の交配だ」  竜司は、ようやく笑いやんで顔を上げた。 「早い時期に気づかれ、そんな映画はあっという間に駆逐されるさ」  映画だけではない。出回った本にしても、回収され焼却されるに決まっている。安藤は人類の巻き返しを、信じたかった。 「無理だ。なあ、メディアの担い手は既に百万人いるんだ。『リング』が滅ぼされたとしても、リングウィルスに感染した人間の手により、メディアは変貌を遂げる。ビデオテープが本という形態に変異したようにな。音楽、ゲームソフト、パソコンネットワーク、どんなところでも侵入可能だ。そして、新しく産まれたメディアと山村貞子の交配により、また新たにメディアが誕生し、それに触れた排卵期の女たちが山村貞子を産む」  安藤は胸ポケットに手を当て、リングウィルスのワクチンを確認した。このワクチンにしたところで、効果があるのはリングウィルスに対してのみで、変異したメディアに対しては何の効果もない。どんなメディアに変異するか予想がつかない以上、事前にワクチンを開発するのはまず不可能だ。人間は、常に後手に回らざるを得ない。こうして、山村貞子という新種は、人類の場を徐々に奪って繁殖し、やがては人類を滅亡の淵に追い詰めることになる。 「平気なのか、おまえはそれで」  人間が死に、その隙間を山村貞子が占めていくのを、平然と見ていられるわけがない。自分はともかくとして、積極的に事を行おうとする竜司の気持ちが、安藤には理解できない。 「おまえは人間の視点で眺めている。だが、おれは違う。たとえば、ひとりの人間が死に、ひとりの山村貞子が産まれる、プラスマイナスゼロだ。何も問題はない」 「わからない、とにかく、おれには理解できない」  竜司は、汗の浮かんだ顔をぐっと安藤のほうに近づけた。 「よお、今更ぐだぐだ言うんじゃねえよ。おまえはこっち側の人間なんだから」 「どうなるっていうんだ、そんなことをして」 「進化に介入できるんだ、それだけでも価値はある」 「進化……、これが進化か」  多種多様なDNAが、山村貞子というひとつのDNAに収斂《しゆうれん》し一本化していくこと……、果たしてこれが進化と言えるのかどうか。だが、考えてみれば、その点にこそ弱さがある。多様性があるからこそ、ペストに感染して死ぬ者もいれば、生き延びる者もいる。地球が氷河で被われたとしても、イヌイットなら生き延びるかもしれない。それもまた人種の多様性だ。しかし、多様性がなければ、ほんのちょっとしたきっかけで、種全体が滅んでしまう可能性がある。もし仮に、山村貞子が免疫系統に欠陥を持っているとすれば、その欠陥は全個体に継承され、ちょっとした風邪程度で大打撃を被ることになる。  そう願うしかなかった。山村貞子という種の寿命が尽きるのを待って細々と生きていくしか、人間に残された道はもはや有り得ないのだ。 「生物がなぜ進化するかわかるか」  竜司の問いに、安藤は黙って首を横に振る。世界広しといえども、この問いに絶対の自信をもって答えられる人間はいない。  だが、竜司は自信をもって言う。 「たとえば、眼だ。解剖学者のおまえにわざわざ説明することもないだろうが、人間の眼は恐ろしく複雑なメカニズムを持っている。偶然、皮膚の一部が角膜や瞳孔へと変化し、眼球から視神経が脳に延び、見ることができるようになったとは到底考えられない。眼というメカニズムができたために、ものが見えるようになったわけではないのだ。それ以前に、見たいという意志が生命の内部から浮上してこなければ、ああいった複雑なメカニズムなど形成されるはずがない。海の生物が陸に上がったのも、爬虫類が空を飛んだのも、偶然ではない。そうしたいという意志があったからだ。こんなことを言うと、大概の学者先生はお笑いになる。神秘的な目的論、唾棄すべき思想だと。  眼のない生物の世界を、おまえは想像できるか。地中を這《は》うミミズにとっては、暗黒の中で身体に触れてくるものだけが世界の全てだ。海底でゆらめくイソギンチャクやヒトデにしても、はりついている岩の感触や、海水の流れだけが、世界のすべてだ。そういった生命に、「見る」などという概念が簡単に生まれると思うか。まるで想像を絶することだ。宇宙の果てが見られないと同じく、絶対に認識し得ない類のものだ。だが、地球上の生命は、進化の過程のある一点で、「見る」という概念を手に入れた。陸に上がり、空を飛び、最後には文化を手に入れてきた。オランウータンはバナナを認識することはできる。だが、文化という概念を認識することは絶対にできない。認識しえないにもかかわらず、それを手にいれたいという意志だけがどこからともなくやって来る。一体どこから来るのか、おれにもわからない」 「ほう、おまえにもわからないことがあるのか」  皮肉を込めて、安藤は聞く。 「だから、いいか。人類が滅び、その隙間を山村貞子のDNAが奪うとすれば、それはつまるところ人類の意志ってことだ」 「滅亡を望む種があるものか」 「無意識のうちに、そう望んでいたのではないのか。一つのDNAに統一されれば、個体差はまったくなくなる。すべて同じ体型、能力や美醜の差もない。愛する者への執着もなく、戦争どころか喧嘩も起こらない。生と死を超越した、絶対平和の平等な世界。死はもはや恐るるに足らず。なあ、おまえたちは、それを望んでたんじゃねえのか」  竜司は安藤の耳に口を近づけ、囁くように言った。  孝則は、さっきから同じ姿勢で、空き缶に砂を詰めて遊んでいる。安藤はその姿にじっと目を凝らし、 「おれは違う」  と答えた。息子の存在は、別格だった。他の人間と同等に見る視点を、安藤は持ち合わせていない。今、彼は自信を持って、そう言える。 「へへ、ま、いいさ」  竜司は、曖昧に呟いて、腰を上げた。 「もう行くのか」 「ああ、ぼちぼちな。ところで、おまえはこれからどうする」 「メディアの届かない無人島かどこかで、親子仲よく暮らすほかないだろう」 「へ、おまえらしいな。おれは人類の最後を見届けてやる。行くところまで行けば、人智の及ばない意志が降り注いでくるかもしれない。見逃せないぜ、その瞬間を」  竜司は堤防の上に立って歩きかけた。 「達者でな、宮下によろしく」  安藤の声で、竜司は足を止めた。 「最後にもうひとつ、教えてやろう。人間はなぜ文化的に進歩を遂げたのか。人間は大概のことには耐えることができる。だがなあ、たったひとつ退屈にだけは我慢できない動物なんだ。全ての出発点はそこにある。退屈から逃れるため、進歩せざるを得なかったのさ。単一のDNAに支配されたら、さぞ退屈だろうなあ。個体差なんてなるべくあった方がいいんだ。でも、ま、仕方がねえか。そいつを望む人間がいるんだから。ところで、おまえ、無人島の生活だなんて、退屈だぜ」  さっと片手を上げ、そのまま竜司は去っていった。  どこに住むという、はっきりとした計画があるわけではなかった。未来は漠然とし過ぎている。綿密な計画をたてたところで、それが実現されるという見通しはない。もはや、行き当たりばったり、なるようにしかならない。  安藤はシャツとスラックスを脱ぎ、トランクス一枚の格好で、息子のほうに走り寄った。そして、息子の手を握って、立ち上がらせた。 「さ、行くぞ」  今日、これからやるべきことを、何度も何度も息子に話して聞かせてあった。二年前と同じように沖に泳ぎ出て、溺れる寸前で今度はしっかりとその手を掴む。二年前に掴み損ねた手を、互いに、今度こそしっかりと握り合うのだ。  山村貞子がビルの屋上の排気溝で再生したとき、そのシチュエーションは、自分が死んだ井戸の底にそっくりであったと置き手紙に書いてあった。そして彼女は、自力で溝の底から脱出して初めて、新しい世界への適応が可能になるという直感を得た。ならば、息子にも同じ儀式が必要ではなかろうか。安藤はそう考えた。二年前とそっくり同じシチュエーションを繰り返し経験させるのだ。  息子は水を異様に恐れている。克服しなければ、日常生活に支障をきたすほどの恐《こわ》がり方だ。濡れた砂の上を歩き、海水に踝《くるぶし》を洗われただけで、握っている手にびくんと力が入る。 「約束だよ、パパ」  唇を震わせながら、孝則は念を押す。 「ああ、きっとだ」  父の期待に応え、息子が水の恐怖を克服した場合の褒美は、既に用意してある。ママに会わせることだ。 「ママ、びっくりするだろうな」  別れた妻はまだ、息子が再生したことを知らない。妻と息子が再会する、その瞬間を思い浮かべると、安藤の気持ちは昂《たか》ぶった。辻褄《つじつま》の合う話を考えておかなければならない。たとえば、溺れ死んだはずの息子は実は漁船に助けられていて、記憶喪失のままこの二年間、別の場所で暮らしていたという程度の作り話で構わない。どんな荒唐無稽なこじつけも、孝則という生身の肉体に触れた瞬間、真実に変わってしまう。  夫婦として、やり直しがきくかどうかは、また別の問題だった。安藤には、その意志はある。妻を説き伏せる自信は半々というところだ。  一際大きな波がきて、息子の身体はすうっと浮き上がりかけた。小さな悲鳴を漏《も》らし、腰のあたりにしがみついてくる息子を横抱きにして、安藤は沖へと歩いた。皮膚を通して、息子の鼓動が伝わってくる。崩壊しつつある世界を前にして、唯一確かなのはこの鼓動だけだ。生きているという、確かな手応えがあった。 単行本あとがき  この小説は『リング』の続編であり、ぼくにとっては四本目の長編書き下ろしにあたる。前作がそこそこの評価を得たのに気をよくし、二匹目のどじょうを狙って続編を書いたわけではない。企画自体は『リング』が出版される以前からあり、シノプシスの段階で企画会議を通ってしまったのだ。結局、企画から完成まで五年近くかかってしまったことになる。  前作は、まるでハイビームでハイウェイを疾走するようなもので、ストーリーが向こうから迫ってきた。だが今回は、足元を小さなライトで照らしながら、ゆっくりと出口を捜すといった進み方で、途中、短編や中編の締め切りに追われて中断した期間を除いても、たっぷり三年を要してしまった。これほど苦労した作品はない。続編であるという手枷《てかせ》足枷に加え、前作を越えねばというプレッシャーがのしかかり、何度もスタートラインに立ち返って思考に思考を重ねた。だれも予想できないようなストーリー展開を心がけ、陳腐に流れそうになるや容赦なく捨て、一枚も書けない日が何日も続いた。作家にとって書けないということほど疲れることはない。  だが、書き終えた今、その疲れは心地いいものに変わろうとしている。深い溜め息とともに、自分でしか書き得ない小説を書き上げたという充実感を味わっている。  角川書店編集部の宍戸氏、堀内氏には心から感謝します。角川の誇る名コンビの援護がなければ、道はもっと険しかっただろう。  医学分野のよき相談相手になってくれた中野幾太医師に心から感謝します。氏のおかげで、荒唐無稽なストーリーにいくばくかのリアリティを持たせることができたと思う。  発想の転換を与えてくれた妻に、早く書き上げろと尻をひっぱたき、ワープロのプリントアウトを手伝ってくれた娘たちに、感謝。   一九九五年、六月二十一日 鈴木 光司 角川文庫『らせん』平成9年12月1日初版刊行